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平成4年1月4日、馬鈴薯を積んで岐阜の市場に向かったときの領収書が米原インターという謎

写真資料

業務日報

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高速道路の領収書

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疑問点

過去に乗り降りした記憶がない北陸自動車道の米原インター

 積み荷が馬鈴薯350ケース、玉ねぎ480ケースとなっています。実際は手書きで350c/sとなっていますが、この表記は他の業務日報でも記載を見かけていないように思います。

 芋の方は馬鈴薯とメークインがありましたが、どちらも10キロ箱だった記憶です。玉ねぎも同じ10キロ箱だったと思いますが、扱った数は少なかったですが当時玉ねぎの場合はもっと大きな箱が多かったような記憶です。

 平成3年8月31日から平成4年3月1日まで残る業務日報になりますが、全体的に馬鈴薯の仕事の数が多く感じられ、それも9月から11月前半になります。11月後半から2月は逆に実際より少なく感じられたのですが、これはセットになっていた和歌山のみかんの仕事の少なさがあります。

 平成3年の秋に石川丸果で東京に行った回数が記憶より多いのですが、これはすべて大田市場になります。

 岐阜の市場も記憶より行った回数が多くなっているのですが、この1月4日と10月4日あたりに行ったことだけは記憶がはっきりしています。

 他で書く予定ですが、岐阜市内の青果市場で荷下ろしをしたあと、岐阜羽島インターの手前あたりで、被告発人安田敏の自宅に電話をした記録があります。そのとき自販機でおみくじソーダを買っていました。普段やらないことだったのでよく憶えています。

 米原インターの場所は2,3日前にGoogleマップで確認しましたが、心当たりのない場所でした。米原インターというインターチェンジの存在自体、余り記憶になかったのですが、名神高速道路に接続する北陸自動車道の最初のインターチェンジで、米原バリアの料金所の先になるとは見当がありました。

 中国自動車道の兵庫県内山崎バリアも同じだったような記憶ですが、私が経験した範囲ですが日本では、米原バリアと山崎バリアだけが、通行券の引き換えになっていました。

 大きな米原バリアの先に米原インターがあったので目立たなかったとも考えられますが、金沢方面から米原バリアに向かうとその手前にパーキングエリアがあって、中西運輸商の頃は決まったようにパーキングエリアに入って、タイヤの状態を点検していました。

 米原バリアの料金所は撤去され跡地が残っているようです。近くにパーキングエリアが見当たらないのですが、3年ほど前にGoogleマップで名称が神田パーキングエリアだったと気がつくことがありました。

米原インターチェンジ から 神田PA (下り) - Google マップ https://www.google.com/maps/dir/%E7%B1%B3%E5%8E%9FIC%E3%80%81%E3%80%92521-0022+%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E7%B1%B3%E5%8E%9F%E5%B8%82%E6%A8%8B%E5%8F%A3/%E3%80%92526-0827+%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E9%95%B7%E6%B5%9C%E5%B8%82%E5%8A%A0%E7%94%B0%E4%BB%8A%E7%94%BA%EF%BC%91%E2%88%92%EF%BC%95+%E7%A5%9E%E7%94%B0PA+(%E4%B8%8B%E3%82%8A)/@35.3379235,136.2891009,7455m/data=!3m1!1e3!4m14!4m13!1m5!1m1!1s0x60022cde068b0bad:0x7a7bd68f6b41cf59!2m2!1d136.319534!2d35.3233456!1m5!1m1!1s0x60022c3e4c3a43c7:0xba2b268c94d858d5!2m2!1d136.3067266!2d35.3560613!3e2?entry=ttu

  もっと近かったような記憶となっていましたが、4.9キロとありました。

 Googleマップで長浜インターの場所の特定が出来ず、インターの側の店舗から神田パーキングエリアの距離が約5.9キロとなっていたのですが、しばらく前にも調べていた長浜インターと国道365号線の間の距離が気になり、Googleで調べたところ、上記の方法を初めて知りました。

 北陸自動車道で米原から金沢に向かうと、米原インター、長浜インター、木之本インターで、その次が福井県の敦賀インターとなっていた記憶です。このうち木之本インターだけが過去に何度か利用したような記憶となっています。

 長浜インターは九州方面から積んできた荷物を長浜市内で荷下ろしするのに一度降りたことがあるような記憶だったのですが、余りはっきりしない記憶で、中西運輸商で昭和60年頃になると思います。

 Googleマップで俯瞰すると、米原インターというのは思っていたより彦根市に近く、その分、岐阜市からは遠いことになります。

 米原というのは昭和40年代に母親と京都の親戚のところや大阪万博の行き帰りに、乗り継ぎとして停車した記憶が印象的なのですが、米原市内というのは長距離トラック運転手の仕事で通行した記憶がありませんでした。

 今、Googleマップでみると、米原市内から国道8号線が国道21号線に分岐しているとわかりました。この国道8号線バイパスから岐阜市内方面に向かったことも2回ぐらいはあったような記憶です。

 そのまま米原から国道8号線で長浜市内を通り、福井方面に国道で向かったことも2回ぐらいはあったような記憶です。近くの名神高速道路や北陸自動車道とは違い余り行く場所ではなかったので、それだけ印象にも残っています。

 24トンのミールを積んでいた平成4年2月3日は極力、米原バリアの通過を避けたいと思い、当初は福井県の敦賀インターで降りて国道161号線で九州行きのフェリーに乗る神戸に向かうつもりだったのですが、時間計算の見通しが甘かったことに気がつき、そのまま突破したところ米原バリアで警察官に呼び止められ、重量オーバーの反則切符となりました。

 少なくとも15トンになっていたミールを積んで、米原バリアを通過したという記憶ははっきりないのですが、馬鈴薯の場合はけっこう気に掛け、迷いながら通過していました。

 石川丸果の馬鈴薯の仕事は、1300個が多く、もっと数の多いときもあったような気がするのですが、業務日報ではずいぶん少なく感じるものが多くありました。

 記憶がはっきりしませんが、市場急配センターの大型ウィング車の場合は、最大積載量のシールが10250になっていたような気がします。金沢市場輸送の大型保冷車の方がはっきりした記憶で9250になっていたと思います。

 金沢市場輸送の大型保冷車の場合、重量オーバーで捕まることはなかったですが、そもそも台貫に載せられることがなかったように思います。違反というのは北陸自動車道の富山県内立山インター付近で、対向車のパトカーがインターで降りてUターンをしてきて、速度オーバーの反則切符をきられたことがありました。140キロのメーターを振り切る速度で走っていました。

 あとは、京都市内の広い道路で路上駐車の反則切符をきられました。夜でパチンコ店に入っていたことはよく憶えているのですが、鹿児島県阿久根市東町から養殖ハマチを満載にして、大阪の市場でおろし、そのあと京都の市場でおろしたのですが、夜10時の京都での荷下ろしの時間にあわせて時間つぶしをしていたのかもしれません。

 鮮魚の場合は青果と違い、市場での荷下ろしの時間が夜10時と決まっていました。売り場に直接並べることが多いので、氷が溶けたり鮮度が落ちるという理由のようでした。

 そのうち鮮魚をパレットに載せて荷下ろしする市場も増えていきましたが、そのまま冷蔵庫に入れるような市場はなかったように思います。

行きの米原インターと帰りの金沢西インターの領収書の金額の違い、という謎

 平成4年1月4日となっている米原インターの領収書は6000円、翌日の5日付となっている金沢西インターの領収書は5200円となっています。

 行きの6000円は、金沢西インターから米原インターの料金としか考えられません。金沢市場輸送の場合、平成2年に入ってからわりかし高速道路の使用が多く認められるようになったのですが、前は鮮魚でも高速道路を使わずに下道を走らされることがありました。

 金沢市場輸送の配車係の本恒夫社長との間で、もっとも強く衝突したと記憶にあるのが、茨城県鹿嶋市(当時は違っていたかも)からの空車回送でした。私の要求は通らず、どの程度の高速道路の使用が認められたのか憶えていないですが、帰り荷を見つけるのに待たされ、茨城県古河市で国道4号線を横切ったのは23時から日付が変わるような時間になっていたという記憶です。

 昭和62年の4月から5月の間になると思いますが、昼に同じような国道を走って茨城県古河市の国道4号線に出て、古河の青果市場で青果物を積んだことがありました。

 長崎県の長与農協からみかんをよく積んでいたのと同じ金沢の日栄運送の仕事でした。細かいことや正確なことは思い出せないですが、平成3年12月から始まった古河の青果市場の山三青果の仕事は、本恒夫社長が日栄運送から奪い取ったものだったのかもしれません。

 金沢市場輸送の事務所が金沢中央卸売市場の前にあった頃、ちょくちょくと日栄運送の専務と聞いていたのか、そういう人の姿を見かけていて、良好な関係でもあったようですが、その後、深く恨みを持たれるようなかたちで仲違いをしたと聞きます。

 金沢市場輸送は、その後、九州では帰り荷に富山県の池田運輸の仕事をするようになりました。九州の地元の駐在員が一人いるのは日栄運送と同じでした。

- (13/29/669647:検索:池田運輸)ツイート:@kk_hirono()2019-11-05 13:37:37
> 池田運送や高田町については、すでに一通り記述したものがあるかと思います。地元の駐在員のような若者がいて、名前の方は忘れましたが、同じ池田運輸の仕事で、佐賀県唐津市のは入り口のようなところにも出荷場があってミカンを積みにいっていました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1191575206524907520

高田町濃施
〒839-0215 福岡県みやま市

 福岡県に高田という地名は複数あるようです。みやま市というのは、近年になって見かけるようになった地名です。

 最初にそれかと思ったのが小郡市の近くの高田でした。この小郡市は数年前、現職の警察官が家族を殺害したという事件で知ったのですが、小郡という地名は、山口県山口市の近くで中国自動車道の山口インターの次になります。

 小郡市の周辺はよく行っていたので、福岡県で小郡という地名に気がつかなかったのは、不思議に思えていました。

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小郡市時代[編集]
1972年(昭和47年)4月1日 - 市制施行し、小郡市となる。
1988年(昭和63年)12月17日 - 一部を朝倉郡夜須町に編入(境界変更)。
1992年(平成4年)12月15日 - 久留米市と境界変更。
1993年(平成5年)4月30日 - 筑紫野市と境界変更。
1994年(平成6年)5月25日 - 筑紫野市と境界変更。
1996年(平成8年)2月20日 - 筑紫野市と境界変更。
1996年5月17日 - 三井郡大刀洗町と境界変更。
1997年(平成9年)2月25日 - 筑紫野市と境界変更。
2003年(平成15年)2月14日 - 三井郡北野町と境界変更。
```

- 小郡市 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%83%A1%E5%B8%82

 気になったので調べて確認しましたが、昭和47年に小郡市になったとあります。それより目を疑ったのは60万人近いという人口です。知名度の高い車紙の人口が30万と確認してから見直すと、60万ではなく6万弱でした。

平成4年1月当時で、金沢西インターで降りた料金が5200円という謎

 家の中を探せば、当時の高速道路の料金表がたぶん出てくると思います。地図についていたような記憶があるからです。

 国立国会図書館デジタルコレクションで調べても相当手間と時間が掛かりそうと思ったのですが、家にある地図で、金沢西インターから5200円は木之本インターと確認出来ました。

米原インターで6000円は金沢西インターではなく金沢東インターの料金と判明

 この平成4年1月4日の行動というのは、市場急配センターの二階事務所での新年顔合わせから始まり、被告発人浜口卓也と金沢市諸江の河野さんの家に遊びに行き、あとで被告発人松平日出男とカベヤと呼ばれていたたぶん松岡という名前の二人が顔を出したことなど、岐阜の市場に着くまでの経緯を詳しく書いた覚えがあります。

 よく思い出せないのですが、出発の時間が遅くなっていました。トラックの中で一眠りしようとしたような記憶もかすかにあるので、あるいは飲酒をしていたのかもしれません。

 妻と娘がいた河野さんの家で酒を飲んだ覚えはなく、夕方の早めの時間においとましたことは憶えています。ただ、家の前で被告発人浜口卓也が、実家のある真脇の隣の小浦漁港で仕入れてきたという寒ぶりをさばいていたので、早い時間から食事はしていたことになりそうです。

 市場急配センターの長距離トラック運転手の仕事で飲酒運転を気にしたのは、1月22日から25日の間で、場所は国道258号線沿いで岐阜県と三重県の境付近にある食堂から四日市市に向かって出発したときで、深夜でしたが、被告発人浜口卓也にかなりの量のビールを飲まされていたという記憶です。10人近いような人数の運転手が、いずれも大型車にミールを積み込んでいて、行き先も同じだったと思います。

 高速道路で飲酒運転を気にした記憶はないのですが、可能性としては米原バリアので警察の検問を警戒して米原インターで降りたとも考えられますが、それであれば手前の木之本インターで降りていそうです。

 現在も同じ場所にインターがあるのか確認していませんが、国道8号線と国道356号線が重なるような広い道路沿いに木之本インターはありました。

 福井県の当時の武生市から滋賀県の木之本インターの近くに出る国道も356号線でしたが、かすかな記憶では、そこから木之本インターの前を通り過ぎてしばらく行くと、道路の幅が狭くなって右に行く道路になっていました。

 交差点を右折していた記憶はないのですが、長浜市に向かう国道8号線で、道幅は普通に広い国道でしたが、500メートルぐらいだったのか1キロまではいかなかったように思うのですが、左に入る道路がありました。

 信号機はなかったような気がする農道のような道路で、ここから国道21号線を横切り、名神高速道路の関ヶ原インターの前を通って、国道258線に出るまでの道路も国道365号線という認識でいました。

 関ヶ原から木之本までの国道365号線を最後に走ったのは、平成4年4月1日の事件前日の3月31日なります。愛知県小牧市から石川県小松市に向かっていました。

 なお、積み荷の15トンが目安になっていた記憶ですが、15トン以上の積み荷の場合、米原方面に向かうとき、台貫場があり、警察の検問の可能性もある金沢西インターは使わず、逆方向の金沢東インターから乗っていました。

 さきほどの方法でGoogleマップ上の距離の測定をすると、国道365号線と国道21号線が交わる地点から名神高速道路の関ヶ原インターまでの距離は960メートルぐらいでした。料金所だと少し短くなりそうです。

 昭和58年7月に、東京に住んでいた被告発人大網健二のところに遊びに行くときも関ヶ原インターから名神高速道路に乗って、そのまま高速道路で東京まで行ったという記憶なのですが、金沢市場輸送や市場急配センターでは、ほとんど記憶にありません。

 金沢市場輸送で金沢から名古屋の仕事はミールが多く、名古屋港や知多半島の根本付近の行き先が多かったのですが、この場合はほぼ決まって、国道258線から三重県桑名市で国道23号線に出て、名古屋方面に向かっていました。

 他に多かったのは名古屋市内の市場ですが、この場合は一宮インターで降りて、国道22号線から名古屋市内に入っていました。

 まだ書いていなかったかもしれないですが、警察が台貫で行う重量オーバーの検査は、運転手の間で2,3割増しなら反則切符を切られないという話でした。

 現在はどうなっているのかさっぱりわからないですが、当時の重量オーバーは、違反点数が1点か2点の2段階で、どれほど大きな重量オーバーでも2点以上はないと聞いていました。

 過積載で気にしたのは、タイヤの潰れ具合と、料金所で停止した後の発進になります。15トンぐらいならさほどタイヤに変化はなく、トラックの馬力で軽い荷物と変わらないような発進が出来ました。

 また、岐阜市内の市場というのは、国道22号線沿いで名古屋方面に向かって右手にある大きな出入りもしやすい市場という記憶ですが、中西運輸商で4トンに乗務していた昭和60年頃、あるいは昭和59年の金沢市場輸送の4トン保冷車で初めて行ったという記憶があるのですが、全体的にわずかな回数で滅多に行く市場ではありませんでした。

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