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被告発人木梨松嗣弁護士の犯罪性の証明として重要な証人となりうる出雲義浩刑務官

 同じ写真掲載のファイル名付きは次の前記事にあります。Wordで作成している告発状の同じテキストコピーの張り付けです。

https://note.com/hirono2020kk/n/n594322932114


  1. 被告発人木梨松嗣弁護士の犯罪性の証明として重要な証人となりうる出雲義浩刑務官

 平成4年中の記憶は残っていない出雲義浩刑務官ですが、夕方の点検は毎日のように姿を見ていて、独居房の食器口で正面に向き合って敬礼をしていました。横に嶋弘担当がいてドアノブを勢いよく引き下げ施錠の確認をしながら「番号」と大きな声を掛けていくのです。嶋弘担当も特に身長は高くなく、あっても175センチぐらいと推定しますが、出雲義浩刑務官の小柄さがかなり目立ったいました。

 現在62歳とすると当時は30歳過ぎですが、30歳を過ぎてから身長が伸びたという話は聞いたことがなく、今日の北陸中日新聞の写真では右となっている出雲義浩刑務官の方が、左の刑務官より大柄なだけではなく、身長も高く見えます。

 平成11年の9月も出雲義浩刑務官にも会っているのですが、拘置所での記憶は現在残っていないので部署が変わっていたのかもしれません。今日の北陸中日新聞では用度課となっています。用度という言葉自体余り見たことがなく、拘置所や刑務所にいるときも見ることはありませんでした。

 Googleで用度を調べると事務用品の供給などとありました。

 平成11年は、入所時の領置品検査を出雲義浩刑務官に受けました。金沢刑務所の敷地内で拘置舎に向かう通路は突き当たりのTの字で左が拘置舎ですが、その手前の右手に刑務官の事務室や食道がある建物があって、通路の左右に部屋があるのですが、その通路の左手の横に出入り口がある部屋でした。

 平成4年の時とは領置品検査を受ける部屋が違っていましたが、通路を挟んだ向かい辺りに、捜査本部の看板のようなもので「金沢少年鑑別所」とありました。その辺りに部屋があるとは気がつかずにいたのですが、金沢地方裁判所への行き来や面会の時は決まって通る通路でした。

 この出雲義浩刑務官の領置品検査で印象的だったのは、出雲義浩刑務官が使うノートパソコンで画面の変化が目で追えないほど高速でした。

 拘置所の場合、未決になるので衣類が私物になりますが、模様や形状、色を見て、特定できる言葉で書き込んでいました。これはなかなか凄いことだと感心ていました。自分の場合、母親が郵送してくるので領置する衣類の数が多く、それで出雲義浩刑務官に厳しく注意を受けたことがありました。入所時の所持品検査の後になるように思います。

 出雲義浩刑務官と会話をするようなことは少なかったですが、問題を起こした近くの舎房の収容者のことで、取調べを受けたことはありました。拘置舎の1階には刑務官の事務室のような部屋があって、その左側にまるで警察署の取調室のような小さい部屋がありました。

 母親の差し入れのこともありますが、出雲義浩刑務官は告発人廣野秀樹のことをかなり問題のある収容者と思っている様子でした。きっかけは名古屋高裁金沢支部から平成5年9月7日という判決公判の期日指定の書面が来たことです。被告発人木梨松嗣弁護士には何度連絡をしても応答がなく、その不満やいらだちを刑務官にぶつけることがありました。

 怒り狂ったような形相で注意を受けたことがあり、それが出雲義浩刑務官の上司と思われる刑務官で、「ふちょう」と呼ばれるのをよく聞いていたのですが、看護婦の婦長であるはずもなく、区長をまぎわらしく発音しているのではと勘ぐることがありました。

 ここでは区長としておきますが、普通の名古屋弁でした。名古屋には短い間でしたが住んだことがあり、金沢市場輸送でも名古屋の方から来た運転手が2人ほどいて、名古屋弁は聞き慣れていました。身長は高くなかったですが、横幅が広く大きく見える体型でした。普段は、違和感を感じるほど優しそうな控えめな対応をしていましたが、顔はシーサーや唐獅子を連想させるようでかなり強面の感じでした。

 拘置舎は3階建てで、1階は手前から女子区、事務室、集団の浴場、そして雑居房が3つかあるいは4つ並んでいました。2階と3階はほぼ同じような間取りで、一人用の浴室2つ、理髪室があり、浴室の手前には物置があったかもしれないですが、理髪室の先には201から226まで26の独居房が並んでいました。

 独居房の出入りは薄い引き戸になっていましたが、わざとそうしてあるのか、出入りをするときは大きな音がして、通路全体に響いていたので、収容者の出入りはすぐにわかりました。出廷や面会が多いですが、医務というのもありました。

 ネットでもほとんど見たことがなく、まさに娑婆との違いなのかと思うことがありますが、拘置所も刑務所もやることはすべて願箋となっていました。昔の戦争映画かドラマで軍人が配給品をもらうための紙のようなものでしたが、それが記録や管理になっているうようでした。

 裁判所や検察庁に書面を出すのも、認書作成願い、大型封筒使用願いが必要で、見取図の書き込みも願箋を出し許可が必要でした。

 そのような刑務所の帳簿等の保管期間などの話はまったく聞いたことがないですが、早い時点で金沢刑務所の刑務官には目を付けられ、普通は許可されないような信書の枚数超過でも許可がおりなかったことはなかったので、記録も保存されていると思います。そもそも刑の執行を監督するのも検察庁となっているので、特別な指示が出ていたとして不思議はないと考えています。

 先日というか昨日の8月27日になりますが、図書館でMacbookを開き、Kindleアプリで「千穂ちゃん ごめん」という電子書籍の本を読んでいたところ、平成5年10月のこととして、神社の連続放火事件が出てきて、逮捕されたのか気になり、図書館にある北國新聞縮小版の平成5年10月から平成6年4月の県内の事件・事故、裁判の索引に目を通し、気になる記事のページを開いていました。

 そのところ、平成5年11月18日に「辰口の神社でまた不審火」という記事があり、同年10月19日に「放火事件捜査員に投石」「公務執行妨害 金沢の会社員を逮捕」という記事があって、その中の小さい見出しに「連続放火に関連か 声明文と指紋一致」とありました。

 11月18日の記事には「辰口町では先月12日に仏大寺の観音山中腹にある観音堂が不審火により全焼している。」とあるのですが、10月18日に逮捕の記事があり、その後の不審火で、翌年の4月まで索引に目を通しましたが、関連のある見出しは見当たりませんでした。

 逮捕された被疑者の名前と住所が気になったのですが、拘置所でよく問題を起こしていた収容者ではないかと思いました。当時、北國新聞を購読していて、その収容者が刑事裁判の法廷でも問題を起こしているという記事を読んでいました。事件の内容はよく覚えていないですが、公務執行妨害だった可能性はあると思います。

 ただ、放火という記憶は、他に拘置所で読んでいた北國新聞の記事でも記憶がなく、それもあったので同じ時期の連続放火のことが気になり、調べたのです。電子書籍の本には、北陸三県での連続放火とあったような気がします。

 金沢刑務所の拘置所で問題を起こしていた収容者ですが、福井刑務所の工場で一緒になったことがありました。誰とも話をしないようなタイプで、強い個性が感じられましたが、すぐに問題を起こし工場からいなくなりました。よくある名前なので、あるいは別人なのかもしれないです。

 雑記帳の記載では平成6年3月1日まで拘置所にいたことになり、午前中に受刑者となりました。ぎりぎりまで新聞の購読をしていたのか記憶にないですが、受刑者になった時点で新聞の購読は出来なくなります。禁止はされていなかったように思いますが、これまでのところ雑記帳で、新聞の記事の見出しや内容を書き込んだ形跡は一度も確認していません。

 思い出せないのは受刑者になった直後の分類審査中の新聞の閲読です。工場出役となったあとは新聞の閲読ができました。金沢刑務所は違ったように思いますが、福井刑務所の場合は、夕食後にも舎房を回す新聞の閲読がありました。福井刑務所も金沢刑務所も受刑中は読売新聞でした。

 福井刑務所の読売新聞で金沢地方裁判所の刑事裁判の記事を読んだ記憶はないので、拘置所にいる間に記事を読んだことになります。新聞の購読の申し込みはは10日かあるいは半月に期間が決まっていて、たぶん平成4年から拘置所にいたときは、ずっと申し込みを繰り返していたと思います。一度だけ、もう1紙購読の出来る読売新聞を購読したことも記憶にあります。

 名前と金沢市内の住所が一致したように感じたのは、平成9年中の可能性もありますが、まだ記録の新しい段階で、北國新聞縮小版の記事でたまたま見かけたような記憶があるからです。別の探し物と同じ紙面に記事がありました。

 拘置所の点検のことで思い出しましたが、ドアの点検と番号の声かけをしていたのは、嶋弘担当と違う刑務官の方が多かったように思います。嶋弘担当の場合は余り特徴がなく、普通に「ばんごう」と聞こえたように思いますが、個性の強い刑務官が何人かいて、大きな声で、「んんんごおぉぉぉ」などとうなり声を上げていました。

 個人で確認することは難しいですが、被告発人木梨松嗣弁護士の接見も金沢刑務所に記録が残っている可能性があり、書面の受発信も同じです。平成5年9月7日には、被告発人小島裕史裁判長の控訴棄却の判決の言い渡しを受けた後、金沢刑務所に戻ってすぐ、母親の面会があり、大きな声で「人権擁護委員を呼んでこい!」と激高しながらアクリル板を殴りつけたので、大勢の刑務官に連れ出されたあと、保護房に入れられ、革手錠をつけられました。

 革手錠は49時間ほどつけっぱなしで、革手錠を外されてから25時間ほど続けて保護房にいて、そのあとに保護房を出て、拘置所とは違う棟の個室の浴場に入って、そのあと201房に収容されました。自殺防止の突起物のない独居房で監視カメラがついていました。その201房にいる間に、取調べを受け、25日の懲罰となりました。

 懲罰が終わり書き物をしたり本を読む普通の生活が出来るようになったのは10月の10日過ぎだったと思います。手紙の受発信も普通に出来るようになっていましたが、面会に来るように被告発人木梨松嗣弁護士に手紙を書き送った記憶はなく、上告審も被告発人木梨松嗣弁護士に受任してもらうつもりという前提で、「平成5年11月28日付の手書きの書面」を作成しています。

 時刻は17時08分になっていますが、まだ能登町役場内にいて、家に戻ってから確認しますが、「平成5年11月28日付の手書きの書面」はページが全部揃っていなかったように思います。

 被告発人木梨松嗣弁護士の目的は測りきれない部分が大きいですが、心神喪失や心神耗弱などと控訴審で主張し、精神鑑定の実施を名古屋高裁金沢支部に求め、その実施の決定を出したのも被告発人小島裕史裁判長になります。

 袴田事件の袴田巌さんが、何年頃に独房で精神の異常を来し、親族との面会を拒むようになったのか、ネットで調べないとわからないですが、平成に入ってからということはなかったと思います。

 死刑囚が再審で無罪となった免田事件のことは、テレビで大々的な報道があったので知っていて、同じ頃に免田事件を合わせて4つの死刑囚の再審無罪の判決があったことは、何かでみかけて傷害・準強姦被告事件を起こす平成4年4月1日より前、たぶんまだ昭和の頃に知っていたと思います。ただ、免田事件以外はテレビニュースや新聞記事を見た記憶がありません。報道自体も免田事件は別格の扱いがあった気がします。


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