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日本弁護士連合会提出書面:2. 被告発人安田敏の関与と役割/輪島屋鮮冷と金沢市場輸送との関係

(1).   輪島屋鮮冷と金沢市場輸送との関係


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- 2021年02月14日06時13分の登録: 「輪島屋鮮冷」を@hirono_hideki @kk_hirono @s_hironoで検索 https://kk2020-09.blogspot.com/2021/02/hironohidekikkhironoshirono_14.html


- 2023年11月12日14時29分の登録: H3DB_search_”輪島屋鮮冷”_(該当件数:66/データベース登録数:669,647) _2023-11-12_142916の記録 https://kk2020-09.blogspot.com/2023/11/h3dbsearch66669647-2023-11-12142916.html


- (4/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-03-07 03:48:48
> そこでトラック同士の荷物の積み替えをすることもありました。平成3年の4月頃、再会して数日経った頃には、被告訴人YSKが輪島屋鮮冷の4トン車で来て、何か荷物の積み替えをしたこともありました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/441646474175066112


- (5/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-03-07 03:51:51
> 思えば輪島屋鮮冷と金沢市場輸送の社長兼配車係であった被告訴人MTKが、輪島屋鮮冷と仕事のやりとりをするようになったのも、その一月ぐらい前からであったかもしれません。もともとは付き合いがあると聞いたこともない、あるとも考えないような運送会社でした。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/441647228340281345


- (6/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-03-07 03:53:53
> 輪島屋鮮冷のトラックを見かけるようになったのは、私が金沢市場輸送で保冷車の仕事を初めて、そう長くない時期であったように思います。あるいは昭和59年かもしれません。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/441647782328139776


 あるいは昭和59年となっていますが、昭和59年に間違いなくスルメイカの時期に、金沢港の県漁連の前で毎回のように4トン保冷車を見かけていました。2台あったような気がしますが、運転手の姿や積み込みの作業も見たことがなかったような記憶で、駐車してあるだけにも見えたように思います。


 ゼロではないかもしれないですが、輪島屋鮮冷のトラックが鮮魚の積み込みや市場の鮮魚の売り場で荷下ろしをしている姿は、ほとんど見た記憶がありません。なお、丸西水産輸送の場合は出入り禁止になっていると聞いたことがあります。


 上の2014年3月7日のツイートに、その一月ぐらい前とあります。平成2年の秋には輪島屋鮮冷の大型車が金沢市場輸送の仕事をするのに金沢市場輸送の会社に来ていたような記憶もあり、これまでにそのような記述をしたようにも思います。


 よく憶えているのは、輪島屋鮮冷の大型トラックと一緒に同じ石川製作所の荷物を積んだことです。積み込み先でも卸先でもその年配の運転手と一緒になり、話をした記憶ですが、卸先は宮城県の福島県との県境に近い自衛隊の駐屯地でした。


 冬ではなかったような記憶で、自分も保冷車に乗務していたという記憶だったので、平成3年の春という可能性は否定したのです。平成3年は1月17日に新車の日野の大型ウィング車に乗務をしていました。


 この平成3年の春頃は大型ウィング車で、別に仙台市内でアルミサッシを荷下ろししたのですが帰り荷で茨城県古河市の山三青果に向かっています。


 宮城県で荷下ろしをして他に大型ウィング車での帰り荷を積んだ記憶がなく、金沢市場輸送の仕事でも宮城県内では鮮魚の東北便の定期便を別にしても冷凍のすり身など水産物以外の帰り荷を積んだ記憶がなく、もちろん空車で帰るようなことはありませんでした。


- (7/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-06-25 00:01:01
> その後、まだ務めていた輪島屋鮮冷の運転手として4トン車に乗って金沢市場輸送に来て、荷物の積み替えをしたことも記憶しています。冷凍物だったと思いますが、パチンコオークラの駐車場の敷地での積み替えでした。給油機のブロック塀の裏側です。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/481452138573230081


- (8/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-06-28 15:19:19
> HMですが、その後、守田水産輸送と輪島屋鮮冷を行ったり来たりしていました。守田水産輸送とは1年間ほど青森の定期便を交代でやったこともありましたが、そのうち顔を合わせても、以前のように話はしなくなったと思いますし、顔を合わせることも少なくなりました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/482770127239135233


- (9/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-06-28 15:25:25
> どういうわけかこれもはっきりした話を聞くことはなかったと思いますが、平成3年に入ったあたりでしょうか、輪島屋鮮冷とは多くはなかったと思いますが、仕事上の関係が出てきました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/482771661075124224


- (10/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-06-28 15:27:27
> 輪島屋鮮冷の大型車の運転手と一緒に自衛隊の基地で爆弾の荷降ろしをしたような記憶も残っています。宮城県の岩沼市だったか、あるいはそれより福島県寄りの自衛隊の基地であったと思います。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/482772224596652034


- (13/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-06-28 15:31:31
> 前にも書いたと思いますが、そんな中で被告訴人安田敏も輪島屋鮮冷の4トン車に乗って、金沢市場輸送に積み替えか何かの仕事に来たことがありました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/482773312297136130


- (14/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-09-25 10:40:40
> 初めに電話を掛けてきた時、被告訴人安田敏は同じ金沢市内の運送会社「輪島屋鮮冷」で4トン車の長距離をやっていると話していました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/514952551121162240


- (15/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-09-25 10:42:42
> その数日後、実際に被告訴人安田敏が輪島屋鮮冷の4トン車を運転して、金沢市場輸送に来て、冷凍物の積み替えをするということもあったので、本当に4トン車で長距離の仕事をしているのだと、私は疑いもなく信じました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/514953143495720961


- (16/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-09-25 10:44:44
> 金沢市場輸送と輪島屋鮮冷の間で、仕事のやりとりが始まったのは、その平成3年のはじめかあるいは前年の平成2年の終わり頃だと思われます。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/514953619624312832


- (17/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-09-25 10:45:45
> 今改めて考えると、時期的にも被告訴人東渡好信と関連があって始まった輪島屋鮮冷との仕事の関係だったのかもしれません。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/514953913238163457


 今日は朝にも同じことを考えていたのですが、17件目となる2014年9月25日のツイートにも被告発人東渡好信と輪島屋鮮冷の関連を考える記載があります。


 被告発人安田敏が輪島屋鮮冷に入社したのも珠洲市三崎町出身のHM(以下、三崎町のHMとも)に誘われたという話でした。その三崎町のHMから聞いた話という記憶ですが、輪島屋鮮冷は輪島市とは無関係で、社長は七尾市和倉町の出身と聞きました。


 和倉のボンボンという話も聞いたことで、旅館の息子と聞いたかもしれません。和倉町という言葉は使わず和倉だけで話をするのが普通ですが、全国的にも有名な和倉温泉になります。七尾市はその後、田鶴浜町などを吸収合併するのですが、和倉はもともと七尾市内だったように思います。


 地元で七尾市は七尾と呼びますが、和倉は別に和倉と呼ぶことが多く、七尾市と和倉の間になる石崎町も同じく七尾市とは別に石崎(いっさき)と呼んでいました。石崎は漁師町になりますが、昭和の時代は輪島市の海士町と並んで特別な地区だと聞いていました。


 中西運輸商(中西水産輸送も同じ)の社長は、その七尾市石崎町の出身と聞いていました。中西水産輸送が中西運輸商となり、運転手は中西水産輸送の所属で、中西運輸商は事務所の配車業務だけという話を聞くこともありましたが、それも税金対策のような話でした。


 もとは冷凍の水産物を専門に運ぶ運送会社で大洋マルハの仕事をしていたとも聞きましたが、白ナンバーの摘発を受け、つぶれかけたところ佐川急便の仕事をするようになって盛り返したという話でした。


 昭和60年当時に聞いた白ナンバーの摘発の話ですが、白ナンバーはトラック4台ぐらいまでと聞き、摘発があったのもその数年前と聞いていました。違いは営業ナンバーとも呼ばれた緑色のナンバーになります。


 昭和60年当時、輪島屋鮮冷の事務所は金沢西インター近くの国道8号線バイパス沿いのアパートの1階にありました。面接の付き合いで事務所に入ったことがあり、社長とも話をしたはずですが、どんな人物だったのかよく憶えていません。


 中西運輸商の社長も車検時にだけ扁平タイヤを使いトラックの箱の高さを水増しするような徹底ぶりがあったのですが、運送会社がアパートの一室を事務所にしているというのは後にも先にも他に聞く話はありませんでした。


- (18/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-09-25 10:48:48
> 輪島屋鮮冷のトラックを初めに見るようになったのは、金沢港の県漁連の売り場の前でした。早ければ私が長距離の仕事を始めた昭和59年のことです。時期は6月か7月だと思います。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/514954611455561728

 

- (38/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-10-06 17:21:21
> これもそういえばということになるかと思いますが、越坂のKSさんは、金沢市場輸送で姿を見かけなくなってしばらくしてから、輪島屋鮮冷の仕事をしているらしいと聞いたようなことも思い出しました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/519039636186738688

 

 越坂のKSさんが輪島屋鮮冷の仕事をしている、という話は記憶になかったですが、越坂のKSさんは昭和58年頃になるのか同時期に中西運輸商にいたようです。


 昭和59年の6月頃、金沢港のスルメイカのシーズンですが、金沢市場輸送の4トン保冷車に、たぶんその時、失業中だった三崎町のHMを同乗させ、山形県酒田市の市場に行ったのですが、帰りに、新潟県上越市に入ったあたりの国道8号線沿いのラーメン屋に入って3人で食事をしたことがありました。そのとき越坂のKSさんは中西運輸商の大型保冷車に乗務していたように思います。


 保冷車の箱の側面に大きく中西運輸商と墨で書いたような文字のトラックでした。見た目がほぼ同じトラックは2台あって、もう一台はトレーラーのエンジンとミッションをのせて最高速度が90キロと聞くトラックでした。それとは別の一台になりますが、自分も昭和62年の3月頃にしばらくの間、乗務したことのあるトラックです。


 よくわからなかったのが輪島屋鮮冷と小木運送の関係です。小木運送は当時の石川県珠洲郡内浦町小木にある運送会社で、平成17年の柳田村を加えた能都町との合併で、現在は宇出津と同じ能登町になっています。


 その小木にある小木港は北洋の遠洋漁業の基地で規模はずいぶんと縮小しましたが、現在もスルメイカ漁の船内凍結イカ(船凍イカ)が有名です。


1872年、北陸で初めてブリ大敷網漁法を導入し、北海道への出稼ぎ漁業が増加した。戦後、湾口の堆の爆破や埋立てなどで小木新港を拡張。1952年、日本海中部海域のサケマス漁が始まり、大和堆などイカ釣りの漁業基地となった[3]。1976年度から、小木港湾整備事業計画が総事業費60億円にて実施され、新町港口の御船崎堆を埋め立てて、水産会館、大型冷蔵庫、油槽所が建設され、泊地、防波堤、岸壁なども整備された[2]。


1992年時点での登録漁船は160隻、漁獲量19,030t。1995年の入港隻数は13,990隻、取扱高は78,000tで、スルメイカが多い。1990年より小木港マリンタウンプロジェクト計画が始まり、港を活かした街づくりを継続的に進めている[4]。


2013年(平成25年)5月3日には港一帯が『みなとオアシス小木』としてみなとオアシスの登録を受けた[5]。

- 小木港 (石川県) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9C%A8%E6%B8%AF_(%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C)


 Wikipediaのページの情報が古めで、ブリの大敷網漁を導入とありますが、港周辺の水深が深すぎるため定置網ができず、遠洋漁業を始めたと聞きます。宇出津から小木の間は、羽根、小浦、真脇、姫という小さい集落がありますが、大敷網の定置網があるのは小浦までかと思います。


そして、そのスルメイカを小木で開発された一尾凍結法によって凍らせたのが、「小木イカ」のブランド名でも知られる小木の船凍イカです。獲れたてのイカを船内で急速冷凍させるため鮮度は抜群。通常イカは釣った直後が透明で、その後は茶色から白色へと変化していきますが、船凍イカは高水準の鮮度を保った濃い茶色のまま。船内で箱詰めまでされ、港に着いた時点で冷凍車に運び込まれ出荷されていきます。

- 日本三大イカ釣り漁港・能登小木港と”イカ”の素敵な関係。 | 【公式】能登町観光ガイド-能登半島|石川県能登町観光ポータルサイト https://notocho.jp/%E7%89%B9%E7%94%A3%E5%93%81/3929/


 越坂のKSさんですが、金沢にある小木運送の営業所で事務員をしていたという女性と結婚していました。小木運送の話を聞いていると宇出津に今もある漁運会輸送の話と似ていると思ったのですが、通常の運送会社と運転手との関係や契約ではなさそうでした。


 その小木運送ですが珠洲市若山町に住むというSさんが金沢市場輸送で傭車をしていました。大型保冷車で営業ナンバーでしたが、小木運送ではこの一台だけが金沢市場輸送に出入りをしていました。昭和63年7月に金沢市場輸送の事務所が移転してからちょくちょくと姿を見かけ、仕事でも一緒になることがありました。


 少し後だったような気もするのですが、越坂のKSさんも同じく金沢市場輸送の傭車をするようになり、最初は大型保冷車だったように思うのですが、トレーラーになりました。箱の方は古い中古だったと思いますが、車体は新車だったように思います。ナンバーは白ナンバーだったような記憶で、それにこだわりを持っているという話を本人から聞いていたような気がします。


 もとは宮城県の石巻港から南九州へ養殖魚のエサを運ぶ仕事でトレーラーを購入したようですが、エサの単価が極端に下がり、それで金沢市場輸送の仕事をするようになったとも聞きました。


 昭和59年当時の金沢市場輸送の大型保冷車の仕事も同じエサの仕事が多かったと聞きます。自分が金沢市場輸送の大型保冷車に乗務したのは昭和62年の4月で、その頃にはエサの仕事がなくなっていて、一度もやったことはなかったのですが、話だけはよく聞いていました。


 中西運輸商のトレーラーのエンジンとミッションを搭載したという大型保冷車もそのエサの仕事を目的にしたものでした。昭和59年に金沢市場輸送の4トン保冷車で石巻港に行ったとき、冷蔵庫にその中西運輸商の大型保冷車がいて、エサの積み込みを手伝ったことがありました。名前は忘れましたが、珠洲市の見附島の近くの出身と聞きました。


 サウナなどに寝泊まりをして何度も中西運輸商の入退社を繰り返していると聞き、自分が中西運輸商にいるときも一緒に仕事をした時期がありました。吉田拓郎の「落陽」という曲の歌詞を思い浮かべるような人物でした。仙台行きフェリーという歌詞が出てきたはずです。


 エサの仕事は仙台港から名古屋港のフェリーに乗り、西名阪などを走って、大阪から四国や南九州行きのフェリーに乗ると聞いていました。平成に入った頃にはトラックの性能が向上して、日本海周りで国道や高速道路を使うことが多くなったと聞き、中国自動車道を走るそれらしいトラックも見かけるようになりました。


 七尾市の共栄運送にいたと聞く被告発人東渡好信は、そのエサの仕事のフェリーの中で金沢市場輸送の社長になる本恒夫と親しくなり、一緒に麻雀をしていたと聞きます。パチンコ店で被告発人東渡好信を見かけ声を掛けたのが金沢市場輸送への入社のきっかけと聞きました。平成2年の9月かあるいは10月のことと思います。


 直接聞いたか記憶にないですが、それと思われるのは金石街道沿いにあったパチンコオークラだけです。道路をはさんで駐車場が分かれていましたが、金沢市場輸送の給油機の横にあるブロック塀が、その駐車場の一部との境目になっていました。


 金沢市場輸送の事務所から目と鼻の先ということもありますが、頼まれて店内に運転手を探しに行ったこともあり、頼む相手がいなかったので自分で探しに行ったのかと想像していました。


 今から10年ほど前、小木港によく魚釣りに行っていた頃、地元では組合と呼ばれる市場のような建物があって、その駐車場でよく共栄運送のトラックを見かけていました。大型車のようでしたが、10トン車ではなく6トン車だったかもしれません。


- 石川県漁協 小木支所 - Google マップ https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E6%BC%81%E5%8D%94+%E5%B0%8F%E6%9C%A8%E6%94%AF%E6%89%80/@37.2989995,137.2313657,17.75z/data=!4m15!1m8!3m7!1s0x5ff6cf723b955c87:0x8c703703f3f178c3!2z44CSOTI3LTA1NTMg55-z5bed55yM6bOz54-g6YOh6IO955m755S65bCP5pyo!3b1!8m2!3d37.3012775!4d137.2254722!16s%2Fg%2F1pxycy0cs!3m5!1s0x5ff6cf7daf8d6615:0x6efe7a1404ad9674!8m2!3d37.29821!4d137.232664!16s%2Fg%2F1tfbhkz6?entry=ttu


 小木港では地場で魚や紅ズワイガニの水揚げもやっていると聞きましたが、他の魚市場とは違っているような感じです。Googleマップで名称を確認すると石川県漁協小木支所とありました。大和堆や北朝鮮の違法操業で、テレビニュースでよく見かけてきた名称です。


 ここで船凍イカの水揚げがあり冷凍庫に入れるという話を聞き、そのアルバイトの話というのも地元で聞いたことがありましたが、トラックの仕事で行ったことはありません。


 輪島屋鮮冷が小木港で船凍イカの仕事をしていたのか、これもはっきりしたことはわからないのですが、被告発人安田敏は小木港で船凍イカを積むため向かっていたような話をしていました。さきほどのまとめ記事でページ内検索をして調べて見ます。キーワードは「朝日」です。


- (42/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2015-08-13 01:45:45
> それは、被告訴人安田敏が輪島屋鮮冷で4トン車の長距離のしていた頃という話で、北陸道の朝日インターのあたりで、彼が居眠り運転をしていたところ、それを避けた大型トラックが、高速道路の本線から飛び出し、崖下を転がり落ちたということを、私に語っていました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/631506791851888641


- (43/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2015-08-13 01:56:56
> それに4トン車に船凍イカを積むというのも聞いたことのない話でした。当時の輪島屋鮮冷ならば満載で8トン以上を積んでいたのかもしれませんが4トン車で小木港まで行って船凍イカを積んだという話は聞いたことがありませんでした。小木のトラックでも4トン車というのは見かけた覚えがありません。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/631509672118255617


- (44/66/669647):ツイート (@kk_hirono) 2016-05-06 10:53:53
> それまで輪島屋鮮冷で4トン車に乗務していたという被告訴人安田敏から連絡があって、私の紹介で被告訴人安田敏が金沢市場輸送に入社することになったのもこの時期で、入社が決まったのは4月の終わり頃だったと記憶しています。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/728402347508957184


 朝日インターというのは北陸自動車道で新潟県から富山県に入って最初のインターです。そこから能登半島の小木港に向かっていたとすれば、空車で向かったとしか考えられないのですが、交代の運転手が急遽必要になったなど突発的な事情がなければ、通常ありえない配車や運行になると思います。


 市場急配センターでは金沢から小木港と同じ能登半島の七尾市に行き来することがとても多かったのですが、能登有料道路で輪島屋鮮冷のトラックを見かけることはなかったと思います。


 小木運送の珠洲市若山町のSさんですが、これも個人的な運転手当時の付き合いで金沢市場輸送の仕事を回していたと考えられ、金沢市場輸送で小木運送の仕事をすることは一度もなく、船凍イカも運ぶことはなかったと思います。


 近年は記録的な不漁続きで値段の上がっている船凍イカのスルメイカですが、以前は価格の安いもので鮮度の高いスルメイカが手軽に入る石川県での船凍イカの需要というのも少なかったように思われます。


 近年は宇出津のスーパーで箱入りの船凍イカを見かけなくなりましたが、箱の大きさやデザインは昭和の頃からずっと変わっていない感じでした。真冬の時期でもあり、素手で船凍イカの箱を触っても匂いがつくとは考えにくい、ということもあります。最近は見かけないですが当時は「イカくさい」という卑猥な意味の言葉を見聞きすることもあり、被告発人多田敏明はそのイメージを先行させていたのかとも考えるのですが、そもそも船凍イカの積み替え作業をその日にしていたのかという疑問があります。


 輪島屋鮮冷は右肩上がりで急成長した運送会社ですが、平成4年にはかなり大きくなり、トラックの数も多く、よく見かけていたと思います。安原団地の辺りに会社が移転したような話を聞いた覚えがあり、実際にその辺りで会社を見ていたような気もするのですが、これも記憶が不鮮明になっています。


 平成3年の4月で20日は過ぎていたように思いますが、被告発人安田敏から電話がありました。さきほど過去のツイートを見ていると、被告発人安田敏と直接会った数日後に被告発人安田敏が輪島屋鮮冷の4トン保冷車で金沢市場輸送に来たような記載がありました。


 つなぎの作業服の上半身の部分を袖で腰元に結んでいたような記憶もあるのですが、余り見かけるものではなく、運転手の経験がまだ浅いはずの被告発人安田敏がそのようなことをしているのも少し不思議に思ってみていた記憶となっています。


 令和5年11月6日付告発状では書きそびれてしまったのですが、被告発人安田敏の金沢での生活ぶりに気になることがありました。前回、被告発人安田敏に会って金沢大学病院前の飲み屋の前で分かれた当日のことです。


- 奉納\危険生物・弁護士脳汚染除去装置\金沢地方検察庁御中_2020: H3DB_search_”池田町”_(該当件数:22/データベース登録数:669,647) _2023-11-12_172256の記録 https://kk2020-09.blogspot.com/2023/11/h3dbsearch22669647-2023-11-12172256.html


- (1/22/669647):ツイート (@kk_hirono) 2014-09-17 10:09:09
> 被告訴人安田敏はアパートの住所を金沢市十三間町と言っていたように思います。片町の路地裏のはずれのような場所でしたが、その辺りには池田町というのもあります。瓢箪町のNMと末町のTHが住んでいたのも池田町でした。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/512045643175448576

 

 Googleマップで見かけた池田町で調べました。片町から新竪町商店街の辺りとの間は、池田町と十三間町しか見当たらず、前にそれとは違った古風な感じの地名が頭にあったのですが、2014年のツイートと十三間町とあります。


 ここでアパートとなっていますが、レトロな感じの家屋の二階がすべて被告発人安田敏の部屋になっていたような記憶です。珍しい感じの部屋で角の左右に窓があったような記憶です。けっこう広い部屋ということもありましたが、けっこう物が置いてあったという記憶です。


 この強く印象に残る部屋については、2010年に当時流行りだしていたTwitterをテーマにしたテレビドラマがあって、そこに出てくる部屋と雰囲気がかなり似ているように感じていました。ドラマ名は忘れていますが、上野樹里という女優の検索で見つかると思います。


Twitterを通して出会った男女5人の青春群像ドラマ「素直になれなくて」が4月からフジテレビ系(木曜午後10時)で始まる。主演は瑛太さんと上野樹里さん。


 東京・渋谷を舞台に、Twitterを通して知り合った5人の男女が本当の友達・仲間になるまでを描くという。駆け出しのカメラマン・ナカジを瑛太さんが、私立高校の非常勤講師・ハルを上野樹里さんが演じる。

- 5人の男女がTwitterで出会う――瑛太・上野樹里主演のTwitterドラマ - ITmedia NEWS https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1002/23/news049.html


 令和5年11月6日付告発状で取り上げた被告発人安田敏の花里のアパートは、女性の一人暮らしでも物がかなり少ないように感じていました。玄関先になるダイニングキッチンはよく整理整頓されている印象もあったのですが、奥の部屋は大きなダブルベッドが置いてあるぐらいでした。


 他人の部屋に入って物色するようなことはなかったのですが、最初から普通でない雰囲気を感じてドラマ撮影の舞台セットとして用意されているような不自然さが感じられたのです。


 そのちょうど一年ほど前に入ったと思われる片町の近くの被告発人安田敏の部屋は、これもずいぶん強いこだわりを感じて、よく片付けられているとも思ったのですが、物が多く古めかしさがあったように思います。


- AntiqueアンティークとVintageヴィンテージの違い | HASSIN オフィシャルブログ|名古屋南ICすぐ・共和駅前 https://www.hassin.co.jp/blog/watch/tag-heuer/20160605-9210/


 アンティークという言葉を思い浮かべて調べて見ました。100年以上前とあるので、そこまで古めかしさはなかったと思いますが、最近に視聴した昭和30年代の「銀座の恋の物語」という映画に出てくる雰囲気があったと思います。コレクターという感じでもありました。


 はっきりしたことは記憶にないのですが、被告発人安田敏は電話で、その後の生活の変化を語り、輪島屋鮮冷の入社時期も何月と言っていましたが、その年の1月と聞いたような気がします。11月にも何があったと話していたような気がするのですが、思い出せません。思いがけない紆余曲折があって、今電話をしているという雰囲気が伝わり、それは自然な経過の説明と受け止めていました。


 あらかじめ作られた筋書きで動いているように思われたのは、金沢市場輸送の面接の後、すぐに市場急配センターで仕事を始めたことです。最近に見た古い記述では面接から被告発人安田敏が市場急配センターで仕事を始めるまで、けっこう間があったように読み取れる箇所がありました。


 被告発人安田敏が大型免許の取得で仕事をしながら大徳自動車学校に通うのと、市場急配センターが市内配達の運転手を欲しがっていたタイミングがたまたま重なったような見方も出来たのですが、実際に被告発人安田敏は免許停止になった被告発人多田敏明を助手席に同乗させ、それまで被告発人多田敏明が担当をしていた高松コースをやっていました。


 内灘・高松コースとなっていたような気もするのですが、この記憶ははっきりしません。当時の河北郡高松町で、その後、宇ノ気町、七塚町と合併してかほく市になっています。同じ河北郡だった内灘町と津幡町はそのまま河北郡となっています。


 昭和62年の市内配達より始まりの時間が遅くなっていましたが、早朝にマルエーというスーパーチェン店の配達がありました。自分の受け持ちは小松市内で、被告発人安田敏は根上と寺井店だったかもしれません。隣通しで荷物を積み込んでいました。4トン車だったように思いますが、その場に被告発人多田敏明を見たという記憶はありません。


 マルエーの配達から戻った後、午前と午後の2回、青果の仲買の仕事で受け持ちコースの配達がありました。午前は11時か11時半の出発で、午後も2時か2時半の出発だったと思うのですが、これも記憶がはっきりしなくなっています。自分は片町・小立野コースの受け持ちで、これは昭和62年の市内配達と同じでしたが、午後は決まった配達コースではなくあちこちに行っていました。


 被告発人東渡好信、浜上さん、河野さんの3人が金沢市場輸送から移ってきたのは9月に入ってからと思います。自分の場合は金沢市場輸送を退社して市場急配センターに再就職したかたちになっていると聞いたのですが、この3人はそのまま移籍するかたちになったとも聞きました。別会社なのにそんなことが出来るのかと当時も疑問に思ったのですが、今考えると金沢市場輸送の社員のまま市場急配センターで仕事をしていたという可能性もありそうです。


 平成2年の春頃に金沢市場輸送の給料計算が変わり、歩合制の部分が大きくなったと思います。基本給は残っていましたが、変更前は基本給が月10万円で1年ごとに1万円上がると聞いていました。変更後の基本給のことは現在記憶にありません。


 この基本給のベースアップも他の運送会社では聞かない話でしたが、竹沢俊寿会長が独自のこだわりをもって考え抜いた上で決めていたようです。


 被告発人安田敏の金沢市場輸送の入社は昭和60年にもありました。どれぐらいの間いたのか聞いたこともよく憶えていないのですが、氷を運んでいたとは聞きました。金沢中央卸売市場の市内配達の仕事はまだ始まっていなかった可能性が高いと総合的に考えています。


 この氷の仕事ですが、前年になる昭和59年に4トン保冷車での長距離の仕事の合間にやらされていました。夏場だけで短い間の仕事だったように思います。金沢市内白菊町の冷蔵庫、金沢駅正面から右手、東金沢方面にある大きな冷蔵庫、金沢中央卸売市場の敷地内にある冷蔵庫、それと金沢港の県漁連の市場のある埠頭の奥にある冷蔵庫で、100キロほどあると聞いた氷を積んだり運んだりしていました。


 どの冷蔵庫で氷を積んでいたのか憶えていないですが、まな板のような床の上を滑らせて動かしていました。2トン車と4トン車の中間のようなポンコツのトラックで、ハンドルがとても重く、色が青色でかなり珍しい古い型のトラックでした。それでもボンネットのトラックではなかったように思います。


 古い映画に出てくるようなトラックで、箱車ではありませんでした。それが氷の仕事の専用のトラックで、昭和61年には見かけなくなっていたと思います。その氷の仕事自体、その後、見たり聞いたりすることはなかったと思います。


 被告発人安田敏が金沢市場輸送で4トン保冷車の長距離の仕事をしたと聞いたことはなく、氷の仕事だけだとかなり短い期間だったと思います。その昭和60年の8月の終わり頃だったと思いますが、金沢市場輸送に行って、中西運輸商のトラックの窓越しに、蛸島の北浜泰一さんの弟と話をしたのですが、被告発人安田敏は辞めたばかりで、岐阜に出稼ぎに行くと話していたと聞きました。


 岐阜県海津町のライスセンターの出稼ぎですが、同じ珠洲市蛸島町のSMの紹介であったように後日、被告発人安田敏から話を聞きました。


 ずいぶん前に倒産のニュースを見ていますが、この珠洲市蛸島町にあった濱田漁業が、金沢市場輸送でのイワシの運搬の仕事の荷主で、浜田漁業金沢工場がありました。金沢東インター付近から能登有料道路の白尾インターの間でよく通る道沿いにいつの間にか出来ていた工場でした。昭和59年にはまだなかったと思います。


 金沢市場輸送でのイワシの運搬の仕事は2台のイスズ車の大型ダンプが始まりでした。イワシの運搬の仕事は昭和61年12月には始まっていたと考えられますが、2台のダンプが入ったのは昭和62年に入ってからかもしれません。


 そういえばと思い出したのですが、昭和61年の12月から翌年62年の1月中は、よくミールの倉庫移動で浜田漁業金沢工場に行っていました。このときにフォークリフトでミールの積込み作業をしていたのが平成元年1月に松波港で自殺した蛸島のTSさんになります。


 ミールというのは主にイワシを原料にした魚粉になります。サバや他の魚も混じっていたので主にとしました。


 この蛸島のTSさんと一緒に浜田漁業金沢工場で仕事をしていた頃は、まだ松浦さんの姿はなかったと思います。この松浦さんは最初にイワシの運搬のダンプに乗務した一人ですが、平成2年の初め頃には現在の市場急配センターの社長の可能性が高い堂野さんを金沢市場輸送のイワシの運搬の仕事に招き入れています。


 この松浦さんの愛人の息子と聞いたのが被告発人安田繁克になります。愛人というのは本妻がいての言葉だと思いますが、平成元年の初め頃に別居している若い妻がいると聞いていて、一度金沢港で姿を見たような記憶もある女性ですが、その後も離縁はしていなかったのかもしれません。


 個人のプライバシーにかかることは承知の上ですが、被告発人安田繁克の本件告発事件との関わりの重要性で、これは事実を公表する必要があると判断しています。


 その被告発人安田繁克の話をしきりに告発人廣野秀樹に吹聴したのも被告発人安田敏になりますが、市内配達中に同乗者の被告発人多田敏明に聞いたような話でした。平成4年の事件当時、被告発人安田繁克は21歳、被告発人多田敏明は19歳と聞いていましたが、同じ高岡中学校の出身だと聞いていました。被告発人多田敏明の方が年下ですが、二人の関係性を見ていると被告発人多田敏明の態度が大きく、被告発人安田繁克が遠慮がちに思えることもありました。それと思わせる演出があった可能性はあるかと思います。たとえば、被告発人多田敏明への信頼感を増すために。


 金沢市場輸送で被告発人安田敏の面接があったことは令和5年11月6日付告発状にも記載したように思います。その場に昭和61年の11月頃まで金沢市場輸送で配車係をしていた藤村さんの姿もあったような記憶なのですが、いずれも互いに初対面のようなよそよそしさが感じられました。


 この昭和61年の11月27日、誕生日の翌日ということで日付が記憶にあるのですが、運転免許センターの大型免許の試験に合格し、その日に大型免許の交付を受けました。それですぐに市内配達の仕事を辞めたという記憶です。


 乗務員がいなかった6トンの大型保冷車に乗務することもありましたが、ポンコツのイスズ車の大型平ボディ車で名古屋方面へのミールの運搬やミール移動をするようになりました。ちょうどその頃に、配車係をしていた藤村さんが手術で長期入院するという話になり、代役のようなかたちで竹沢俊寿社長に懇願され配車係をするようになったというのが本恒夫になります。


 昭和60年当時の金沢市場輸送の事務所はテナントビルの一室で配車係や運転手が顔を合わせる密度は高かったと思います。ただ、大型保冷車の運転手はエサの仕事で、月に間に会社に顔を出す機会が少なかったとも考えられ、同じ運転手同士でも半年ぐらい顔を合わせないことがあると先輩の運転手に聞いていました。


 昭和59年と昭和60年はわずか一年の違いですが、昭和59年の10月頃には金沢市場輸送の4トン保冷車でもようやく歩合がつく売り上げが出たという話で、世に言うバブル景気の突入期で、仕事の量や内容にもかなり違いが出ていたものと考えられます。


 金沢市場輸送の4トン保冷車で歩合がつくのは売り上げが80万円以上と聞いていました。80万円までが基本給で20万円、手取りだと16万円程度でした。これは昭和62年の市内配達とほぼ同じ支給額ですが、結婚して子供も一人生まれていたので、引かれる税金はいくぶん安くなり、それに日曜日も広島商店でニュー三久のバナナの配達をしていたので、手取りで20万円ぐらいあったような記憶となっています。


 昭和59年の給料は安かったのですが、長距離の仕事内容はかなりきついものでした。氷の仕事もそうですが別の仕事をさせられることが多く、小口で積み込み先もに卸先も多い仕事で、鮮魚でも東京まで途中、下道を走っていました。高速道路の利用はかなり強い制限がありました。ただ、そこで得た経験というのは後になって大きく活かされたとは考えています。


 昭和59年は新潟の鮮魚の定期便も厳しいものがあり、金沢から向かって高速道路の利用が認められるのは新潟県の上越インターの先の柿崎インター以降でした。直江津、長岡、小千谷という4カ所おろしが基本で、上越市の市場や柏崎の市場にも小口の荷物で立ち寄らされることがありました。小口の荷物には金沢市内の冷蔵庫に集配に行かされた冷凍食品もありました。


 そういう仕事内容では大きな違いがあった平成3年から平成4年の市場急配センターになります。年寄りが昔の自慢話をするような話は当時もありましたが、仕事内容の質と量がまるで違っていました。市内配達の仕事にそれほど大きな違いはなかったですが、長距離の仕事は金沢市場輸送と市場急配センターでまるで違っていました。


 弁護士のツイートをみていてほとんど知られていないように思ったのは1年ほど前のことですが、トラック運転手の仕事というのは仕事内容というより荷主との関係性が大きく、建設業でも同じような話は聞きますが、孫請けや曾孫受けとなると同じ仕事をしても中抜きで収入が極端に違ってきます。


 乞食仕事という運転手もいましたが、昭和59年当時の金沢市場輸送は、他の運送会社が手を出さない割りの悪い仕事ばかりやっていると聞いていました。その後にバブル景気があって運送業自体が飛躍的に底上げされ、平成2年の春頃には運転手不足で、運送会社同士の運転手の引き抜きが横行していると聞くようになりました。


 後年ネットで見かけるような情報では平成4年にはバブル景気が崩壊していたとも聞くのですが、平成4年4月1日まで市場急配センターで長距離トラックの仕事をしていて、景気が悪くなったとか仕事が減ったという話は聞くことがありませんでした。



 おすすめツイートに出ていた渡辺輝人弁護士のタイムラインを開き、遡っていると川人博弁護士の記者会見の写真のあるポストが出てきましたが、表示件数が46万件になっていて、弁護士が出てくるニュースとしては数が多く感じました。



 ジャーナリストの江川紹子氏のX(旧Twitter)を開いてみましたが、ジャニーズ性加害問題の関連ポストは4.3万、1.7万、1.8万という表示件数です。


≪≪≪ Windows11 Word 2023/11/12 23:19:46 ≪≪≪




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