親父が死んだ時の話
(今回は少し長いです)
私は18の時父を亡くし、もうすぐ8回忌を迎えようとする。
今でも亡くなった月命日には親父が好物だったアメリカンドッグを食べるようにしている。
他にもカレーライス、チロルチョコ、カップヌードルカレー味、グラタン、ハッピーターン、瓶ビール、マイルドセブン。現世とあっちを繋ぐものは意外とそこらじゅうにある。
ある大学生の夏。
春学期の試験期間の頃。
実家から電話があり、父の心臓に重い病が見つかったと告げられた。
そして息をつく暇もなく、私はその日のうちに姉貴と共に新幹線に飛び乗り、父のいる地元の大きな病院へ向かった。
市内で一番大きな病院。
病室へ向かうとまだ父は少し元気そうで、安心した。
父は、こんなことで戻ってきてもらって申し訳ないと。
ポーカーフェイスでいつも寡黙だった父はそうは言いつつも少し寂しそうな目をしていた。
そして母から病気のことを詳しく聞かされた。不治の病で治療な術はなく、長くは持たないと。
私が幼い頃、父は長距離運送業をやっており、週に2回ほどしか会えない環境だった。
少ない休日にはドライブに連れて行ってもらったり近所の公園でキャッチボールをしたり。
日曜大工で小さい机も一緒に作ったりもした。
家にいる時、父はいつもテレビの前で横になり野球中継を見るのが日課だった。根っからの阪神ファンで赤星選手が好きだったそう。
地元のお祭りに一緒に参加して、神輿を担いで。あの時、酔っ払って騒いでいた父は少し怖かった思い出がある。
あぁそういえば会社の社員旅行で有馬温泉に連れてってもらったりしたなぁ。宴会で父はビール、私はこどものビールで乾杯したっけなぁ。そうだ来年の正月に20歳になるから本当のビールで乾杯しようかな。
そして今、目の前でたくさんの管に繋がれ、痩せ細った父が居る。
あぁこの人はもう死ぬんだなと。
その日の夜は母に代わって病室に泊まり、父の看病をすることにした。
夜。静かな病室。父に繋がった医療機器のピープ音だけが響き渡る。
窓から映る田舎の真っ暗夜景が、すぐそこの死を暗喩してるかのように僕の目には映った。
不安な気持ちは父が一番感じていた。
自分が死ぬという恐怖。日中は威厳のあった父も、夜にもなるとかなり落ち込んでいた。
死が近づくと子供に戻ると言うが、今の父は正にそうで、ちょっとしたことで癇癪を起こしたり、あれやこれやと息子の私にわがままを言う。気に食わないと物を投げたり、とても父親には見えなかった。
死に怯える人間。物静かで穏やかな父はそこにはもういなかった。
病室のソファでその日は夜を明かし、次の日の朝には祖母、母、姉の3人がやってきた。
わたしはほとんど眠れず、ぼんやりとしながら今後の事や世間話をした。
昨夜の様子も聞かれたが、結局、昨夜の父のことは話さなかった。
寝不足気味の私を見て、父を一番近くで看病をしていた母は分かっていた。
両親の勧めから、早いうちに東京へ戻るように言われた。試験期間もあることだし、せっかく大学初めての夏休み、楽しんできてほしいと。
父からも、しばらくは大丈夫だろうからまずは大学の用を済ませなさいと。
荷物をまとめ、帰る準備をした。
風呂にも入らず、くたくたの私は病室の扉の前で、父にじゃあねと、別れを告げた。
私は心のどこかで思ってたのかもしれない。もうこれで会うのが最後かもしれない。これから弱っていき、僕の知っている父ではなくなるのが怖かったのかもしれない。
あのさようなら、はほんとうなのかもしれない。
帰りの新幹線でずっと考えていた。
それから数週間後。
母から電話があり、父が亡くなったと。
父さんの嘘つき。
そこからはあまり覚えてないが、全ての予定をキャンセルして、大急ぎで実家に戻り、いつのまにか葬儀という感じだった。
父が亡くなってからというものの、それはもう、近しい人への訃報や斎場への連絡。
取り残された我々には悲しむ余裕もなかった。
実際、この後も実家の名義やら奨学金の申請諸々で何ヶ月も書類仕事が待っていた。大黒柱が亡くなるということは、色々大変なのだ。
就職活動中の姉貴は、面接や説明会も全部キャンセル。内定までにかなり時間がかかったときいた。
母は旦那が亡くなったともなると、あれやこれやと大忙しで、心労のあまり、一時、心の病を抱えてしまった。
そんな私も、学費が払えないともなると大学を退学するまで考えていた。
こう書くと、人が死んでいるのになんて薄情なとも思われるかもしれないが、人が亡くなると言うことは何らドラマティックでもないし、バッドエンディングでもない。
あくまで通過点であり、ただのイニシエーションにすぎない。
私たち家族は父の死の悲しみを背負うと同時に、より現実的な困難を前にしなければならなかった。
父の葬儀は粛々と進み、病院も葬儀屋も慣れたように手続きが進んでいく。
18の私にはただ流されるように居るしかなかった。
父を亡くした悲しみは、火葬前の最後の顔合わせで実感した。
痩せこけて骨と皮だけの父、目は開かずただ冷たい。病に冒された心臓は数百万人にひとりの奇病ともあり大学病院に寄贈され、父は文字通り抜け殻のようになっていた。
ここから先のことはあまり覚えていない。ただ父だったものの前で泣き崩れた。ただそれだけを覚えている。
ちょうどこれを書いている頃。母方の祖母に膵臓癌が見つかった。五年生存率が数パーセントと、祖母が高齢なのもあり、我々家族はまた覚悟をしないといけない時期が近づいてきた。
今度はしっかり悲しむことができるだろうか。今度は生きているうちにたくさん話して、笑顔で送れるだろうか。そう思いながら、今日も生き残っている私は、父の好きなアメリカンドッグを食べながら考えている。