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サイコキラーはどこにでも
私が敬愛しているデイヴィッド・バーン。
この間、YouTubeで1997年のライブ動画を見つけて見ていた。
ほぼ1曲終わるごとに衣装が変わっていくのが、なんとも彼らしかったのだけど、思わず笑ってしまったのは『Psyco Killer』の時の衣装。
動画だと39:40あたりから。
この曲はタイトルの通りサイコキラーの歌。
で、その時の衣装がこちら。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/129297620/picture_pc_58135f0ae71e56c9512b4b777592af55.png?width=1200)
めっちゃサイコキラーサイコキラーしてる。
見たらわかるヤバいやつやん。
ただ同時に、でも実際のサイコキラーって絶対にこんな格好してないとも思う。
こんなやつ街中歩いてたら1発です。
こいつ絶対サイコキラーだけど絶対サイコキラーじゃない。
それって鏡みたい。
鏡に写る私は、私だけど私じゃない。
「いや、お前サイコキラーしすぎやろ!」ってツッコまれたかったら、もっと違う角度のサイコキラーっぽい衣装でも良かったはず。
そこで彼はあえて剥き出しの肉体を選んだ。
皮がない。顔がない。
外見がない以上、あなたかもしれないし、私かもしれない。
誰にとっても鏡になり得るってことは、「お前らの中にサイコキラーは潜んでいる。」ってことになるんじゃないか。
そう考えると、客席から登場するのも意味があるし、この曲に合うこれ以上の衣装はないと思える。
なんて頭を働かせてみるけど、実際はただ単に彼が面白がっているだけな気がする。