2024年8月号鷹俳句逍遥 補遺+あとがき
こんにちは。2024年7月から12月にかけて、鷹俳句逍遥を担当しています。池田宏陸です。よろしくお願いします。このコーナーで取り上げたい句や書きたいことがいっぱいあるのですが、一ページでは全てを書くことはできなかったので、noteでも鷹俳句逍遥を公開することにしました。
また、こちらは鷹編集部、高柳編集長、小川主宰に転載を許可をいただいております。ありがとうございました。
(本誌掲載分は公開日より一ヶ月のみの限定公開とし、補遺・あとがきの部分だけ無料公開として残ります。)
鷹俳句逍遥(補遺)
本誌に載りきらなかった分をここで紹介したいと思う。
リアリティのある句だと思う。ただ、俳句において何故リアリティのある句が魅力的なのか、私はまだ上手く説明できなくて、本誌にこの句を乗せることができなかった。
私はうどん屋にガス屋の暦を見たことはない。でもこの句はうどん屋にガス屋の暦があるという。その光景を信じたい、と思わせることがリアリティ、だと思うようになった。まだ見たことのないものを、既に見たことがあるという風に思わせるところ、が俳句の魅力の一つだと思う。
うどん屋とガス屋という生活の磁場の引力から一気に離れる揚雲雀の季語も面白い。生活の空間が季語によって大きくひらかれ、詩の世界に昇華される。
かわうそのあおぐかんせいあふれさう、とA音の明るさやK音に冬を感じさせる押韻が効いているし、中七を寒星で切って抑制するように見せてから下五でさらに展開させるところも上手いと思った。
でも、韻や抑揚のバランスといった、技術的な上手さを語るだけではこの句の魅力は半分も伝わらない気がする。自分でも上手く説明できないが、この句の本当の魅力は、もっと違うところにあると思う。
私たちは星空を描くことはできない。星空の絵を書いてみてもすべての星を描ききることはできない。〈星空〉と言葉にしてみても、星の数や空の色を伝えることはできない。だからこそ、私たちは何度も星を仰いで見てしまう。「あふれさう」はきっと、川獺が見た星空を描こうとして、描き切れなかった分を託した言葉だと思った。
このバスは死者の国の入り口に向かっている。しりとりをしているのはこの世界に残された子供だろうか。他愛無く進むしりとりも、バスを降りればその長い連鎖は終わる。死者と生者の時空間が交叉する瞬間を捉えた一句だと思った。〈しりとりは生者のあそび霧氷林/岩田奎〉を思った。
観覧車は外から施錠される。もちろん安全上の理由だが、こういう風に描かれると自分が外の空間と隔たれていることが強調されるような印象がある。ふと観覧車の外を覗いてみると桜が咲いている。もうすっかり春のはずなのに、まだ寒さが残っている。しばらくは観覧車を降りられない。なるほど、観覧車は地球上で最も孤独になれる空間かもしれない。
ほかに気になった俳句
あとがき
俳句に書かれてあることをそのまま散文に直すだけでは鑑賞にならないことに気づいた。パッと読んで好きな句なのに、それを言葉に変換すると急激につまらなく見える。俳句を読むときに、その句の技巧や季語の解説をするだけでは、それは鑑賞ではなくただの説明にとどまってしまう。
俳句を鑑賞するという行為は低容量のファイルを解凍して圧縮された情報を取り出すようなものだと思っている。最近になって、情報が俳句という形式に圧縮された時点で、JPEGみたいな非可逆圧縮性があるのではないだろうか、と思うようになった。つまり、俳句の性質上、鑑賞というプロセスを経ても圧縮される前の元の情報を完全に取り出すことはできない。失われた情報分を補う行為こそが、むしろ鑑賞の本質なのではないだろうか。
最近は俳句から直接読み取れない情報、自分の直感的なものを取り入れて鑑賞文を書く意識をしている。そんなこと俳句のどこにも書かれていないじゃないか、と言われるかもしれないが、俳句のどこにも書かれていないことを読みとることこそが、俳句の読みの豊かさなのではないかと思う。
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