2024年9月号鷹俳句逍遥 補遺+あとがき
こんにちは。2024年7月から12月にかけて、鷹俳句逍遥を担当しています。池田宏陸です。よろしくお願いします。このコーナーで取り上げたい句や書きたいことがいっぱいあるのですが、一ページでは全てを書くことはできなかったので、noteでも鷹俳句逍遥を公開することにしました。
また、こちらは鷹編集部、高柳編集長、小川主宰に転載を許可をいただいております。ありがとうございました。
鷹俳句逍遥(補遺)
この句について語りきれなかったので紙面の都合上泣く泣くカットした分をここに補遺として書きたい。この句の「もう」に心を奪われた、と書いたが、「もう」の位置もとても良いと思う。例えば語順を変えて以下のような句だったらどうだろうか?
随分と印象が違うと思う。試しに二つの句を声に出して読んでみてほしい。改作では「犬をれば/もう撫でてをり/風光る」と575の韻律通りに素直に読めて、これでも悪くないとは思う。しかし、元の句を読むと「風光る/犬をれば/もう撫でてをり」と、「もう」にアクセントが強くかかる感覚はないだろうか。犬が撫でたくて撫でたくて待ちきれない感じが、この位置の「もう」によって感じられないだろうか。この句の「もう」をもしかしたら私は一生忘れないかもしれない。
もう少しこの句について語りたい。
上手い句だと思うし、良い句だと思うけれど、この句が名句かと聞かれたら、そうではないと答えると思う。春の季節に犬を撫でる句という発想は既にあるだろうし、この句を句会に出しても特選でこの句を選ぶ人はあまりいないのではないだろうか。それでも、どうしても私はこの句を取り上げたかった。わたしがこの句に惹かれたのは何なのか、私は上手く言葉にすることはできない。発想が斬新というわけではない。たいへん技巧的な句というわけでもない。それでもどこかに、詩の核がこの句にある。テキストからは根拠を示すことはできない。でも、詩を信じさせてくれる句だと思う。私にはこの句が一番輝いてみえた。
先月は〈オーボエの一息長し春の宵/藤田かをる〉を鑑賞したばかりだが、どうやらわたしは音楽の句が惹かれる傾向がありそうだ。
この句の一番の魅力は、楽器が一切書かれていないところにあると思う。
わたしは読んだ瞬間、どこにもピアノと書かれていないのに、ぱっとピアノを想像して、不思議に思った。確かに意外と座って弾く楽器はあまりない。強いて言うならチェロだろうか。チェロの独奏会であれば演奏が終わった後に椅子だけが残るので、より〈椅子残りたる〉感じに近いかもしれない。でも個人的には桜はピアノな感じがする。卒業の時期に弾くピアノなどを想像してみても良いかもしれない。
ピアノにしてもチェロにしても、それは私が幻視しているものに過ぎない。この句の中で実在しているのは、椅子とさくら、そしてたった今弾き終えた音楽の残響だ。音楽はやがて無音になっていく。桜もやがて散っていく。減衰していく世界の余韻の中で、椅子だけが静かに残る。
ところで、俳句ではしばし、描かれる光景が空間の中と外で分断される、いわゆる「中外問題」がある。この句も、例えば〈弾き終へて椅子残りたる〉をコンサートホールなどの部屋という空間の中の光景、〈さくら〉と部屋の外の空間の光景と捉えることができる。
一句の中で二つの空間を作り出すこと自体は俳句では割と常套的だと思う。この空間の分断の強さは俳句の型によって変わる。よく言われるのが〈や〉切れの型で「カットが切れる」などと言うことが多い。
上の句の場合は実桜が外の空間、ピアノが中の空間の光景として描かれているが、その二つの光景を〈や〉という切れ字によって強く分断されている。しかし、杉崎せつの句の場合は〈かな〉の型でシームレスに中と外の空間が繋げられている。
意味のレイヤーではそれぞれ中の空間と外の空間なのだが、一句の調べの上で一体化する引力、とでもいうべきだろうか。杉崎せつの句も森賀まりの句も桜は決して空間の中で幻視している桜ではなく、実景の桜だとわたしは思う。本来は、主体は空間の外と空間の中の光景を同時に見ることはできない。しかし、俳句の上ではこのように異なる位相の時空間を同時に見せることが可能だ。
技法と型の話で脱線してしまったが、この型の使い方自体が斬新であると言いたいわけではないし、取り合わせについての批判(直近だと板倉ケンタの時評が話題になったが)も一考に値する。しかし、この型にはまだまだ可能性が残されているのではないかと思う。
ほかに気になった俳句
あとがき
今月分の鷹俳句逍遥が公開された後、木原登さんから手紙が届いた。作品ではなく鑑賞で反応をいただいたのは初めてなので嬉しかった。こういう一般の会員が書く短評をちゃんと読んでくれる人がいることに改めて驚いた。考えてみると、一ページに十数人の俳句が載るような結社誌に、わたし一人の文章が一ページを占めるということはすごく大きなことだと思う。依頼を受けたときに責任感を感じなかったわけではないけれど、改めてこの鷹俳句逍遥におけるわたしの役割について考えさせられる出来事だった。
わたしはあまり句は上手ではないし、ましてや大した散文も書けない。「鷹」という大きな結社においてはわたしよりすごい俳句を書く人や、素敵な鑑賞をする人はいくらでもいる。そこが魅力的な結社だと思うが、やはり一人の会員の作品は他の会員の傑作の中にどうしても埋もれてしまう。だからせめて、わたしができる範囲で、自分が本当にいいなと思った作品について少しだけでもスポットライトを当ててあげたい。
いつかちゃんと俳句の批評が書けるようになりたいと思うけれど、今のわたしは力不足だ。批判のない文章は身内的である、という批判は甘んじて受け入れる。わたしの俳句の読みはあまり丁寧ではないし、文章も決して上手ではない。それでも、今は、読まれると嬉しい文章を書いていきたいと思う。
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