2024年7月号鷹俳句逍遥 補遺+あとがき
こんにちは。『鷹』七月号から六ヶ月間、『鷹』の俳句を読む鷹俳句逍遥を担当することになりました。よろしくお願いします。このコーナーで取り上げたい句や書きたいことがいっぱいあるのですが、一ページでは全てを書くことはできなかったので、noteでも鷹俳句逍遥を公開することにしました。こちら転載を許可していただいた鷹編集部、高柳編集長、小川主宰、ありがとうございました。
(本誌掲載分は公開日より一ヶ月のみの限定公開とし、補遺の部分だけ無料公開として残ります。)
鷹俳句逍遥(補遺)
本誌に載りきらなかった分を改めてここで紹介したいと思う。
俵万智の有名な歌〈寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ〉を連想したが、この句の二人は微妙に通じ合ってない感じがする。寒さはきっと分かち合うことができても、淋しさまではきっと分かち合えない。それでも、淋しいね、とこぼしてしまった。言葉を拾った一句だ。
日本のクリスマスにケーキを食べるようになってからおおよそ百年経つらしい。この人はわざわざクリスマスに鮨屋に行ったのだろうか。普通の日であればお寿司は喜ばれるのに、鮨屋ですら、やっぱりクリスマスは寿司よりケーキですよね、と認めてしまっている。ケーキに勝てなくても、鮨屋は寿司を握るしかない。変に正直なクリスマスの俳句だと思った。
おそらく年末が近づきつつある頃に、「今年何があったっけ」と思いながら日記をめくっているのだろう。三大ニュース、とわざわざ言ったのが良い。一年に大きなニュースが三つくらいあったはずだ、という感覚はわかるし、パッと思い浮かばずにやっぱり日記で捜さなければない、という感覚もわかる。冬林檎の明るさに、なんだかんだ平和な一年だったのだろうと思わせる。
あとがき
初めてしっかりした一句評を書いていて緊張しています。そもそも『鷹』の中でこのような文章を書くべき人はもっといるとは思っていて、なぜわたしが、という気持ちもありますが、それでもわたしにしか書けないことがある、という気持ちで書こうと思います。基本的にわたしに求められていることは一句評だと思うのだけれど、単純に優れた句を選んで鑑賞するだけならば、主宰や同人の句、あるいは推薦三十句の中から選べば済む話だと思う。だからこそ、ちゃんと〈わたし〉が鑑賞する意味をしっかり考えながら書きたいと思う。半年間の俳句逍遥を通して〈わたし〉が少しでも見えたなら、うれしいです。
『鷹』から句を選んでいる時、句会のような匿名性が担保されていない、明示的に作品と作者が結びついているところからN句選ぶという作業は実際にやってみるとかなり難しかったです。選ぶ時に、佐佐木定綱さんの以下のポストが脳裏をよぎりました。
(性別に限らず)無意識のバイアスをどこまで自覚することができるか、というのがわたしの中で課題だと思っています。実際、『鷹』の誌面では年齢や性別はわからず、名前と出身地しか載っていませんが、一句評、というとても小さな形の中でも、自分のできる範囲で幅広く紹介したいなと思っています。
今月の鷹俳句逍遥では戦争の句について取り上げています。初めて書く評なので文章がごちゃごちゃしていて結局言いたいことがあまり言葉にできなかった気がします。ああすればよかった、と今になって思うことはいろいろありますが、一番の後悔は、わたしがはっきりと、虐殺、と書かなかったことです。
現実の戦争を題材の作品をつくることは、俳句に限った話ではなくて、例えば短歌では「暴動のニュースを消せば暴動は消える僕らの手のひらのうえ(西村曜『コンビニに生まれかわってしまっても』)」などの歌もあるし、『現代短歌』2024年7月号の特集「GAZA」や、高良真実さんの短歌時評で社会詠の効力について書かれていたのが印象的でした。
宣伝
わたしが所属している鷹俳句会は会員を募集しています。全く未経験の方から長く俳句を続けてこられた方でも歓迎しています。無料で句会の見学や見本誌がもらえますので、興味があればお気軽にお問合せください!