日本の定型詩を音楽理論で喩えてみる

最近日本の定型詩を音楽理論に当てはめて考えることが多くなったので、とりあえず文字におこしてみています。

  • 定型詩(?)を音楽(?)理論(?)で喩えてます。

  • そもそも音楽理論とは何か知りたい方はSoundQuestのウェブサイトを読むとわかりやすいかもしれません。

  • また、比喩表現はそれぞれ単発で思いついたものなので、これらが無矛盾的であることを保証しません。定型詩を音楽理論を用いて体系的にまとめる試みではありません。

  • 特に根拠もないただの個人の感覚であり、西洋ベースの音楽理論を日本の短詩に持ち込んで考える危うさを理解した上で、読んでいただければ幸いです。

  • 思いつき次第追記しています。



定型詩における韻律の制限(57577など)と音楽における拍子は(成り立ちは違うけれど)本質は似ていると思っている。人類は有限の時間のなかで無限の音を扱うことができないから、区切るしかないのだ。

定型詩の構造をコードに分解して書き起こす、みたいなことはできると思っている。たとえば〈思い出の一つのようで/そのままにしておく/麦わら帽子のへこみ〉(俵万智『サラダ記念日』)というふうに、短歌を韻律ではなく意味上のフレーズに分割してからそれぞれのフレーズにコードを与えるイメージ。

ジャズの譜面は基本的にメロディとコードのみで構築されていて、ピアノの左手に相当する部分は書かれていない。定型詩に置き換えると、表層的な意味内容がメロディ、文体やレトリックがコードとして表出されている、という感覚がある。同じメロディでも無限にリハーモナイズすることができるし、同じコードでも違うメロディをつけることもできる。だけど、コードとメロディが相互に影響し合うように、文体と意味内容は相互に影響し合う関係にあると思う。


でも、定型詩で大事なのはコードの構成音ではなくて、それぞれのコードの押さえ方(ヴォイシング)にあると思っている。同じコードでも違うパターンを限りなく作れる、その豊かさにわたしは惹かれる。


ヴォイシング、をうまく扱えるようになると言葉上でも省略可能・代替可能な部分も自然に見えてくるようになると思う。たとえば、ルート音を省いて三度と七度を維持しながらコードを構築していくことで最小限の音で成立させたり、代理コードや裏コードを用いて変化をつける、みたいなことが言葉上でもできると思う。


定型詩にも和声における最短経路の法則、というものが存在すると思う。定型詩はその短さゆえに、言葉上の〈最短〉を要請している感じ。短詩が上手な人はその最短ルートを把握していて、それをうまく利用したり迂回している気がする。


ポップスにおける4536進行、のように、お決まりのパターンというのが短詩にも存在していると思う。たとえば、俳句における「上五で季語、中七下五でフレーズをつくる」ことと感覚的には似ている。初心者に教えるためにはこのように技術を体系化することは大事なことだと思う一方で、それはただのパターンに過ぎないということは音楽も短詩も共通していると思う。


定型詩、とりわけ俳句の厳格さ(季語や韻律の制限など)はソナタ形式の美意識に通ずるところがある。ルール(という言い方はをわたしは好まないが、便宜上)自体に意味はないけれど、ルールを従うことに美的価値が見出しているような気がしている。

逆に定型詩のルールを厳格に適用していない(自由律や無季と言われているものなど)ものは、たとえば十二平均律を採用していなかったり、無調声であったり、変拍子であったりする音楽と感触が似ていると思っている。

旧仮名と新仮名は音楽における移調(トランスポーズ)に近い気がしている。たとえば、B♭メジャーをDメジャーに移調できるように、仮名遣いも理論上は1対1の関係にあって情報を失わずに翻訳することが可能だけれど、それを選んだ必然性が作者にある感じ。歌手の声域に合わせて曲をつくるように、作者の声域というものもあると思っている。仮名遣いは内容ではなく、作者の声域にあわせて歌われている。


声域は物理特性であるため、基本的には身体によって規定されているけれど、訓練によって広げることも可能である。これを、短詩の〈身体性〉と絡めて考えてみようと思った…けれどこれをあまりしたくない。なので、わたしは声域は〈身体の声〉の音域ではなくて〈心の声〉の音域と考えてみたいと思う。心の方が、身体よりずっとずっと強いので。

(2024年7月追記:身体と心の関係性をあまり深く考えずに書いてしまったことを反省している。特に「心の方が、身体よりずっとずっと強いので。」はかなり乱雑なまとめ方だと思う。もう少し勉強します。)


定型詩の良し悪しは詠われている内容ではなくて詠み方で決定づけられることが多いと思っている。詠み方、を技術的な問題に帰結することも可能だけれど、わたしはほんとうは自信(confidence)の問題だと思っている。


定型詩は楽譜に近い性質があると思う。音を記すことはできても読まれるまでは/奏でられるまではそれはただの記号に過ぎない感じが。楽譜/テキストの読み方に正解はないけれど、読み方は自由ではないと思う。

定型詩の〈書き手/読み手〉は音楽の〈作曲/演奏〉の関係に近いと思っている。音楽における聴衆のようにただ聞くだけの存在、がなぜ定型詩に少ないか、というのは、定型詩を読むことは音楽を聞くことよりも楽譜を読むこと/演奏することに近い能動的体験だからだとわたしは考えている。

楽譜が読めること/楽譜通りに演奏できること/優れた演奏ができること、はそれぞれ違うことだと思う。定型詩を読むときにもこの三つのフェーズは存在すると考えている。

楽譜を読むこと自体は、訓練すれば誰でもある程度読み方を習得することができると思う。ト音記号とは何か、シャープやフラットとは何か、といった具合に、まずは楽譜に書かれてある情報の基本的な読み方を知ることが第一歩だと思う。ただ、楽譜が完璧に読めても、それを演奏するためにはまた別種の訓練が必要になる。

楽譜に書いてある音や記号等の情報をすべて演奏に反映できる状態になってから、その曲をどのように演奏するべきか奏者自身が考えるフェーズに入ることができる。奏者の腕の見せ所はきっとここなのだけれど、そこに辿り着くまではかなり練習が必要になってくる。そこに辿り着くまでがきついと思う人もかなり多いと思う。

もちろん、全ての演奏者が「良い演奏」を目指す必要は全然ない。たとえ下手な演奏でも、音楽は楽しいものであるとわたしは思う。

わたしが定型詩はクラシックよりジャズの楽譜に近いと思うのは、クラシックの楽譜には必要な音が全て書いてあるが、ジャズの楽譜はメロディとコードの概略しか書かれていないから。同様に、散文も必要な音が全て書かれてあり、定型詩/ジャズ特有の文体や構造を勉強する必要がないから、比較的読みやすく、演奏しやすいのだと思う。

ほんとうは、楽譜が読めなくても音楽を聴くことができる、みたいに、詩を読まないあなたに伝えることができるなら、と思う。でも、その伝えられなさ、を含めて、詩、なのだと思う。


Wynton MarsalisとStanley Crouchによると、ジャズはスウィング、ブルーズ、そしてインプロヴィゼーションの三つの要素によって構成されている、という見解を示している。このように音楽を要素によって分解しようとする試みは定型詩にもあって、たとえば俳句の場合は575の韻律、季語、切れ、といった要素に分解することができる。ただ、これらの要素を満たしていればジャズである/俳句であるというわけでは決してないと思う。では、何がジャズをジャズたらしめているのか、俳句を俳句たらしめているのか、という議論は今後も尽きることはないと思う。

ただ、それが俳句であるか/それがジャズであるかという問いかけは、単にテキスト/サウンドのレベルを超えて、その芸術が参照されている文化や歴史にまで波及するものだから、決して無意味ではないと思う。少なくとも、「これは俳句だと思って書きました」「これはジャズだと思って演奏しました」という自己申告だけでは、規定することは危険だと思う。

ここまで考えた上で、やはり作者を信じるところから始めたい。俳句だと思って書いたものが俳句であり、ジャズでと思って演奏したものがジャズであることを、わたしは尊重したいと思う。



2024年8月28日追記

定型詩と音楽の共通する要素の一つに韻律、があると思う。しかしソネットや四行連などの西洋の詩形式は偶数的であることに対して、日本の詩形式は奇数的である……という指摘は多分散々されてきたと思うのであまり深入りはしない。改めて、西洋の音楽理論で日本の定型詩の韻律を語ることに限界はある、と前置きしておこうと思う。


大塚凱さんによる定型詩の韻律の面白い捉え方を見つけたので、引用させていただく。

「俳句の特徴と言うと、だいたい「五七五」と言われますが、私は「17音くらい」と言い方をしています。

「川柳」も同じ「五七五」ですが、俳句の方は季節を表す「季語」があったり、「けり」や「かな」といった感嘆や詠嘆を深める「切れ字」を用いたりする……といった具合に、そうすると好都合な仕組みが構築されています。

ただし明確に17音と決まっているわけではなくて、字余りや字足らずもあるので、「17音ぐらい」と言っています。

音楽にたとえると、4拍子3小節くらいのリズム感ですね。」


4拍子3小節の捉え方は秀逸だと思う。

大塚凱
https://workmill.jp/jp/webzine/ai-haiku-otsuka-gai-20240828/

とはいえ、日本の定型詩に厳密な拍子があるわけではないとも思う。たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」を声に出して読み上げる時、

ふるいけや⚪︎⚪︎⚪︎
かわずとびこむ⚪︎
みずのおと⚪︎⚪︎⚪︎

ではなくて

ふるいけや⚪︎⚪︎
かわずとびこむ⚪︎
みずのおと⚪︎⚪︎⚪︎

くらいの感覚がある。読み方のリズムは内容や切れの位置などによって違うと思うけれど、少なくともきっかりしたリズムで読まれることはほとんどないと思う。このリズムの微妙な加減速、揺らぎに日本の定型詩の快がある気がする。

このリズムの揺らぎを短歌より俳句の方が重要視しているイメージがあって、だから字余りや字足らずをより強く嫌う傾向にあるのだと思う。

私が最近興味を持っているのはパルス、いわゆる強拍/弱拍、表拍/裏拍の存在だ。ポップスであればキックやスネアの位置を調整することで同じ4拍子の中でも多彩なグルーヴを生み出すことができる。同様に、定型詩の575(77)の音節とは別に、切れの位置や音を調整することで違うグルーヴが生まれている可能性があると思う。

たとえば〈水枕ガバリと寒い海がある/西東三鬼〉などはきっちり定型に収まっているが、かなり独特なグルーヴを持った句だと思う。

みずまくらがばりとさむいうみがある

と、二つの濁音が連続しているところに一句の韻律の重心が置いてある印象を持つ。ここに強拍が生まれて、定型にもかかわらず独特のグルーヴを生み出している、と考えている。


2024年10月15日追記

音楽にライブがあるように、短詩にも句会・歌会というライブがある。同じ曲でも、CDのスタジオ音源で聞く音楽と実際のライブで聞く音楽は違うように、同じ短歌・俳句でも、歌会・句会で読むのと歌集・句集で読むのでは体験として違う。同じサウンド、同じテキストであっても、環境によって体験が全く異なる。言い換えると、サウンドだけが音楽ではないし、テキストだけが短詩ではない。

ライブ感、というものに大きな魅力を感じる人がいる以上、ぜひ一度体験してみてほしいのだけれど、ライブこそが音楽というわけではないし、句会こそが俳句というわけではない。だから句会に行かないと俳句が上達しない、といったことはなるべく言わないようにしたい。句会は俳句的体験のひとつであって、すべてであってほしくない。


2024年11月20日追記

音楽を演奏するにあたり、〈楽譜に書いてある音や記号等の情報をすべて演奏に反映できる〉フェーズがある、という話をしたが、当然ながら楽譜には書かれていない情報がいくつかある。簡単な例だと音の大きさを示すピアノ・フォルテは、具体的に何デシベルである、というわけではない。音の大きさを最終的に決めるのは演奏者だ。演奏者は楽譜に書かれていない文脈から、フォルテとはどれくらいの大きさなのかを決定しなければならない。

他にもピアノの演奏にはどの音をどの指で弾くかを決定する(親指がド、人差し指がレ、のように)、指使い、という概念がある。初学者向けの楽譜には全て書かれているが、たいていの楽譜には書かれていないことが多い。良い奏者は書かれている音符からどういう指使いを使えば良いのか、文脈により推測が可能であることが多い。また、複数の指使いが可能な場合は、どの指使いが最適なのか、その判断は奏者に委ねられている。これも、練習を重ねることではじめて習得できる技術だ。

という話を短詩に置き換えて考えると、短詩の鑑賞も〈書かれている情報〉と〈文脈によって推測できる情報〉のふたつのレイヤーの存在を意識して考えると良いかもしれない、と思う。情報をどう推測すれば良いのか、というのはセンスではなく、練習の範囲である程度できることだと思う。

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