2024年11月号鷹俳句逍遥 本誌掲載分+補遺+あとがき【期間限定公開】

こんにちは。2024年7月から12月にかけて、鷹俳句逍遥を担当しています。池田宏陸です。よろしくお願いします。このコーナーで取り上げたい句や書きたいことがいっぱいあるのですが、一ページでは全てを書くことはできなかったので、noteでも鷹俳句逍遥を公開することにしました。

また、こちらは鷹編集部、高柳編集長、小川主宰に転載を許可をいただいております。ありがとうございました。

(本誌掲載分は公開日より一ヶ月のみの限定公開とし、補遺・あとがきの部分だけ無料公開として残ります。)

鷹俳句逍遥(本誌掲載分)

ドロップに舌を切りたる昭和の日

林田美音

「昭和の日」は扱いの難しい季語だ。国民の祝日に関する法律によると「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ために制定された祝日だが、特に平成生まれの私にとってはなかなか実感の乏しい季語だ。

この句においてドロップの飴は単に懐古心を象徴するものだけではない。昭和という時代が現代へと続いていることを、痛みによって感じさせるところが秀逸だ。昭和を生きていない私でも、この句を読むことで過ぎ去った時代を少しだけ味わうことができた。


親切の背後の打算遠花火

中村大介

毎年楽しみにしていた地元の花火大会が自治体の資金不足が原因で今年は開催されなかった。いくら花火が日本の夏の風物詩とはいえ、親切だけでは花火は上がらない。花火を打ち上げるためにはそれなりの準備とお金が必要だ。この句の中の遠花火もきっと誰かの親切、そして誰かの打算によって打ち上げられたものなのだろう。


積乱雲の直下なりけり杖と我

 内海紀章

俳句は縦書きの一行詩だから、言葉に対して垂直に重力が働いている。この句はその重力を上手く利用して一句の光景を立たせている好例だと思う。夏の雲と杖と体が一直線に並んでいる。一句の終わりに錘のように置かれた「我」によって、光景の重心がしっかり定まったように見える。


菜の花は蝶に娘は母と化す

渡部まりん

この句の季語は「菜花蝶に化す」で、文字通り菜の花が黄色い蝶に変化する幻想的な様子を描いている。一方で、娘が母になるというのは現実の状況だ。この二つの変化を「化す」という一語でまとめることによって、幻想と現実が攪乱される。娘が母に変異する不思議さを思わせる、レトリックが活かされている一句だ。


白飛白馬鹿がつくほど真面目なり
すべきことすべてすまししすずしさよ
扇風機首たてに振るつもりなし
いらんこと言つてしまひし暑さかな

小野展水

一読明快、説明不要の面白さがある一連だ。どれも分かりやすい内容だが、詩としての説得力があるのはやはりどの句も心の動きを的確に捉えているからだと思う。これらの句は主観的に見えるが、私は写生の句だと思う。つまり、写生の対象を作者の外側の世界から作者の内面にまで広げられているのだ。心の動きをじっくり観察して、季語と合わせればそれだけで俳句は詩になる。


鷹俳句逍遥(補遺)

霾ぐもり街に書店はあとひとつ

水木余志子

本屋がどんどん減っている、というのは何も今にはじまったことではない。なにせ、この20年足らずの間に約7700店減ってるくらいだ。書店が減っていく、という句を今詠んでも新しくはない。それでも、わたしはこの句の下五〈あとひとつ〉に心を動かされた。〈あとひとつ〉は、単純に今の街の書店の数を表すだけの言葉ではない。消えてなくなってしまった書店を想像させる言葉、そして変わりゆく街の見てきた視点を感じさせる言葉だ。きっとこの街に書店がいくつもあった頃を知っていた人なのだろう。同じ街に長く生活しているからこそ、〈あとひとつ〉という言葉になったのだと思う。「あとひとつ」の書店がなくなる頃には、この街はどうなっているだろうか。自分はどうなっているだろうか。黄塵の街に思いを馳せる。


音楽を低く聴く夜春の雪

島海壮六

多層的な「低く」に惹かれた。コントラバスのような低い音色を聞いているのかもしれない。あるいはスピーカーそのものが地面に置かれているのかもしれない。ちゃんと読んでみると、「低く」は「音楽」ではなくて「聴く」の方にかかっている。ならば、「低く」は音楽を聴く時の心をとらえている言葉なのかもしれない。

外では春の雪が降っている。高いところから低いところへ集まっていく雪。しかし決して降り積もることはなく、すぐに溶けてしまう。音楽を目で見ることはできないが、この俳句の中で流れている音楽は、きっと春の雪と同じように降っているのだろうとわたしは思った。


京立夏天使突抜てんしつきぬけ一丁目

西台恵

やられた。一般的に、固有名詞を俳句に使うときには読者に伝わるように注意しなければいけないが、こういう風に一句にされると敵わない。誤解を恐れずに言うと、詩情は高いが、内容が薄い俳句だと思う。天使が突き抜けるイメージと実際の街はおそらく関係はないだろう。現実の街の風景に変換して想像することを拒んでいるように感じる。つまりこの句は言葉の上のみで成立しているポエジーだ。〈京立夏〉と勢いをつけたところも良い。風景に変換しないままで、言葉のままで読みたい、スピーディーな一句だ。


チョコミントアイス隣の奴が言う普通

大塚絵里香

チョコミントアイスが良い。決して全員から愛されている味ではなく、嫌いな人からは「歯磨き粉の味」と揶揄されることもあるアイスが、この句では抜群に効いていると思う。読者がチョコミントアイスの味をどう評価するかによってこの句の読み方が変わってくるような面白さがある。チョコミントアイスは複雑だ。そういう意味では、「普通」という言葉はほとんどチョコミントアイスだと思う。

わたしはこの句からアイスクリーム屋さんの光景を想像したが、この句の中で描かれているのはどんな「普通」だろうか。「普通に美味しい」だろうか。「普通の味」だろうか。「普通に嫌だ」だろうか。チョコミントアイスならどれもあり得る。アイスの味の数だけ普通の数がある。あるいは、普通の数だけのアイスの味がある。


ほかに気になった俳句

獣園の回転扉ライラック

吉永道代

火口湖の堪へる秘色ひそく夏来る

葛井早智子

三角は幾何の始まり燕の子

安藤辰彦

ギブ・ミー・シガーと叫びし子らや夏怒濤

内海紀章

あとがき

最近一句句会というものを立ち上げました。

多作を目的とする句会(百句会など)では相対的に読みの重要性が減ってしまっているから、逆のアプローチで句会をやってみたらどうなんだろう、と思ったのがきっかけでこんなルールで作りました。全句評を義務付けたことで、選ばれなかった句に対しても複数の読みが提示されるところが今のところ良いなと思ってます。

そもそも俳句の読みを豊かにする上で、句会における選のシステムに以前から疑問に思っていて、従来のルールにとらわれずにオルタナティブな句会をやってみたくていろんなルールを考えてみてはいるんですが、やってることがどんどん俳句から離れてゲームデザインになってしまっているのがよくないなーと最近思ってます。また、どんなにルールが整えてもそのルールに適応できるコミュニティがないと意味がないのではないか…とかも思ったりしてます。(ここら辺話すと長くなるので、いつかnoteでまとめたいと思います。)鷹俳句逍遥のように地道に評を書くことが一番良いと思いつつも、もう少し別のやり方も模索していきたいなと考えています。がんばります。


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