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「怪物」 感想


 お久しぶりです。最近いろいろ忙しくて映画を見れていませんでした。そんな忙しい時期も終わり、久々に映画を見に行くことができました。今回見た映画は、是枝監督の新作「怪物」です。しばらく前に公開されて映画好きの中では話題になっていた作品ではないかと思います。また、今年3月に亡くなられた坂本龍一さんの音楽が使われており、私自身、去年予告を見てからずっと楽しみにしていました。今回その「怪物」の感想や考察を私なりに書こうと思うのですが、もし皆様がこの記事を読んでくださるのであれば、一度この映画を見てから読んでいただけたら嬉しいです。それほど様々な見方、解釈の仕方がある作品だと思いました。

あらすじ


物語の舞台は、大きな湖のある郊外の町。息子を愛するシングルマザー、生徒思いの学校教師、そして無邪気な子どもたちが平穏な日常を送っている。そんなある日、学校でケンカが起きた。それは、よくある子供同士のケンカに見えたが、彼らの食い違う主張は次第に大人や社会、メディアを巻き込み大事になっていく。そしてある嵐の朝、子供たちが忽然と姿を消す。
https://www.cinematoday.jp/page/A0008819 より引用) 




 まず、この映画はシングルマザーの早織、その息子湊、湊の小学校の担任の保利、湊の同級生星川、そして湊と星川の小学校の校長がキーパーソンと言える。そしてその中で、早織の視点→保利の視点→湊と星川の視点という順番で映画が展開される。それぞれの場面に分けて書いて行くが、まだ一回しか見てないので曖昧な記憶だが許して欲しい。

早織の視点


 初めは早織とその息子湊の仲の良さが窺える描写がされる。しかし、息子の様子が最近どうもおかしい。長い髪を突然自分で切ったり、耳から血を流して学校から帰ってくる。さらに、一人で家を抜け出し、使われていないトンネルの中でスマホのライトをかざし、「怪物だーれだ?」と叫んでいる。早織はそんな息子を車で連れて帰ろうとするが、息子は走っている車から無理やり出ようとし、怪我をした。なぜこの様な行動を取ったのか。どうやらその原因は担任の保利にある様だ。担任に「お前の脳は豚の脳だ」と暴言を吐かれたり、鼻を殴られたりもしたらしい。早織はこのことを明らかにするため学校に乗り込む。そして、校長や教頭にそのことを話す。すると先生方は担任の保利を連れてきて頭を下げさせる。しかし、その謝罪はどうも心がこもったものではなく、機械的な形だけの謝罪だった。早織はそれを問い詰めようとするが、何度話しかけても先生方から帰ってくるのは機械的な返事である。なぜこんな対応なのか、早織は不気味に思っている。すると他の先生から、校長は少し前に孫を亡くしており、傷心していると聞かされる。そして原因は、自宅の庭で夫が車で跳ねてしまったことだという。しかし、早織にとってそんな事はどうでも良い。機械的な対応をする校長に対し、「私が話しているのは人間?」と聞く。
 そんな何度目かの訪問のある時、保利から「お宅の息子は同級生の星川をいじめていますよ」と告げられる。適当な謝罪をされる続けるでなく、この様なことを言われた早織は「お前の脳が豚の脳じゃないの?」と保利に言い返す。そして、星川や湊から直接話を聞き、どうやらいじめている様な事実はないのだとわかる。そして早織は、保利が学校を辞めるために動き出す。そして保利が体罰をしていることが全国に報道され、早織にとっては全てが解決した様に思えた。しかしある嵐の夜、息子の湊は忽然と姿を消すのだった。

ここで描かれる「怪物」


 早織の視点から描かれる「怪物」は、自分の学校を守るために適当で形だけの謝罪で問題を済ませようとする教師たちだろう。私もここまで見たときは、保利を演じる永山瑛太さんと、校長を演じる田中裕子さんの演技が上手いのもあり、無性に腹が立った記憶がある。

保利の視点

 次に描写されるのは保利の視点だ。早織の視点から見た保利の印象は、どこか人格に問題がある人物の様に思えた。しかし、ここで描かれる保利は彼女もおり、普通の好青年である。ある日、保利が自分の教室に行くと、湊が他の子たちの物を投げ飛ばして暴れていた。保利はそれを取り押さえようとするときに、肘が鼻に当たってしまい、湊は鼻から血を流す。そして、それを聞きつけた湊の母親が、「保利が息子をいじめているのではないか」と学校に乗り込んでくる。保利はしっかり説明しようとするが、周りの教師たちは「説明して余計に大ごとにしたくないからとりあえず謝れ」と、形式的な謝罪を保利に強要する。校長は自分と孫との写真を客席に見える様に置いたり、どうも納得いかないが、保利は仕方なくそれに従い、不本意ながら謝罪するのだった。
 ある日自分のクラスの女子生徒が猫の死体を見つけ、湊がこの猫の死体で遊んでいたのを見たという。また、星川がトイレに閉じ込められ、「怪物だーれだ?」と言っているのを見つける。トイレから出てくるのは湊だった。保利はこれらのことから、湊は異常な行動を取っており、星川をいじめているのではないかと思い始める。保利はこのことを解決するために取り敢えず星川の家に行く。そこには酔っ払った星川の父がおり、「息子は豚の脳だから直してやらないといけないんだ」と言われ、唖然とする。そんなこんながあったが、自分が「体罰をした」ということが教育委員会にも知らされ、保利は学校を辞めることとなる。しかし、当然に納得できない保利は湊と話をしようと後日学校に行き、湊を追いかける。そして追いかけられた湊は階段から落ちてしまう。どうしようもないと思った保利は学校の高所から飛び降りようとする。しかしそこで、怪物の鳴き声の様なものを聴くのだった。そして、嵐の夜、保利は自宅で荷物の整理などをしているときに、星川の作文を見つける。その頭文字を抜き出していくと、星川と湊の名前が綴られている。湊が星川をいじめているわけではないと気づいた保利は、謝るために嵐の中、湊の家まで走っていくのだった。

ここで描かれる怪物

 保利の視点から描かれる怪物は、息子のために事を大袈裟にするモンスターペアレンツ的な母親、また、学校のため、自己の保身のためだけしか考えない利己的な校長や教頭だろう。

湊、星川の視点

 そして、この物語のクライマックスを飾るのが星川、湊という二人の子供の視点である。この視点から見ることによって、これまで不可解だった物語の全容が明らかになる。
 星川は小学校で多くの生徒たちによっていじめを受けていた。そんな中で、湊は他の男子生徒とは違い、星川に惹かれ、学校終わりや休日に「二人だけの秘密基地(廃列車)で遊んだり、宿題をしたりするほど仲良くしていた。しかし、他の生徒たちに気付かれると、自分まで標的になると危惧していたのか、学校内ではいじめの加害者側に加わることも少なくなかった。早織の視点で描かれていた、湊が突然髪を切ったことや、耳から血を流していた事などはここに関わってきており、湊は保利にやられたと嘘をついていたことがわかる。
 では、なぜこの様な嘘をついていたのか。星川は直接的には描写されていないが、同性愛者であり、星川の父親が言っていた「豚の脳」とは、星川の同性愛を否定するための言葉だった。そして、星川に惹かれていた湊もまた、自分もそうであると自認し始めるが、それを受容するのは難しいことであった。保利が時折口にする「男なんだから」という言葉や、母親から言われる「普通の家庭を気づいてくれれば・・・」という言葉は、湊を苦しめるものだっただろう。それゆえ、母親にも担任にも、本当のことを隠すしかなかったのである。
 二人は会話の中で、ビッグクランチという現象の話をする。ビッグクランチとは、宇宙の終わり方の理論的可能性の一つであり、膨張し続ける宇宙が最終的に膨張をやめ、収束に転じ、高密度の状態に戻っていくというものである。二人はこのビッグクランチのために廃鉄道の秘密基地を飾り付けるなどして準備をしていた。
そして、嵐の夜が来る。嵐の中、二人はビッグクランチが来たと信じ、準備していた廃鉄道の中で、二人だけの最期を迎えるのだった。嵐が止んだ世界に出ると、そこには変わらぬ二人がおり、二人の行く末を妨げるものはなくなっているのだった。

考察と感想

「怪物」について

 一応補足すると、この映画の中で星川と湊が度々口にする「怪物だーれだ」というのは、二人が遊んでいたゲームで使う文言だった。お互いに額の上に動物の絵を書いた紙を掲げ、その動物の特徴を言い合い、何の動物が描かれているか当てるというゲームである。星川がトイレに閉じ込められたときにこれを口にしていたのは、湊に自分がここに閉じ込められているのを知らせるためだった。この言葉は二人の合言葉の様になっていた。
 この言葉の通り、私も映画を見ているときは「誰が怪物なのか」というのをずっと考えていた。早織の視点では、保利や校長などがまさしく怪物に見えた。しかし、別の視点を見てみると、全くその様に感じない。つまり、初めから怪物なんてものは存在しない。他者を偏見の目や一視点的な目を持って見つめた時に、その怪物が浮かび上がる。そしてこの映画では、何かを愛そうとするときに、それが行きすぎたことで怪物が生まれると言う構図になっている。早織は湊を、保利は生徒たち、校長は学校、そして湊と星川は互いを。人は何かを愛し、それを守る正義を持つときに、その正義に囚われてしまうのではないだろうか。

ラストシーンについての考察

 先にも述べている通り、ラストシーンでは嵐の夜に2人の子供が失踪する。湊を追いかけて家を出た里織は、家の前でずぶ濡れになって湊の名前を呼ぶ保利と遭遇し、2人で星川と湊を探しに行く。里織は以前湊が1人でいた場所を思い出し、そこへ向かう。そして2人が遊んでいた廃列車を見つけ出し、泥をかき分けて窓から中を見るが、その中には誰もいなかった。
 星川と湊は嵐で洪水状態の廃列車の中で過ごし、晴天となった世界へ出かけるのだった。以前は柵がしてあり、入れなかった場所の柵はもうなくなっていた。

星川「生まれ変わったかな?」

湊「そう言うのは無いと思う」

そう言って2人は光差す草原を駆け出すのだった。

これまで、湊は自分の性を自認しつつあるも、中々需要できずにいた。しかしこのラストシーンでは、ありのまま、ビッグクランチが終わっても変わらないままの自分たちを受け止められるようになっていると感じる。 
 このシーンではこの2人が死んでしまったのか生きているのか明確にされていない。そこを追求するのも野暮かなと感じたが、個人的には、線路上の柵がなくなった世界=2人が障害や邪魔の無い理想的な世界に行ったのでは無いか。と解釈した。

最後に

 少々長くなってしまいましたが、正直これでも書ききれていない部分も沢山あるし、まだまだ考察のしようもあると思います。それくらい内容の濃い映画だと感じました。また、内容だけでなく、坂本龍一の音楽から、脚本、構成も素晴らしいものでした。このnoteを読んで少しでも興味が湧いたら、ぜひ見に行くことをお勧めします!
また、見たと言う人はぜひ考察をお聞かせ下さい🤭










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