親子の対話は、安全地帯を見つけることから〜岸田ひろ実のコーチングな日々〜
わたしと娘にとっての安全地帯は、車の中でした。
今でこそ、娘とは穏やかに本音を言いあえる良い関係でつながっていますが、彼女が高校生のころは、よく衝突しました。
娘が深夜にパソコンで遊ぶことにはまり、朝起きられず、遅刻が増えたこと。
進級のための単位を落としそうになったこと。
女子同士のややこしい友人関係にうんざりしていること。
思春期らしくいろいろなことが重なり、娘もイライラし、わたしも心配が積み重なって、彼女を叱ってしまうのです。
衝突が増えれば、すれ違いが増えます。
親子の間の対話がなくなると、いろんな問題が起きてしまうのです。
例えば、学校でいじめにあっていても、親に言えない子どもがいます。
子どもは「いじめられていると知ったら、親を悲しませてしまう」と思うのかもしれません。
でも、必ずしも親の反応がそうであるとは限りません。
悲しまず、共感したり、冷静に対応したりすることもあるでしょう。
本音を言い合えず、嫌な想像がふくらむと、物事はうまく進んでくれません。
しかし、親子のように近しい関係ほど、わかりあえないのです。
ともに過ごす時間が長いからこそ、「きっとわかってくれているだろう」という思い込みが生まれるし、恥ずかしさもあります。
そもそも人は、自分の感情や気分すら、よくわかっていないんですから。
だから親子の対話は、親が意識的に作らなければならない、とわたしは思います。
最初はわたしも、娘と対話しようとして、失敗続きでした。
「わたしの気持ちなんてわからないくせに」と、娘が対話を投げ出してしまう。
でも、振り返れば、わたしは娘の機嫌が悪いときや、衝突しているときに、あわてて対話をしようとしていました。
機嫌が悪いときほど、他人のアドバイスを素直に受け入れる気になれないのは当たり前です。
衝突しているときは、嵐が過ぎ去るのを待つように、なにも言わず受け止めるだけ。
対話は、娘の機嫌が良いときにしよう、とわたしは決めました。
その日からわたしは、娘の機嫌の良いときを探してみました。
すると、わたしが車を運転して、娘が助手席に座っているときは、なんとなく楽しそうに話しかけてくれることに気づきました。
運転しながらの片手間という気軽さ、目的地に到着するまでの時間、流れている音楽など、いろんな要素があったのでしょう。
たとえば、寝坊した娘を高校まで車で送るとき。
わたしはさりげなく「あとどれくらい単位を取れれば良いんだろう」や「どうやったら起きられそうかな」などと、尋ねてみることにしました。
怒っていたときの娘は「知らない」と答えるだけでしたが、車のなかでは、ぽつりぽつりと娘なりの考えを打ち明けてくれるようになりました。
わたしも車の中では、娘に本音や悩みを打ち明けるようにしました。
安全地帯とは、安心して、本音を言いあえる場所。
わたしと娘にとっては、車のなかがそうであると、暗黙の了解になりました。
対話をするときは、いつ、どこでするのかを、じっくり相手の様子に目を向けてみて、決めてみるのが良いと思います。