忙しくない時の忙しさを大事にしたい〜岸田ひろ実のコーチングな日々〜
わたしは今、とても忙しくない。そう、暇なのである。
なぜかというと、半年前に重度の感染性心内膜炎で命がけの手術を受け、再び授けていただいた大切な命を守るために休職させていただき、療養に努めているからです。
この病気になるまでは仕事が中心。
特にコロナの前は毎週、新幹線や飛行機に乗っての出張で、スケジュールに追われていっぱいいっぱいでした。
もちろん、そんな機会をいただいていることがとても嬉しく、大いにやりがいを感じていました。
その一方で。
「いつも忙しそうだね」
「仕事がんばってるね」
と、言われる度に心がざわざわすることもありました。
そして、この2年ほどは留守を守ってくれていた母は高齢のため物忘れがひどくなり、お願いできなくなった家事も増え、わたしにとってはしんどい状況になっていました。
とにかく、やることいっぱいで忙しすぎて。
目の前のタスクをひたすらこなすことで精一杯でした。
忙しい。
そんな状態が家族のため、自分のためには良いことなんだと信じていた。しかしそんな忙しい日々の生活が、感染性心内膜炎で死にかけてしまったことで一変してしまいました。
体調がなかなか良くならず、体力も気力もなくなり、全く仕事ができなくなりました。働けなくなったのです。
これまで当たり前にできていたことができなくなったことには大変落ち込みました。
仕事ができなくなったことで、どんどん社会から遠ざかっていく感覚はとても寂しく、辛かったです。
こんな体調でどうやったらこれまでの生活を維持できるんだろう。考える度に未来がこわくなりました。
忙しくないから、こんなふうに考えたってどうにもならないことで悩んだり落ち込んだりしてしまうんだ。
暇は人をダメにするんだ。
何もしていない私はダメな人間なんだ。
そんなことを考えては落ち込みながら、なんとなく毎日を過ごしていると、気がつけば体調は徐々によくなり、できることも増えてきました。
そして、わたしが引き受ける用事も増えてきました。
家事。
買い物。
母や良太の福祉の手続き、病院の送迎、衣服の整理からお出かけの付き添いに。
帰ってきてくれる娘に美味しいご飯をつくることとか、わんこのお世話とか。
衝動的にレモンシロップを作ったり、夜な夜なパンを焼いてみたり。
娘の家を訪ねたり、一緒に買い物したり。
友達と遊んだり、ご飯を食べたり、ドライブしたり。
韓国ドラマにはまりまくったり。
仕事で忙しかった時には想像もできなかったり毎日を過ごしています。
忙しく働いていた時は仕事が最優先。
家の用事や家族のこと、自分のことをちゃんと見れていなかったのでした。
本当はしなくちゃいけないこと、やりたいことに向き合えていなかった。気づいていたけど、見て見ぬふりをしてしまったのでした。
それが病気をして以来、仕事を休んだことで、忙しくない時間がたくさんできた今、不思議なことが起こっています。
忙しくなくなったはずのわたしは今、とても忙しい。
カレンダーをひらけば家族や自分のための予定でびっしりうめられている。
その予定のほとんどは、母や息子がご機嫌になるためにとか、わたし自身が楽しくなるような予定。
例えば、息子の「散髪したい」や母の「病院に行きたい」のリクエストは最優先で「おっけー!」と引き受けられる。
友達から「遊びに行っていい?」と連絡があると「もちろん!いつにする?」って断らない返事ができる。
わたしは今、とても忙しい。
ただ違うのは忙しさの種類です。
「忙しい」の「忙」は、りっしんべんに「亡」という漢字でできています。
りっしんべんは「心」を意味するへんだから、忙しい=心を亡くすという意味。
以前のわたしはきっとこの「忙しい」でした。
心を亡くしていました。
心を亡くしていたから、大事なものを見つけられなかった。
母のこと、息子のことをちゃんと見ていたら・・・
娘のことをちゃんと見ていたら・・・
家のことをちゃんと見ていたら・・・
わたしのことをちゃんと見ていたら・・・
母や娘、息子、そして自分自身を、もっともっと大切にできたのに。そんな思いでちょっと泣きそうになった。
命懸けの大手術をし、体調不良や健康不安でもうあかんすぎて心がポキッと折れる辛い経験をしたけれど、そのおかげで大切なことに気づけました。
忙しくなくなってからの「忙しさ」こそ大事にしなければいけないということを。
これからわたしにできることは何なのか、どんな仕事をしたいのか。わたしに求められることは何なのか。
不安だけでなく、ワクワク楽しい想像が少しずつできるようになってきました。
これからは忙しくなくなってからの忙しさを大事にするというわたしなりの方法で、未来に臆することなく、止まることなく、前に進んでいきたいと思っています。