『FAKE』/森達也監督
(※公開当時の感想を主に書いています。)
鑑賞前
佐村河内氏を撮った「FAKE」。あれは佐村河内氏と奥様の純愛物語なのだと、監督が発言していたWIRED23号に記事が掲載されている。
そうか。たしか騒動真っ只中のときに奥様のお母様までが登場されて「娘は佐村河内に洗脳されている」的な発言があったのをなんとなく覚えている。事実はどうあれ、とにかく、周囲に祝福されての結婚ではなかったのだろう。
あの事件の本質を掴みきれないまますべてが流れていった。掴むほど関心もなかったと思う。佐村河内氏の開いた会見の記者が半笑いになってるのを覚えている。
その後、「影武者」だった新垣氏をバラエティ番組で見かけるようになり、堂々としたものだなと思ったりもした。ますます、よくわからないと思った。FAKEをみたら少なくとも、その一端は見えるのかもしれない。
私にとっては佐村河内氏の聴覚障害者詐称が一番の関心ごとであり問題だった。私の聴力は徐々に落ちていっている。でも別に日常に困ることはない。加齢の範囲と思えばいい。聴覚野にも問題はありそうだが、聴覚野の検査までできる耳鼻科はそうはないのでモヤモヤしたままだが、これまた問題ではない。でも、そういう背景があっての関心である。
「聴覚障害者である作曲家」が世間は好きだったのか、と思う。難聴も程度は様々だと思うのだが、おそらく世間は全く耳の聞こえない状態を想像しての「難聴なのにすごい」っていう受け入れ方だったのかな?と想像している。
花村萬月の「ジャンゴ」という小説がある。その題名のジャンゴとはギタリストのジャンゴ・ラインハルトのことをさす。ジャンゴ・ラインハルトは火事を消し止めたときの火傷が原因で指が使えない。もう二度とギターは弾けないだろうと当時の医者は診断している。
しかしながら、ジャンゴはその後の練習により早弾きの名手と言われるほどに素晴らしいアルバムを何枚も残している。(私もレコード含めCDも何枚か持っているほどにはファンである)
小説ジャンゴはジャンゴと同じようにギタリストが手に障害を負いつつも、ギターを弾きライブをする度に「障害があるのにすごいわ」と言われることへのコンプレックスを抱く青年の物語だ。おれはジャンゴになれない、と絶望してしまう。世間の評価はギタープレイを評価するのではなく、障害があることへの評価になってしまうのだ。
佐村河内氏の騒動のときに頭の片隅にはこの、花村萬月のジャンゴがどこかにあった。
障害を持つ人に対する世間のやさしさは生温かい。過剰なときもある。でも、逆に図々しいと怒り出しもする。基準がよくわからないし、むずかしい。一斉に旗色が変わるのも不思議ではある。不条理とさえ言える。
@cmrr_xxx 死んだり海外で評価されたりしないと脚光を浴びないという不条理に負けない。おはよう
と、私の師である川田十夢が呟いていたがこれと似たような不条理なのだと思う。
そして、WIREDの森達也監督のインタビューを読みながら森達也監督と川田十夢はとても似ているんじゃないか、と思った。
森達也監督の作ってきたものといえば、世間の常識と戦うものばかりだ。
そのスタンスが川田十夢と似ていると思ったのだ。(森達也の著書 『自分の子供が殺されても同じことがいえるのかと叫ぶ人に訊きたい』とか、『人間臨終考』などをさらっとだが読んでみた。DVDではあるがAと311は観ている)
もちろん、題材や手法や分野はまったく違う。だが、常識と戦う姿や、拘束力の強さや主張はあってもそれを我々に押し付けるものではないことを改めて感じているのだ。311の、あの映像に込められたものと川田十夢がWIRED23号に書いたものは繋がるものが私の中にはあった。
鑑賞1回目
やっと森達也監督のFAKEを観た。地元では今日から一週間限定で公開される。
私は途中から、いや、最初からかもしれないが森達也がなにをもってして佐村河内夫妻を撮ろうと思い、何を写したかったのか、そればかりを考えていた。
確かに佐村河内氏は絵になる。終盤のシンセサイザーに向かい作曲してる姿など、映画以外の何物でもない。完成した曲を聴いている奥さんの姿も含めて映画、それも森達也本人がインタビューで答えていたように純愛映画としては完璧かもしれない。
でも、森達也の視線はその先にある。佐村河内氏もその奥さんも透過させて別のものを視ている。撮っている。そんな風に思えた。
その次に思ったのは、そもそもこの問題はなにが原因なのだろう。と、いうこと。
建築デザイナーと図面を書く人は違う人であることも多いし、アパレルのデザイナーで縫製まで全てを1人でこなしている人もそうは居ないだろう。
もっと身近なものに喩えてみると、AR三兄弟が、AR三兄弟と名乗らずに川田十夢とだけ名乗ったらゴーストだと言われてしまうのか?とアホっぽく思えるけどそういう問題なのだろうか。。
長男の次男への当たりがキツくて次男が憤懣やるかたなしとなった時に、メディアにて暴露したという事?天才だっつってるけど、天才だと思ったことはないですね、って?
とにかく、新垣さん側の目的がまったく見えてこないのだ。うっすら思うのはお金なのかなぁ?ということぐらい。18年目にして?謎だらけ。
その謎にプラスしてフジテレビの件りあたりで日本人特有の判官贔屓の感覚が頭を擡げ、佐村河内さん悪くないじゃん!と言いたくなる私の気持ちを押しとどめるのは森達也の佐村河内氏に対する質問や言葉かけであった。
『じゃあ、音楽つくりましょうよ!頭の中にメロディが溢れてる筈でしょう』とか、『誰を愛してるんですか?名前言ってください』とか『僕を信頼してますか?何パーセントくらい?』とか。なに、このロマンティック伝説な質問。なにが何でも純愛映画にするつもりなのだ。
でも、あのラストの『う〜ん』が撮れたとき、森達也は内心ガッツポーズだったのではないだろうか。
質問をする森達也に同調して結論を出そうとする自分を何度も押しとどめさせられた。あの声に流されていいのか?と。
おそらく、その構造がネットで見かけた『中途半端でなにを言いたいのかわからない』という感想に繋がるのかもしれない。だって単純なカタルシスが得られないのだもの、森達也のドキュメンタリー。
『ドキュメンタリーが描くのは異物(キャメラ)が介入することによって変質したメタ状況なのだ。目指せということではない。必然的にそうなる。作り手が問われるべきは、その事実に対して、どれだけ自覚的になり、主体的に仕掛けられるかだろう』 その著書『ドキュメンタリーは嘘をつく』の一節。
森達也に自覚的に自主的に仕掛けられっぱなしなのである。すでに術中に落ちているのである。
それでも、だからこそ、そのうえで。
佐村河内家の猫であるとかベランダからの風景と会話とか、佐村河内夫妻の寄り添う姿とか美しいものがたくさんあった。
夫妻が寄り添う姿として今日の日本において理想的であると思うし普遍的な愛の形でもある。先にも書いたようにこのFAKEは純愛映画なのだ。
でもそれに負けないくらい新垣氏のサイン会に並んでツーショットを撮る森達也はキラキラしていたのではなかろうか。
鑑賞2回目
FAKEふたたび。
二回目のFAKEを観たばかりだ。
正直に言うならこの前書いた感想は単なる感想であるのに、私は自分から逃げていたという実感がある。
書く気力がなかったといのが正解だが、とにかく自分の感覚に嘘をついた。
おかげで気持ちが悪い。
こんなことで運命が変わるのは耐えられないので、FAKEをもう一度みて、もう一度、1ミリも嘘のない感想を書こうと思ったのだ。
そもそも佐村河内さんの騒動を知った時、文春において隻腕の少女バイオリニストの話が全面に出ていたのを覚えておられるだろうか。
あの告発は彼女に対する佐村河内氏の問題行動に対しての告発も兼ねていた。いつの間にやら新垣氏のゴーストライター問題、聴覚障害詐称問題になっていったけれど。
まだ少女である隻腕のバイオリニストに対する佐村河内氏の恫喝も神山氏・新垣側のでっち上げだったのだろうか。
その真偽はわからない。FAKEの中で佐村河内氏は全てでっち上げであるというニュアンスを取っておられたのだが。
隻腕のバイオリニスト少女。
現代のベートベン。
ゴーストライターを務めた作曲家。
ものすごく、魅力的な3人じゃないか。この3人を文春でライターである神山氏は取り上げ、その後はあの会見に続いていったのだ。
流れとしてはバイオリン少女の親御さんから新垣氏が相談を受け、その後神山氏へと話が及び告発記事、そして会見という流れだった。(神山氏はその少女の本を書いている)
しかし新垣氏も神山氏も森達也監督の取材を拒否しているので真相は闇の中だ。
前提として私は佐村河内氏が難聴であるのに疑いは一切持ってない。FAKEを見てそれは確信に変わった。あの聴力検査の結果はそれを証明してもいる。発話の状態もごく自然に難聴の人のそれと思った。
作曲家としての才能も、あの外国人記者に作曲している証拠を見せろ、と言われた時にも『メロディは頭の中にある!!』と言い切ったらいいのに、佐村河内さん!と思ったくらいだ。『天才だから、譜面にする必要がないんだよ!』と言ってやれと。
誰にも佐村河内氏の障害の感覚など理解し得ないのだから。森達也監督も同じようなことを言っておられたが誰かの障害の感覚を誰が感じ取れるのか?あるいは音楽の才能を誰が測れるというのか?
音楽における譜面を書き理解するという行為の重要性はわかるが、それは音楽というものに対するバイアスにすぎないのではないか?
そんな風に思いもした。
FAKEのラストに近い場面で佐村河内氏がシンセサイザーに向かった時、音楽理論を学び現代音楽を牽引してきたような人は佐村河内氏の音楽は退屈で嫌いだろうと思ったからだ。
いつだって大衆性を芸術は嫌ってきたではないか。その大衆性を味方につけたのが難聴のシアトリカルでフォトジェニックな男だったということなのか。
ただ、それとはやっぱり別枠の疑問としてそもそもの原因というか騒動のスターターとなった隻腕の少女バイオリニストの事が気になってしまう。
映画の画面には一切映らない、そして映らなくてよかったと思える少女の存在だ。ある意味騒動から早いうちに切り離されてよかったと思う。
だから私のこの感覚は問題の真偽を知りたい、というのとも違うのだと思う。ただ、因果が知りたい。正負でも正誤でもない。因果だ。佐村河内夫妻の姿が美しければ美しいほどそれは強くなる。あの夫婦の姿に嘘は感じなかったから。
それに隻腕のバイオリニストの問題も佐村河内氏の言うようにでっち上げであるなら、神山・新垣側を生理的な嫌悪を持って見るしかない。
逆にこの問題が事実だとしたら、たとえば双方に齟齬が発生して拗れたのだとしても佐村河内氏に問題をどう思うのか。バイオリニストを目指す、ひとりの少女の運命をどう変化させてしまったのか自覚はあるのか。
この部分の沈黙は解決したことだと理解すべきなのか。それともアンタッチャブルになってしまっているのか。
この少女に私が拘るのはそれこそ、この映画が乱反射し自分の問題として帰着してしまった証だということは理解している。初回この部分を無視したがゆえに私は自分の感覚に嘘をついてしまった。
私の血縁者に隻腕の少女がいた。この件の少女とは異なり後天的な事故により片手を失うのだが特殊な事故であったのでデータベースに残っているなら検索をかければ出てくるような不運により、十代半ばにして利き腕を失った。
手術により患部を切断しなければ全身に危険が及ぶとなったとき、私は偶然にも彼女の切断前の最後の手を治療中に目撃することになる。
彼女は私に『手、どうなってた?』と静かに尋ねた。私はまだ6歳だったが色々、本当に色々考えて答えられなかった。
手術後、彼女は淡々と自分の生活を取り戻していく。ずいぶん心のやわらかいところを犠牲にしたと思うがそれでも彼女はそれを成し遂げた。
学校に復帰すると彼女を表彰したいという話題が出たらしい。彼女は固辞した。片手だから偉いのか。彼女はそう言った。
このFAKEを自身に帰着したものとして語るなら、ここから私は抜け出る事ができない。
耳が聴こえない人の作曲だから素晴らしいのか。隻腕の少女バイオリニストだから人は注目したのか。誰が義手をステージ上で嵌めさせることを演出として少女に要求したのか。そもそも、それが本当のことなのか。
佐村河内氏は自ら進んで現代のベートベンという冠を自分の頭に載せたのか。それはペラペラの銀紙でできた冠ではなかったのか。ペラペラの銀紙で誰が冠を作ったのか。
森達也監督が騒動自体に興味をそんなに持ってないのはなんとなくわかる。新垣氏には興味がないともインタヴューでおっしゃっていた。
フォトジェニックな男とその妻の純愛を描くことで、一切の思考を放棄して一方向の矢印に身を投じる我々の思考に一石を投じたいのだろうということも。
因果を作り上げるのが映画監督だ。
私の中の因果をひとつ、かれは掘り当てた。だから、私は逃れられないでいる。
猫はかわいい。豆乳の場面で笑う気は全く起きなかった。夫婦の姿は美しい。
これがFAKE二回目の私の感想の全てである。
※2021年4月7日追記。ジャーナリストの神山氏がなぜ取材をうけなかったのかについて町山智浩氏が2016年のたまむすびのなかで語っている記事を読みました。それによると佐村河内氏側が少女側に対して責任を負わず謝罪もないため取材を受けてないという内容でした。いよいよ謎は解決されてない気がする。
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