普通という名の幻影を追いかける人を追いかける、影を慕いて
これは…自分の子供の頃を思い出さないわけにはいかなくなってしまった。感想文なのかもうわけがわからないレベルだけれども川田十夢少年の血の努力により思い出した、冷や汗をかきながら過ごした子供時代のこと交えてどこか世の中をアイスクリームのように舐めてる部分ごと書いてゆく。
とはいえ、読みながら絶望した。自分にである。これは川田十夢という宿命と運命を背負ったひとりの異能の少年が"普通"というなによりのしあわせを求めて誰も悲しませないように努力し続けた話の過程であるはずなのだ。
それなのに。
私と来たら、"川田十夢、メダルかじり虫の蛮行が余程響いてるらしい…"といの一番に思ってしまったのだ。ここ数回の更新もラジオでも話に一滴はメダルかじり虫(某市長のことだ)のことを忍ばせずにおれないようだ。(特に忍ばせてもいないが)
確かにスイカを食すときであっても躊躇するレベルのかぶりつき方。そのせいであのメダルかじり虫の歪んだ相貌を記憶から消したくても消せないでいる。餓鬼って実在してたの?と思うレベルで理性を消して人前であんなに無心に人の努力の果てに手にした持ち物にかぶりつけるものか。と怖く思ってしまうレベルだった。ディティールが鮮明なのである。
前回の更新では幼年期の川田が他の子と様子が違うことから病院に連れて行かれ、自閉症であると医師に診断され普通の小学校には入学できないと断言されてしまうことが語られていた。
その経験から自身のことをアピールしなければならないことを悟り、その後のスパルタ式のスイミングスクールに通うことなるところまでが心象風景と共に語られていた。その彩りの豊かなこと。記憶が鮮明なのだ。そしてやはりディティールが詳細なのだ。
そして今回スイミングスクールでの地獄の特訓が克明に書かれており、その記憶の事実確認のために実妹に連絡したところ記憶の鮮明さに驚かれ、むしろ恒久的異常性の再確認となった、と書いていた。
つらい。
記憶の鮮明さ。それはつまり備わっているセンサーの性能がちょっと他の子供たちとは違うということになる。良くも悪くも物事を忘れることがない。たとえば自閉症スペクトラム症の子供に感覚過敏の状態になる子が多いのは触覚や味覚や聴覚、視覚のセンサーが人より精度のよい高性能のセンサーが働いて洋服のチクチクを、音の大きさを、苦味を、光の眩しさを感じ取ってしまうからに他ならない。
あらゆるものが過度に迫ってくる世界。そしてそれは記憶も同じなのだ。過度に鮮明な高性能のセンサーで焼きついたものは頭から離れない。しかし、それは自分の中で起きていることだから他人に伝えることが難しい。
私は子供の頃に記憶が鮮明すぎて担任の教師を絶句させたことがあった。担任教師の服装を詳細に覚えているので奇異に思われたのだ。金髪でサングラスしているような変わった先生で大変おしゃれだったのでその服装を四月から夏休みに入るまでの期間、はっきりと覚えていたのだ。それを披露したときの先生の表情ときたら。
それ以降学校では記憶の詳細を語らないようにした。だが、子供の頃に起きたことは大抵のことは覚えている。思い出が色褪せる?そんな経験はほとんどない。
だからといって川田十夢の身に起きていたことと重ねるつもりはない。重ねられないのだ。共感することはあっても。
絶望ポイント、二つ目。その共感ポイントがビート板齧るのよくわかる。ということだろうか。こんな川田十夢少年の血の滲むような努力を"普通の小学校へ通う"という求めを、しかも、殆どがお母さんと妹のための努力に涙を流さなければならないところを"わかる、ビート板齧りたいよなぁ"とか"爪立てたいもんなぁあれ"とかビート板を損傷する方に意識がいってしまうのだ。
私はスイミングスクールに通った経験はないし、ろくすっぽ泳げない。父はダイバーの仕事をしていたというのに。海を相手に仕事をしていた父により海の怖さと川の怖さ、台風の怖さ、とにかく水にまつわる怖さを叩き込まれたせいで水が怖かったのだ。
海水浴に行くのも父の知る穴場で整備された海水浴場とは全く違うウツボみたいな色のゴツゴツした岩だらけのガチの海であったためウツボ色の岩と波音が怖くて二度と行くことをしなくなってしまった。
ただ、小学校のプールでこんなに楽な場所があるのか!と思った。波に押し戻されない。しょっぱくない。生臭くない。ウツボ岩がない。それにビート板という楽に泳げる代物がある。そしてビート板、齧りたい。爪で毟りたい。(時代が時代なもんで密度の高い発泡スチロールみたいのだった。)握りしめるふりをしてめちゃくちゃ爪をたてていた。記録は残せなかったが爪痕は残したのだ。
あたくしの十夢ちゃん!と言わんばかりに毎日のようにブログ(のほうが本体でnoteはあくまでも映画感想置場だった)を更新するくせに共感ポイントがここ。人格破綻してるんじゃないかと思いますなぁ。そういえばテクノコントの舞台二日目の昼の部、Wi-Fiの接続がうまく行かず失意のどん底でアフタートークに挑む川田十夢の顔をみて私だけが笑い声を上げたことを思い出す。
だって顔にARで浮かび上がっていたのである意気消沈とかの文字が。さすがミスターARだなと思ってしまった。前田隆弘さんが「あんなにしょぼくれて」と言うくらいショックを受けているだろう十夢ちゃんに私は笑い声を漏らしてしまったのだ。非人間である。でも、同情されたとしても事態は変わらない。失敗を笑い飛ばすくらいのほうがいいかな。という判断もあった、かならずリカバーする人に対しては特に。
話を元に戻す。普通という幻影を私も追ったことがあると思う。学校では気の休まることはなかった。いつもどうやってもはみ出てしまうのだ。他の子と違う反応しかできない。暗黙のルールがわからない。勉強は天才川田十夢とは違っておそらくは限局性学習障害があり算数が壊滅的に理解できなかったのでどんなに他で100点取っても中くらいかそれ以下。掛け算の九九と分数を理解できるようになっただけで御の字だと思っている。
でもだからわかる。川田十夢の『普通という名の幻影を追いかける』を読みながら私は努力しなかったなと。それを痛切に感じているのだ。雑な時代に生まれたゆえに入学は普通に出来たとしても。(入学前の知能検査ですでに一悶着あったが)
その後、3歳から6歳の間の川田十夢が考え続けたことを延々と試行錯誤すりゃまだ日の目を見ることはあったかもしれない。でも、努力という努力をせず良くも悪くも流れに乗るだけで私は老婆になってしまったと心から悲しくなった。いまだに幻影から逃れられないでいるということか。
あれ、まてよ。本当に唯一だけど努力したことがあるぞ。川田十夢だ。川田十夢の話していることを理解するために算数ドリルと教科書を買って小学校五年生の算数を勉強したじゃないか。川田十夢にしてみれば知ったこっちゃないにしろ、川田十夢ゆえに苦手をひとつ克服しようとしたのだった。その後数学IIIまでなんとかたどり着いた。獣から人間に近づくことができた。
人間関係は、まあ壊滅的ちゃ壊滅的かもしれないが大事な人にだけは自分を明け渡すということを覚えた。ほんの一部でいいから、自分を明け渡す。別に自分のプライドなんてたいしたことじゃない。
そう言う意味じゃ影を掌握はできなかったが抱きしめて自分の一部にしたというのはあるかも知れない。だからといって川田十夢の努力と同じような努力をしたとは到底言えない。代わりに影を慕いて生きる術を覚えたのだ、きっと。開き直りっちゃ開き直りかもね。
まあ私に言えることがあるとするなら、
こういうことを言ってる川田十夢って人の言葉を、話を、作品を、見てください、聞いてください読んでください。きっと何かが小さく育っていつか何かがあなたの中に顔を覗かせますから。
特にこちら宗教ということはありません、私はとある大学の社会人向け集中講座で川田十夢の教え子になっただけですから安心してください。