東京ビエンナーレ・芸術と技術の間のユーモアの美しさ
東京ビエンナーレ、見にゆきたいという気持ちのままコロナ禍でワクチン接種もままならない基礎疾患持ちは指を咥えているしかない。
とは言え、こんな風に漏れ伝わるように記事が読めることはありがたいことなのだ。
私とAR三兄弟の出会いは約10年前に遡る。厳密に言えばAR三兄弟長男の川田十夢のツイートに、140文字に満たないそれに撃ち抜かれたのがきっかけだ。衝撃だった。140文字が140文字でない奥行きと余韻がそこにあったから。
そこから10年以上かけて川田十夢と言う人の思想というか哲学というか美学というか、ユーモアと隣り合う作品の美しさに心を絶賛、奪われてきた。東京ビエンナーレに作品を出すことにやっとアートと名乗るのか。と、感慨深い想いを抱くものこのコロナ禍。私が観に行くことは不可能に近い。
しかし実際見ることが出来なくても、川田十夢の『分断してる場合じゃない』という危機感は伝わってくる。きっと芸術と技術、芸術とスポーツだけのことじゃない。何かと何かが閉じて分断している場合じゃないのだ、この傷ついた世の中は。
AR三兄弟の『都市と経験のスケール』は、数えきれない痛みが星屑みたいに降る世界にあって確かな体温がある。喪失を鮮やかに変換し返還し、生を換気し喚起している。
東京という都市の喪失。川田十夢自身の喪失。私たちそれぞれの喪失。心の中の大きな場所を占め胸を上下させ怒りにもほど近い純粋な慟哭を凍りつかせることでバランスを図る日々。
ささやかな楽しみを奪われ、それでももっと辛い人がいると心理的な代償を払い続ける都市、東京。その中にあって具体の伴う祈りのような側面も持つ東京ビエンナーレ。
その東京に現れ、力強くとも柔らかくとも美しくとも蠢くとも取れる生命の輝きを放ちながらテクノロジーをまとい踊る人物たち。
サエポークとサエノーフをあそこに持ってくる胆力にそして意味を想像して心が揺れた。
星屑みたいに降りかかる痛みを想定して蓄積させその痛みを翻させなければこういうことは出来ないだろう。ひとつの道筋を言外に示せないだろう。これほどまでにあからさまに生命を讃美できないだろう。心から美しい、AR三兄弟。
どうですか?私のフィルターにかかればAR三兄弟の技術と芸術の間のユーモアがこんな風に見えてしまうと言う症例なのですけれど。ただ残念なことにAR三兄弟が公開してくれた映像でしか見ることが出来ていないので感想としては不確かなもの。
でも本当にユーモアが美しいと思える。言語を越えて目で見てわからせる実効性はARならではだと思えるしAR一筋AR三兄弟だからこそのありかた。先人をけして蔑ろにしない精神もそれを支えている。
けして何事も他人事でない。そう言う視点の川田十夢が作る世界を今後も堪能したい、フルでその世界にDiveしたい。
そう思いつつレポートを読んだ。ありがたいと思いつつ。
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