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スマートシティについて考えてみた。


昨日から開催されたCEATEC 2021に京セラが参加しておりその一環で我が師匠、川田十夢がモデレーターとなり建築家の豊田啓介さんと京セラの偉い人こと執行役員経営推進本部長、濱野大洋さんとでスマートシティについて面白おかしく語っていた。

勿論、京セラの事業開発内容に触れていく構成だが豊田啓介氏も川田十夢もわりと自由かつ、真摯にスマートシティについて話しており、概念としてのスマートシティですらぼんやりとした私のイメージを変えてくれた。

企業や専門家だけのクローズした中で型にはめて進めてもこれは頓挫するというか住人にとって理解も進まなければ、先行するテクノロジーに嫌悪を抱く可能性を否定できず、企業や自治体が苦手であるオープン化を進めていかないとならない。と、いう主張に納得した。

スマートシティ以前の都市について私の感覚を述べると都市はそこに住まう人を肯定しなければならない。肯定感を与える存在でなければならないと思っている。

都市も人も軽んじてはならない、軽く扱ってはならない。どれだけの経験と記憶が都市に存在しているとのかを思えば。経験と記憶がリアルをつくるのだから。

悲しみも喜びも愉しみも苦しみも星のようにきらめくものがリアルな都市の風景である。それらを抜きにして、無視しては都市は成り立たないのだ、人類の営みがそうであるように。
建築物の機能はそれらを包むものだとそんな風に思っている。

スマートシティであろうと普通のシティであろうと住まうのは人であるからにはそれは営みである。その視点から外れてしまえば何ひとつ立ち行かないことは目に見えている。

スマートシティという言葉が認知されて約10年ほどらしいが近年コロナ禍もあり必要性が高まっているが今だ個別特定分野の開発に着手しているにすぎず、各分野で実証している段階というのは意外でもあったが、逆に言えば可能性のある領域であるのは間違いがない。

専門家以外にはわかりづらい技術の入口をエンタメにするのは必要なことだ。動画の中で我が師川田十夢が川田十夢らしいことを言っているが、たしかにふざけているようで、内容は住人にどう技術を活用できるかということを伝えるためのものだ。

全国津々浦々、自然が豊かな地域であっても連続するスマートシティであることが望まれる。都会であっても村であっても同じことができる、技術を共有できること。そのためには住人の参加が必要不可欠。

自分ごととして理解しなければならないなとスマートシティとはかけ離れた田舎に住まう私は思った。
京セラの取り組み面白かったので、ぜひ。

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