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ボーカルトレーニングの思い出

歌は習うものではない。という主義です。
とは言うものの、過去に歌を習っていたこともありました。そこで学んだこともあります。少しばかり、それを振り返ってみようと思います。

その頃の私は、半分失業状態でした。心の拠り所を求め、居場所を失った寂しさを埋めたくて、ボーカルトレーニングに通い始めました。

プライベートレッスン初回、あえて曲を決めずに先生のところへ行きました。そこで、自分の課題と悩みを先生に相談したのだと思います。先生に、手嶌葵さんの「テルーの唄」を勧めていただきました。

発声練習もそこそこに、歌に突入です。先生の指導は、まず、とにかく全力で感情を込めて歌いなさい。まだ足りない、もっと感情を歌に込めなさい、まだまだ足りない、もっともっと、更にもっと!!
先生に煽られて、感情を爆発させる、歌にぶつけては投げ込む。当時は、抱えきれない悔しさ、悲しみ、さらに燃え盛るような怒りがありました。炎のような感情を、渾身の力であの美しい楽曲にのせて歌うと、原曲とは真反対の、おどろおどろしくて、美しさなど微塵もない歌になる。悔し涙を流し、喉を枯らしながら、声を振り絞りつつ歌ったあの日が、今も鮮明に思い浮かびます。

あれから月日が流れて、再びテルーの唄にふれる機会がやってきました。今度は、あるコンサートの観客として。当時、渾身の力を込めて歌いまくっていたのに、今では歌詞もおぼろげとなって忘れかけていました。

やはり美しい曲でした。聴きながら涙があふれていました。でも、同時に、自分が課題曲として歌った当時のことがよみがえって、美しい歌声を聴きながら、どこか複雑な心境になりました。ついつい、曲に、勝手に辛い思い出を紐付けてしまうのです。

それからしばらく経ち、あの頃を思い出して、一人歌ってみました。いろいろな思いが胸の内を交差していきます。
当時の自分と、今の自分に重なる部分、それは、欠けて損ない、埋まることなく、癒すことなく存在している物悲しさでした。

歌の中に感情を込める。すると、その感情が聴き手に伝わり、共感や感動を生む。そんな言葉が、当時のレッスンノートに綴られていました。

一体どうしてこんな目に遭うのか、自問自答しても答えが見つからない日々。
当時の悲しみ、怒り、寂しさ、もうそろそろ、手放したら?手放すタイミングだから、もう一度テルーの唄に出会ったのかしら?なんて、再び勝手に解釈したりして。

悲しみを、いつまでも大切にとっておくよりも、手放して過去の思い出にしたら、きっといい。
「過去の思い出にする」それが、ようやく訪れている今この時、という時間なのかもしれません。無理に感情を引き剥がすことなく、手綱を緩めるように手放す。

未来の、いつかの日に、再びテルーの唄に出会う。その時、あぁ、気づいたらすっかり手放せていた、そう振り返ることができますように。

「テルーの唄」は、小さくても響きある歌声を磨くために、最適の楽曲です。奥行きと深みを含んだ質感を育て、儚くとも逞しい美しさを表現したい方にぴったりです。原曲をしっかりと聴きこんで、再現してみてください。

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