2.『欲望をなくせ』
と、飯島さんからよく言われていた。
自我に欲望や執着ほど、疲れるものはありませんね。と、
飯島さんにいうと、
「そう思えることは幸いだ。
嫌にならないと卒業できない。」と言っていました。
飯島さんは人間的にあったかい人でした。
大きな全我の欲望をもっていて、根底には愛があった。
だからこそ、厳しくもあったが、それは愛の心に基づくものだった。
しかし、何かおかしなことがあって私が腹を立てている時などは、
「慈悲の心を持て」と、一元の愛の世界に戻そうとしてくれた。
昨日に引き続き、あるヨギの自叙伝から抜粋しましたが、飯島さんは、いつもここに書いてあるような話をしてくれていました。
そして、「先に行って待ってるから。ちゃんとついて来いよ」と言ってくれました。
卵の中の雛が、卵の殻をつついて出て行くように、自分の殻は自分にしか壊すことができない。
一人になってしまった今、現世的なことをちゃんとやっていくのも大事ですが、それ以上に大事なことはこれだと思う。
流されないために、Noteをはじめました。
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パラマハンサ・ヨガナンダ著
あるヨギの自叙伝より
肉体は、想像主の夢が固定化され、客観化されて出来たものだ。
地上の現象はすべて、病気と健康、苦痛と快楽、損と得、という
ように二元性を現している。
この三次元空間の世界では、何をやってもすぐに限界と抵抗に突き当たる。もっと生き続けたいと思っても、病気その他の致命的な原因が生ずる
と死ななければならない。そして重苦しい肉の衣をしばらくの間脱がされ
る。だが肉体は脱いでも、魂は依然として幽体と観念体には包まれている。
人間の三つのからだを結びつけている力は、欲望だ。満たされぬ欲望こそ、自分自身を拘束する元凶なのだ。
物質的あるいは肉体的欲望は、利己心と感覚的快楽に根ざしている。感覚的経験がもたらす誘惑や強制は、幽界における楽しみや、観念界における知覚的欲望よりもはるかに強力なものだ。
幽界人の欲望は、物事を波動として楽しものとするものだ。彼らは天界の霊妙な音楽を楽しみ、万物を、たえず変化して尽きることのない光の表現として眺め楽しんでいる。彼らはまた、光を嗅いだり、味わったり、さわったりもする。彼らはあらゆる事物や経験を、光で描き出したり、あるいは想念を凝縮した夢にしたりして楽しむ能力をもっている。彼らの欲望は、こうした能力に関連するものだ。
観念界における欲望は、知覚作用のみによって満たされる。観念体だけを身につけている魂は、いっさいの執着や束縛からほとんど解放されている。彼らは全宇宙を、神が夢みられた観念の具象化したものであると観ており、どんな物でも、また、どんな事でも、想念の中で実現させ、客観的に知覚することができる。彼らの繊細な感受性は、もはや肉体の感覚的喜びや、幽界人の楽しみを、粗野で息苦しいものとしか感じない。彼らはどんな欲望も、即座に実現して果たしてしまう。観念体という霊妙なヴェールだけで身を包んでいる彼らは、想像主と同じように、いろいろな宇宙をつくり出すこともできる。宇宙の万物は、いわば巨大な夢の織布でつくられているので、この薄衣をまとった魂は、広大な実現力を身につけているのだ。
魂は本来、姿や形をもたないものであって、身にまとう衣すなわちからだをもつことによってのみ識別される。しかし、一つでもからだをもっているということは、また、満たされぬ欲望があることを意味している。
人間の魂は、一つか、二つか、あるいは三つの、からだという容器に入れられて、無知と欲望の栓で密封されているかぎり、宇宙霊の大海の中に溶け込むことはできない。肉体といういちばん外側の鈍重な容器が、死というハンマーによって破壊されても、幽体と観念体の二つの容器はまだ依然として残っていて、魂と、偏在の生命の海との間を隔てている。しかし、叡智によって完全な無欲の境地に達すると、これら二つの容器をも打ち砕くことができるようになる。
こうして、個々の小さな人間の魂は、ついに束縛の殻から抜け出して無限なるものと一つになり、完全な自由(解脱)を達成するのだ。
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