当たり前はそもそも存在しない
「当たり前だ」と言われていることの中に「不思議」を感じるのは、捻くれているからではない。素直だからだ。
素直に見たまま感じたままを「どうしてこうなるのだろう、なぜそう考えるのだろう」と自分の思いと照らし合わせて、その感じたことを言葉にしているだけなのだ。
わたしも常々思うんです(久能整くん風に)。。。。。。
なぜ、ランチのメニューを決める時、誰かが「Aランチにするわ!」というと、メニューも見ずに「わたしも同じもので」「わたしも!」「わたしも!」と言うのだろうって。
だって、食べたいもは違うだろうし、わたしはBランチが食べたかったら、みんながAランチを頼んでも、「わたしはBで!」と素直に伝える。
ところが、ひとりだけBランチを頼むと、不穏な空気が漂う。選んだランチが違うだけで、その場の仲間意識から外されてしまうのだ。さらに同じタイミングで出てこないと、仲間外れ感が半端ない。
ひとりだけ先に出てくれば、そこまで気にならないけど、みんなが半分くらいまで食べてしまうと、ひとり待ち続けるのもバツが悪い。
だから皆同じものにするのだろうか。なんとも合理的。自分の意志より、周りの意志。迷惑をかけないように気を使う日本人的思いやり。
四六時中一緒に居るならなおさら、食べ物くらい個性があってもいいじゃないかと思ってしまうのは、わたしが捻くれ者だから?(いやいや、素直だからでしょ)
結束力とか協調性といえば聞こえはいいが、なんてことない、裏切り者を出さないために、お互いを監視し、常識というルールを設け縛りあい、身動きが取れない状態にしているだけだから。
その「結束力」がプラスに使われた「土の時代」はもうとっくに過ぎ去っている。今は「風の時代」。軽やかに自由に、何事にも縛られず個性を発揮する時代。
けれど、危険が迫りパニック状態の心境になると「みんなで力を合わせて支え合って、助け合って乗り越えよう」のベクトルが、なぜか「全員右へならえ、つべこべ言わずに言われた通りにやれ」になる。
それを当たり前だと受け取りながら、同調圧力だと文句を言いながらも、結局従わざるを得ない人。
自分の意思で選択できるにも関わらず、みんなから外れるのが怖いから「同じくわたしも!」とと言って、無意味な協調性を発揮する。
素直になるって、そんなに怖いことなのだろうか。
素直になるって、そんなにいけないことなのだろうか。
素直になるって、そんなに不調和なのだろうか。
「当たり前」という言葉巧みな洗脳に、もう気づいてもいい頃じゃないかと、素直なわたしはつい余計なことを言ってしまう。
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