ゴースト・リンク④

○ 第四章  堕ちた霊能者

 ハチローがどういう経緯でやって来たのか、本当のところはよく知りませんでした。
 パパが亡くなって一年が過ぎた、ある日曜の朝のことです。玄関から誰かの気配が届いていました。ドアを開けると、庭先でママがビーグルの仔犬を抱いて立っていたんです。
「どうしたの?」
 って私が聞いたら、
「いいじゃない、飼ってあげようよ」
 と、久しぶりに見る笑顔でママは言いました。新しく家族に迎えた仔犬が、彼女を癒してくれていたことは間違いありません。だからママが、“ハチロー”なんて古めかしい名前をつけても反対しませんでしたし、どうして“ハチロー”なのか、尋ねたこともありませんでした。



 良介は私の家への最短ルートを選択しているように思えた。新幹線の高架をくぐり、東武野田線を跨いだあたりから期待は高まり、氷川参道の欅並木の下を走りだした時にはもう、すっかり悦に入っていた。良介にルートを指示しているのは、彼の胸に息づくパパなのではないのか──そんな突拍子もない仮説を立てた自分自身に対して。
 フロントガラスに雨粒が当たる。良介はワイパーを動かすことなく、窓から首を突き出し、参道を覆う欅並木に目を細めた。
「懐かしいな、この道。雨が降り出しても、並木の下なら傘なしで歩けるんだ」
 懐かしい──その言葉に私は色めき立った。
「もしかして、大宮に住んでいたことがあるとか?」
「ああ、通学路だったんだ。すぐそこの高校に通っていたから」
 良介が指さす方角には、県内で一、二を争う進学校が存在する。なんのことはない、彼はパパの魂に導かれたのではなく、単に土地勘があっただけのこと。
「で、東子の家には、どう行けばいいんだい?」
 わたしの期待は、ため息となって吐き出された。しょげかえった口調で、たった一回、左折するだけの順路を指示し、庚申塚のバス停を目印に停まってもらう。
 車を降りるなり、良介は家を指さして言った。
「東子の家って、ここ?」
「そうだけど……なにか変?」
 良介は門の内側をうかがうものの、それ以上は足を踏み入れようとはしない。
「きみん家、犬なんか飼ってやしないよね」
「飼っているよ。スヌーピーのモデルにもなったビーグル犬。ハチローっていうの」
「ビーグル……」良介は、ようやくわたしに振り向いた。「お茶をご馳走になるの、やめとこうかな。犬、苦手だし」
「大丈夫よ。ハチローは人懐こいから」
 わずかな沈黙をはさみ、
「やっぱ、やめとくよ。東子のお母さんでもいたら、人見知りしちまいそうで」
 良介は運転席に乗り込んでしまった。
 私は大急ぎで運転席側へと回り込み、開け放った窓に取りついた。
「ママはまだ帰ってない。気兼ねすることもないわ」
 嘘だった。ママの軽自動車は玄関先に短い鼻っ面を突っ込んでいる。
「やっぱりまたの機会にしとくよ」出任せを見透かしてか、良介は玄関をふさぐ車に一瞥くれると、エンジンキーをひねった。「市民レガッタに東子と混合ダブルスカルでエントリーするって話だけど、この件については保留だ。東子を面倒なことに巻き込みたくないから。じゃあ、また」
「あ、ちょっと……」
 呼び止める声が、エンジン音にかき消される。排気ガスの刺激に瞬きするうち、良介の車は私の声が届かぬ距離へと遠ざかっていった。
 一気につまらなくなった。両手をうしろ手に組み、唇を突き出す。爪先を投げ出すようにして玄関に向かう。ドアノブをつかもうとした瞬間、玄関ドアはわたしの意思とは無関係に内側から開いてしまった。
「今までどこをほっつき歩いていたのよ!」カチカチの表情でママが飛び出してきた。
「いきなり怒鳴らなくてもいいじゃない」わざとらしく両耳を手のひらでふさいでみせる。
「約束破っといて、その言いぐさはなによ。会わせたい人がいるから、早く帰って来てって言ったわよね」
 言われてみれば、そんな気もする。
「一時間くらい前に、麻里絵ちゃんが電話をくれたの。あなた、ずいぶん前にボーイフレンドといっしょに帰ったそうじゃない。ケータイに電話しても、電源が切れてるって言ってたわよ、ベソをかきながら」
 怪我の功名。良介が、お茶を遠慮してくれてよかった。
「ボーイフレンド……言い方が古い」
「じゃあ彼氏?」
 グランメと同じことを言うと思った。けれど口には出さない。『パッシオーネ』に行ったことが知れたらママの気分がへし折れかねない。それほど、ママとグランメのあいだにできた溝は深い。
「あの人は彼氏なんかじゃない。なんとも思ってないから……そんなことより誰なのよ、会わせたい人って」
「それはまず、その汚いユニフォームを着替えてから」
 カチンと来たけれど、わたしが身につけているものは本当に汚かった。
 ママの背に従って家に入る。自分の部屋へと駆け上がり、床に脱ぎ捨てたユニフォームを蹴飛ばし、代わりにブラウスを拾い上げる。あとはレギンスの上にスカートをはけば、どこにでもいる女の子の完成──にはほど遠かった。ボサボサの髪にブラシを通しながら、手鏡の中の自分に言い聞かせる。
 わたしは物おじしない性格。相手がストーカーだろうが、理屈っぽいオヤジだろうが、どんと来いだ。
 足を忍ばせてリビングに向かう。ソファの人影が目に入った。
 歳の頃はアラ還。光沢のあるグレーの生地にピンストライプが入ったスーツ、臙脂のシャツに濃茶のネクタイ、そしてゴールドのタイピン、ほどよく日焼けした笑顔、フレームレスの眼鏡、小柄だが、しっかり筋肉がつまった感じの肩、髪形こそきれいに七三分けになっているが、ひと目で、まともではない世界の住人だとわかる。
 男の傍らに端座するママと目が合った。
「東子、ご挨拶なさい」
 進み出て、こんにちは、と上目づかいで言ったつもりだったけど、実際に声が出たかは記憶に残らなかった。
 ソファにいた男が立ち上がる。
「私を知っているかね?」
 顔は知っている。だけど、どうして知っているのかを思い出すには、ママが冷たいお茶を運んでくるまでの時間を要した。
「思い出した……。あなたは有名な霊能者の石、石……」
「石戸善一郎だよ」
 全身銀色スーツの男は立ち上がり、腰を屈めるようにして殺風景な名詞を差し出した。ただ『石戸善一郎』とだけある。それで十分だった。テレビカメラの前で心霊写真を分析し、失踪者の居場所を言い当てる──。死者と対話ができる男、というのが彼のキャッチフレーズだったはず。だけど、テレビの特番に出演していた頃とは、ずいぶん印象が違っていた。
「今日は、山伏みたいな恰好をしてないんですね」
「山伏の恰好とは?」
「首からおっきな数珠を下げて、福助みたいな肩のとんがった着物を着たりとか」
 石戸は、岩が転がるような笑い声を噴き出した。
「あれは、商売用の衣装だよ。それに山伏じゃなくて、僧侶のつもりなのだがね」
 商売用という言葉で思い出した。石戸善一郎なる“売れっ子”霊能者が、テレビ画面から忽然と姿を消した理由──なんの御利益もない仏画を、法外な値段で売りつけたとしてマスコミにキャンペーンを張られ、次いで警察に逮捕された。
「それにしても大きくなったなあ、東子ちゃん」
 耳を疑った。「……わたしのことを知っているんですか?」
「もちろんだとも。あなたがヨチヨチ歩きの頃から知っている。ママやパパとも古くからの馴染みだ」
「本当?」
 振り返ると同時に、ママの首がコクリと前後した。「パパと共同で研究していたのよ」
「って、どんな?」
「体外離脱の医学的検証よ。私の能力は、パパと石戸さんにとって恰好の研究材料だったってわけ。こうして石戸さんに来てもらったのも、東子の身体に目覚めた能力を確かめてもらうためよ」
 何かしら新たな予感がくすぶりはじめた。まだ形になってはいない。だけど、そこにパパが加わることで、石戸善一郎のうさん臭さが薄められたのだけは確かなことだった。今、わたしに微笑みかけている男は、霊感商法で暴利をむさぼった詐欺師ではなく、かつて日本一と讃えられた霊能者。いつのまにかわたしは、石戸と向き合う恰好でソファに座り、膝小僧よりも顔を突き出していた。
「生まれ変わりって、あるんですか?」
「つまり、前世や来世があるかってことかな」石戸の目が不敵に笑った。「わたしには、わからんよ」
「そんな……。石戸さんには、霊が見えるんじゃあないんですか?」にべもない答えに語気が荒くなる。
「見えるさ。正確には、思念が見える」
「シネン?」
「そう、思念。広く一般的に魂と言われているものだな」
「それって、幽霊とは違うんですか?」
「違うね」
 もはや理解できる範囲を超えていた。
「東子ちゃんは、霊魂の存在を信じるかね」
「はい」
「例えば、仮に誰かが亡くなったとしよう。すると、その人の肉体に宿っていた魂が抜け出ていくんだ、と」
「違うんですか?」
「ならば聞くが、世間で霊とか魂といわれるものは、なんで服を着たイメージで語られているんだろうな。服は肉体とは関係のない無生物なんだよ。これをどう説明する?」
 言葉につまる。そんなこと、今まで一度も考えたことがなかった。
「これは仮説なんだが」石戸はハーブティーをすすりながら、わたしの理解度を確かめるように見つめてきた。「思念とは、意識が生み出したエネルギーみたいなものだ。和服が好きだったら思念は和服を着た姿に、若い頃の自分に憧憬があれば若い姿になる。同じ人物の思念であっても、現れ方はさまざまってことだ。ここまでは理解できる?」
 薄くうなずきながらママを見やる。石戸の横で、無表情をうつむかせて座っていた。すべて承知ってことなんだろうか。
 石戸は言った。
「だけど、自分のアイデンティティーとして絶対に変えられないものがある。それは?」
「……顔、ですか」
 石戸の目が細くなった。
「だから、心霊写真に映る霊の姿は、顔だけのものがほとんどなんだな」
 彼が語るものが知識と呼べるかはわからない。ましてや科学でもない。それはコペルニクス以前の地動説みたいに、世間に受け入れられない真理のようにも聞こえる。核心を突いてみたい欲求が、わたしの唇を動かす。
「石戸さんの説明だと、生きている人の思念は生霊で、死んだ人間の思念なら死霊っていうことなんですか?」
「乱暴なくくり方だが、そう思ってもらってもいい」
「じゃあ、死んだ人の霊が特定のものに宿るってことはあるんですか?」
「例えば」
「移植された心臓にとか」
 ママは明らかに動揺していた。膝の上で握られた拳が、血の気を失っている。対照的に石戸は、お経のような響く声でゆるやかにつづける。
「思念が特定の物や土地にこびりつくことはある。これを残留思念という。土地に染みついた思念を地縛霊、器物に留まっているものは物質霊と呼ばれる」
「じゃあ、心臓移植を提供して亡くなった人の思念が、臓器提供を受けた人の身体を借りて何か言ったりすることは?」
「あるかもしれない。時に東子ちゃん」石戸の視線が、リビングの奥へと投げられた。そこにはパパの遺影が微笑みかける祭壇がある。「死者の霊前に果物や酒を備えるのは、どうしてだろうな」
「供養ってことじゃあ……」
「死んだ人間に、口はないんだよ。どうやって味わうんだい?」石戸は、私とママを交互に見据えた。「死者の思念は、生きている者の身体を借りて、飲み食いするんだ。たしか達男君……きみのパパはシャインマスカットが好物だったね」
 ママと同時に相槌を打つ。石戸の回想どおり、パパの祭壇には今日もシャインマスカットが備えられていた。その瑞々しい粒の連なりを見つめて石戸が言った。
「お供え物を下げて、遺族であるきみたちが食べる。『ああ、美味しい』と東子ちゃんが言う。パパの思念も、きみの身体を借りて美味しいと感じ幸福感に浸れる。それと同様に、パパの心臓を移植された患者が、パパの言葉を語ることがあるのかってことだね」
 あまりにも直球ど真ん中で、言葉にならなかった。
「心臓移植を受けた患者が、臓器提供者の記憶を語ることは、海外で数例報告されているよね。遺族の名前を正確に言い当てたり、生前に書き記した遺書のありかを指示したり」
「じゃあ、やっぱりパパは……」
「早合点はいかんよ」石戸はさえぎって言った。「ある医学者は、心臓に残された神経細胞に、臓器提供者の記憶が蓄えられているにすぎないと主張している」
「そんな……」
 マッチ売りの少女が炎のなかに見た刹那の幸福。それが吹き消されたような気分になったわたしは、カーペットにへたり込んでしまった。ママが膝でにじり寄ってくる。
「東子、なにがあったのか、詳しく話してごらん」
「私、パパの心臓を受け取った人を見つけたかもしれないの。彼ね、パパの言葉をしゃべったの。パパの意識は、まだこの世界に留まっているの」
「偶然かもしれない。あなたの願望が思い描いた錯覚かもしれない」
 ママの腕が、わたしの肩に回る。そっと、そして徐々に強く抱きしめられる。
「ううん、違う。あれは絶対にパパよ」
「可哀相な子。疲れているのよ、きっと。ごめんね、わたしが東子や朝日に寂しい思いをさせたから」
「お願い、真剣に聞いて」
 両手でママを突き放す。涙に濡れた顔。後悔。だけど、ここで負けるわけにはいかない。
「だって、パパとおんなじ口調で、わたしを気づかってくれたんだもの。わたしを、可愛い東子って言ってくれたんだもの。可愛いって」涙があふれる。ママに背を向けて立ち上がった。「書斎の机に、鍵かかってないよね」
 返事は返ってこなかった。重苦しい沈黙。
「美由紀さん」
 口を開いたのは石戸だった。涙を手の甲で拭って振り向く。石戸はソファを降り、ママの横に端座していた。
「東子ちゃんの思うがままにさせてあげましょうや。この子は、私らがかつて失った何かを、自分の手でつかみかけているのですよ。美由紀さんなら、わかるでしょう?」
 石戸の言葉に、ママは強くうなずいた。



 パパの書斎は、階段を登り切った正面の六畳間。もっとも、書斎とは名ばかりで、大学の研究室に収納しきれなくなった専門書が雑然と詰め込まれている。それでもパパ宛の手紙を見つけ出すのは、そう難しいことではないと思っていた。
 ドアが開く。埃が舞い、なにかがドサリと音を立てて崩れ落ちた。分厚いカーテンの手前に鎮座するパソコンには、五年前から明かりが灯ることはない。その暗い画面が恨めしくが見下ろす机、それこそが、わたしたちが目指していた場所だった。
 ママは、パパの痕跡が少しでもしみついたものはすべて、鍵のかかる引き出しへとしまい込んだ。その気持ちは痛いほどわかっているつもり。彼女は、初七日の晩を最後に涙を捨てた。わたしや弟を路頭に迷わせないために。
 ママは、キーを引き出しの最下段に差し込んで首をかしげた。
「東子、この引き出し、開けたことある?」
「ないけど……どうかしたの」
「鍵がかかってないのよ」
「かけ忘れただけなんじゃないの? ママ、けっこう抜けているところあるから」
 いつもなら、辛辣な突っ込みには必ず応戦してくるはずのママ。なのに今日は、揶揄に応じることなく額の汗をぬぐった。
「東子、教えてちょうだい。あなたは、パパのなにを探そうとしているの?」
 わたしは、机から抜き取った引き出しの前にしゃがみ込んだ。
「レシピエントからのお礼の手紙」
「そんなもの、どうすんのよ」
「今は言えない」
 にべもなく告げ、作業に没頭する。何十年か分の日記、スケジュール帳、八ミリビデオのテープ、現像されたかどうかもわからないフィルム──それらをかき分けると、大輪のバラが彫り込まれた木箱が現れた。
「ねえ、これってママが彫ったんだよね」
「鎌倉彫ね。結婚前に何個かパパにプレゼントしたのよね」
「何個か?」わたしは、ほぼ空になった引き出しをのぞきこんだ。「他に箱はないよ。これひとつっきり」
 ママは再び首をかしげたけれど、そんなことに頓着している場合ではない。鍵をかけ忘れたこと、鎌倉彫の箱がひとつしか見つからないことをママの記憶違いのせいにして、大輪のバラが彫られた箱に手をかける。
 中身は手紙の束だった。封筒の色はともかく、そこに貼られた切手の額面が古めかしい。宛て名書きに目を走らせる。
『白倉達男さま 鎌倉市金澤二の六 桃野美由紀』
「ちょっ……、それは関係ないでしょ!」ママの旧姓が記された封書は、白い指に奪い取られてしまった。
 読んでみたい気がしたのはたしかだけれど、奪われるままにしておいた。ママだってプライバシーを主張してもいいだろうし、探しているのは両親の思い出なんかじゃあない。暑中見舞い、折々の絵手紙、着任や離任の挨拶、それらを取り除いてしまうと、木箱の底が見えた。
「無いよママ、レシピエントからの手紙って、ここに入っているんじゃなかったっけ」
「そのはずだけど……」ママは大きなため息を吐き出した。「この部屋にあるのだけは間違いないのよね。お礼の手紙は、アジサイの花が彫られた箱に入れたと思うのよ」
「それって、確か?」
「たぶん」
「って……、そんないい加減な」
 苛立ちは、専門書の山をどける力へと転化してやる。詰ってもなんにもならない。そんなエネルギーがあったら、一刻も早くレシピエントからの手紙を見つけるべきだ。ママも、書類の隙間を確かめはじめた。
「うるせえなぁ。なにやってんだよ」
 部屋の入り口にもたれかかるようにして、弟の朝日が眠い目をこすっていた。あくびと同時に寝起きの髪をかき上げる。
「朝日、帰ってたの?」ママが立ち上がる。
「帰ったもなにも、今日は俺、学校に行ってねえし」朝日はぞんざいに答えた。「補習が終わって、今日から完璧な夏休みなの」
「そう……。知らなかったわ」
「ま、いつものことだから、かまわねえけどさ。おふくろは忙しいんだし」
 朝日は、散乱する書類を踏みつけて部屋に入ってくる。床に近い位置から見上げると、バスケ部でセンターポジションを任される長身が、さらにずぬけて見えた。
「ところでさ、俺、朝からメシ食ってねえんだけど」
「今は手が放せないから、ごはんはあとで」弟の不満に背を向けるママ。
「そんな……。何かあんだろ。昨日のあまり物とか、カップ麺とかさ」
「なにもないわ。ご飯を作ってもらいたかったら、あんたも手伝いなさいよ」
「って、なにを?」
 なぜかママは中腰になり、すがめるような眼差しで朝日を見上げた。
「それは……東子に……聞いてちょうだい。ちょっと息が苦しくて……言えないのよ」
 ようやく気づいた。天窓から差し込む外光のなかに、無数の埃が舞っている。ぜん息持ちには過酷な環境だ。ママに駆け寄り、四つんばい──発作のときは横になるより楽なのだそうだ──の肩を抱いてやる。
「大丈夫?」
 ママは答えられない。かわりに、胸ポケットから大型のホイッスルのような容器を取り出し、口にくわえた。ボタンを押し込み、気管支を拡張する霧を吸い込んでから、ようやくわたしの目を見ることができた。
「あとはお願い……。ちょっと休むわ」
 朝日は長身を折り曲げて言った。
「で姉貴、なにを探せばいいんだ?」
「レシピエントからの手紙」
「親父の心臓とか肝臓とかをもらった患者がよこしたやつか」
「そう、アジサイ柄の箱に入っているそうよ」
「そんなもの、捨てちまったな」
「今、なんて言った?」
「聞こえなかったんかよ。捨てたって」
 起き上がろうとするママを目で押しとどめてから、弟の長身に向かって背伸びを加える。
「どうして? あんな大切な手紙を……」
「親父がエエカッコしいだからだよ」
「意味、わかんない」
「じゃあ嘘つきだ」
「なんでよ」
「姉貴だって覚えてんだろ。親父が死ぬ間際にさ、俺たちを呼び寄せて言ったじゃね。おとなになったら帰ってくるって……。あれって嘘なんじゃね? それともゾンビみたいに生き返るってか?」
「それは……」
「俺、ずっと信じてたんだぜ。親父はいつか元気な姿で帰ってくる。同級生に馬鹿にされようが、親父の言葉を信じて頑張ってきた。勉強も部活も。おかげで変なやつ、だとか、宗教かぶれみたいなこと言われてさ、いじめられたりもした。サンタクロースがいるって信じ込まされんのより質(たち)が悪いぜ」
 奥歯に力がこもる。弟の頬に乾いた音が炸裂した。手のひらが痛い。だけど心のほうがずっと痛かった。
「なにすんだよ、いきなり!」
「それはこっちのセリフよ。パパが言葉を残したのは、あんただけなんだよ。本当は、わたしもママも声をかけてほしかった。どれだけ朝日を可愛いと思っていたか……。あの優しさが、あんたにはわかんないの?」
 朝日の視線が泳ぎだす。
「ちっ、そんなに、むきになんなよ。たかが手紙くれえで。心臓や肝臓をもらったやつらだって、本心はどうだかわかんねえよ。誰かが死ななきゃ自分は助からねえ。手紙だって、俺には『死んでくれて、ありがとう』としか読めねえし」
「違う、違う!」激しくかぶりをふった。目尻から熱いものが飛び散る。「手紙は真心で書かれたものよ、そうに決まってる」
 だけど、朝日の口元には薄笑いがこびりついていた。
「どうせ、病院に書かされたんだろ。命が助かりゃ、誰だってそんな気分になるんじゃね? 死刑をのがれるためだったら、極悪人だって涙くらい流すと思うぜ」
 怒りより、悲しみに押しつぶされそうだった。そんな渇ききった感情しか持ち得ない弟を、じっと見つめる。
「あんたって、本当にサイテーね」
 少しは伝わったのだろうか。朝日は声を震わせると、
「もういいだろ? 腹へってイライラしてんだ。これ以上言われたら俺、なにすっかわねんねーよ」わたしを肩で押し退けて、階段を降りていく。
 が、踊り場へ先回りしたママに通せん坊をくらう。
「どこへ行く気?」
「メシ食いに行くんだよ、駅前の吉野屋に」
「ねえ朝日、ひとつだけ本当のことを聞かせて。アジサイ柄の箱の中には、手紙の他になにか入ってなかった?」
「忘れた。そんな箱に入ってたかも覚えてない」
「あんた、嘘言ってないよね」
「信じられねってか? 息子の世話も満足にできねえのに、偉そうな口叩くなっつーの」
 動きを停めたママの口から、ヒュウと苦しい息が漏れる。
 そのすきに、朝日は階段を駆け下り家を飛び出していった。
 入れ違いに、階段の下に石戸が現れる。
 ママは踊り場にしゃがみ込んだまま、力なくこうべを垂れた。
「すみません。みっともないところを……見せて……しまって」
「あ、いや。気にせんでください、いろいろありますわな」石戸が入れ違いに昇ってきて、わたしを見据えた。「東子ちゃんは、ママに聞きたいことがあるんじゃないのかね?」
 わたしは、乾いた喉から舌の付け根を引っ剥がした。
「ママ、アジサイ柄の箱にこだわっているみたいだけど、中身は手紙だけじゃあなかったのよね。他に何が入っていたの?」
「もう……隠しておけないわね」
 ママと石戸は互いに目配せを交わし、うなずきあった。
「……中身は、パパが開発した新薬……『幽霊のクスリ』よ」


 石戸とふたりがかりで、ママをソファに横たえてやるのは骨ではなかった。
 軽かった。
 朝日の馬鹿。なんにも知らない甘ちゃんのくせに──
 静脈が透けて見える指に吸入器を持たせてやると、ママは薄目を開け、紫色の唇で、
「ありがとう。もう平気」
 と言って目元をほころばせてくれた。
 鼻の奥がツンと痛くなった。
 ママが淹れたハーブティーを、空いたグラスに注ぐ。石戸もわたしに倣い、
「私が呼ばれた理由は」ひと口すすってから、おもむろに言った。「東子ちゃん、きみを守るためだよ」
 ずっと湛えていて笑みが消えている。長い話になる予感があった。
「ママが言った『幽霊のクスリ』というのは、パパが開発したバルビツレート系の静脈麻酔薬でね……、そうだな、今からちょうど十年くらい前には、動物実験から実際の患者を使った臨床治験の段階に移っていたそうだ。新薬は、少量で強力な麻酔作用を発現する特徴があったが、やっかいな副作用もあった」
 石戸は、ここからが本論だと言わんばかりに身を乗り出してきた。
「ラピッド・インダクション……。薬学部の学生さんなら知ってるよね」
「急速導入のことですよね。全身麻酔の最初の段階で使われる」
「そう、パパが開発した新薬は、呼吸チューブを入れやすくしたり、手術への不安を取り除いたりするのに使われる静脈麻酔薬だったわけだが、治験に参加した患者のほとんどが、不思議な体験をすることに気づいたのだね」
「もしかして体外離脱」
 石戸の顎が、ゆっくりと上下する。゛
「パパはお医者だったから霊魂だとか魂だとかは信じる気にはれなかったんだろう。しかし、自分で試してみて、本当に体外離脱することがわかり、一時は開発を放棄しようと考えたらしい。だけど薬の魅力は、それをさせなかった」
「じゃあパパは、研究の目的を体外離脱することに変更したんですね?」
「違うよ東子ちゃん。パパは、そんな安易な発想はしない。もっと現実的な、悪く言えば冷めた考えの持ち主だった。きみの弟さんのように」
 うなずかざるをえなかった。ママとわたしが似ているように、朝日とパパにも同じことが言えた。真面目で、努力家で、自力本願。その反面、ストイックで融通がきかない。ささいなことにこだわる。パパのそんなところを、朝日は幼いころから、自分の短所として目の当たりにしてきたんだろうな。
 石戸はつづける。
「パパは、体外離脱の副作用を取り除くことを考えた。しかし、そのためには大量の臨床治験と時間、そしてなにより莫大なカネがかかる。開発を諦めかけたある日、政府の役人がやって来てね、取引を持ちかけたそうだ。あなたの研究は国益に合致する。国が全面的にバックアップするから研究資金は心配しなくていい。ただし、研究成果を口外してはいけないし、むろん学会発表もダメ……。理由は、カネを出しているのが外務省の外局、対外インテリジェンス機関だったからなんだ」
 なんのことやら、さっぱりだった。首を傾げるわたしに、石戸は言葉を加えた。
「CIAやMI6みたいなもんだと思えばいい」
「……よく、わかんないけど、ようするにスパイってことですか?」
「当たらずとも遠からずってところかな」
「そんな物騒な組織が何故……。あ、もしかしかて」
 石戸のしたり顔に向かって、わたしは思わず声を上げていた。
「気がついたかい。日本の周囲には、表向きはニコニコしていながら、腹の底ではなにを考えているかわからない国も多い。そんな信のおけない連中を相手に、安全かつ確実に情報を盗み出すのに、幽霊はもってこいじゃないかね」
 ママに似たようなことを言われた気がする。
「パパは、研究が成就するならばと政府の提案を受け入れたのだが、しだいに後悔するようになっていった。新薬は、いつしか『幽霊のクスリ』と呼ばれるようになってね、わたしも、そのプロジェクトチームの一員として抜擢されたってわけだ」
 話に区切りがついたところで、疑問をぶつけてみる。
「石戸さん、もしかしてお医者なんですか?」
「いやいや、わたしに、そんな肩書はないよ」石戸はひとしきり笑い声をあげた。「さっきも言ったとおり、わたしには思念……わかりやすく“幽霊”としようか。プロジェクトでのわたしの役目は、クスリで体外離脱した幽霊を検証すること。被験者が幽霊化したか、しなかったか。それだけを答える役割を負っていた。それ以上のことは聞かされていない」
「そんなんで、石戸さんは不信感を持たなかったのですか?」
「正直、どうでもよかった。先方が提示した報酬が、べらぼうな金額だったんでね……。だけどきみのパパ、白倉達男という人は違っていた。彼がプロジェクトに参加した真の目的は、幽霊化する副作用をクスリから削り取ること」
「だけど、プロジェクトの方針は違っていた……」
「そのとおり。より速やかに、より長い時間、幽霊化していられることを目指していた。やがてクスリが所定の性能を発揮し始めた頃になって、パパはわたしの事務所を訪ねてきた。完成品のアンプルを、わたしに預かってくれと言うんだな」
「どうして……」
「このままじゃあ、国家権力が国民のプライバシーを出刃亀するのに使われてしまいかねないと言うんだな。そんなこと思いもしなかったよ。彼の正義っていうか男気っていうか、そんなものが眩しく見えてね」
「だから石戸さんは、クスリのアンプルを受け取った」
「断ったよ」
「どうして?」
「パパの背後に、幽霊が浮かんでいるのが見えたからね。輪郭がぼやけた、赤い色の霊だった」
「赤い……」
 ママの目がわたしに釘付けになる。
 石戸は言う。
「幽霊のクスリは肉体から強引に精神を引き剥がす。そこが無理なんだろうな。幽霊化した精神の輪郭はぼやけ、色もなぜか攻撃的な赤に染まっている」
「じゃあ、パパの背後に浮かんでいたのは……」
「クスリで幽霊化した被験者のひとりだろうね」
「それ、誰なのか、石戸さんならわかるんですよね」
「さあな、被験者の素性は、いっさい公開されていない。安全保障にかかわる部署に近い政府の人間であることは確かだろうが」
 そう言うと石戸は急に、漠とした視線を宙に向けた。
「東子ちゃんは『千日廻峰行』ってのをご存じかな?」
「いえ」
「雨の日も風の日も、千日ものあいだ欠かさず比叡の山々を巡る修行のことだよ。その行の満了は『堂入り』といってね、七日七晩、飲まず食わず、不眠不休で護摩を焚きつづけるんだ」
 石戸の意図がわからない。だけど耳を傾けていられたのは、真摯で重苦しい響が声に備わっていたからだ。
「堂入り当初の二、三日はなんてことない。だが四日目以降は意識が朦朧としてきて、やがて身体から死臭が漂いだす。まさに生きたまま死んでいる状態だね。そうなると、護摩を焚く炎の向こうに、見えないものが見えてくるようになる」
「まさか幽霊……」
「だったのかもしれない。悪鬼のようにも菩薩のようにも見えた……。が、いまとなっては、どうでもいいこと。そんな経験がきっかけで、わたしは能力を得たのだよ」
「じゃあ、もしかして石戸さんは、けっこう偉いお坊さん?」
 石戸は悲しげな笑みを左右に振った。
「わたしはかつて、借金の揉め事で人を殺してしまったことがある。出所後、比叡山に入ったのは、法律では償いきれない心のためだ」
 言い終わらぬうちに石戸はソファを降り、カーペットに額をこすりつけた。
「きみたち母子に謝らなければならんのだ。あの時、達男君に警告していれば、あんなことにならずにすんだかもしれない」
「あんなことって……。やっぱり、パパは自殺し……」
 石戸は言下に言った。「殺されたに決まっている。なのに私は、私は……」言葉尻が嗚咽に埋もれた。「赤い色の霊に恫喝されたんだ。『お前の過去を、洗いざらいバラしてやるぞ』ってな。そんなことをされたら、テレビ出演をきっかけにつかんだ地位と名誉がパーになる……。つまらない打算が、わたしから意気地を奪い取ったんだよ」
 石戸が土下座を解くのを待って、わたしは尋ねた。
「パパが研究費を横領したというのも、でっち上げ?」
「あんなもの濡れ衣だ。公権力をもってすれば、無実の者を死刑台にだって送れる」
 微塵の疑いもなく受け入れることができた。
 石戸の懺悔はつづく。
「でもね、私にも天罰が下ったよ。達男君が非業の死をとげてから間もなく、インチキな仏画を売ったかどで逮捕されてしまったさ。言い訳がましいから詳しいことは言わないが、嵌められたんだな。ま、半分は身からでた錆だがね」
 悲しげに笑いながら、石戸はきちんと居住まいを正した。
「ところで東子ちゃん」
「はい?」
「きみの様子から察するに、赤い色の霊に遭遇したのじゃないのかね? 詳しく聞かせてくれないかな」
 いつのまにか、石戸の横にママが正座していた。わたしに顔を近づけ、
「わたしも、聞きたいわ。是非」
 と、吸入器の跡がついた口で寒々しく言った。



 それから数分後、私はママの運転する軽自動車に乗っていた。行き先は、赤い霊と遭遇した現場、麻里絵の家。
「自分の目で、幽霊がうろついていないか確かめたい」
 と主張する石戸にママは、そうするのが当然であるかのように淡々とステアリングを握ったのは怒っていたから。私が麻里絵の家で赤い霊に遭遇したことを言わなかったから。
 助手席に乗り込んだ石戸が口を開く。
「達男君が幽霊のクスリを隠したのは、間違いなく鎌倉彫の箱の中なんですね?」
 ママが、ぜん息発作の余韻の咳をする。
「ええ。主人がアンプルを納めた木箱は三つです。アジサイ柄の箱の他に、ユリとボタンの箱もありました」
「しかし、実際にはなくなっていた。朝日君が捨ててしまったとか」
「それはないと思います。あの子、口ではあんな乱暴なことを言ってましたけど、物を大切に扱う子なんです。私が手作りしたような物は特に。手紙だって、どこかに隠し持っているんだと思います」
「では、箱は何者かが持ち去ったと?」
「わかりません。もしかしたら、主人が隠しなおしたのかもしれません」
「美由紀さんがクスリのアンプルを最後に見たのは?」
「主人が亡くなる前日か前々日くらいだったと思いますけど、それっきりです。アンプルのことなんて、東子に能力が目覚めるまで、すっかり忘れていましたから」
「過去に、泥棒に入られたことは?」
「そう言えば……」ルームミラーの中の目が宙を漂う。「何度か、変なことがありました。ハチローが……ウチの飼い犬なんですけど、やたらと吠えるんです。それも未明から朝方にかけて。だけど部屋が荒らされた形跡はなかったんです。それでも念のため、警察に連絡してみました」
「警察の見解は?」
「賊が侵入した形跡はない、と……。やっぱり、その時に盗まれていたんでしょうか」
「妥当な結論でしょうな。いくらか疑問は残りますが」石戸は腕組みをしたままうなずくと、太い首をわたしに回した。「東子ちゃんが遭遇した赤い幽霊は、パパが隠し持っていたクスリで幽霊化したものだと考えられる。ところで、きみのお友達は、べっぴんさんなのかい?」
「ええ、とても」
「やはりなあ」石戸は感慨深げに呟いた。「それで、彼女に実害はあったのかね」
 本当のところはよくわからない。あのとき遭遇した赤い幽霊、イコール、ネットで麻里絵の身体的特徴を公開し、裸身の映像を送るよう要求をしている卑劣漢──そう考えたら筋が通る。だけど、
「のぞき……です」としか言えない。
「むしろ、それくらいで済んで良かった」
「どういう意味です?」
「ま、それは、いずれ話すとしてだ」石戸の指が、まっすぐ前を指し示した。すでに車は欅並木の下に停まっている。「あの立派な家が、お友達の家かね」
「そうですけど」
 石戸はゆっくりとうなずいた。
「まずは、きみのお友達が無事か、確かめてきてくれないかな。できるだけ“なにげ”を装ってね」
 命じられるままに車を降りる。運転席にいるママと、ガラス越しに目があった。なにかを承知している目だった。安否を確かめるだけなら、麻里絵の家に車を乗り付ければいい。なのにママはエンジン音が届かない距離に停車させたのだから。
 昨日と同じように、呼び鈴を押す。
 待つこと数分、ようやく応対に出た麻里絵のママは、
「ごめんね。麻里絵、誰にも会いたくないって、部屋に閉じこもっているのよ」
 眉根にしわを寄せて言った。
「そうですか……。でも、元気なんですよね」
「ええ、まあ。お昼ごはんは、ちゃんと食べたし」麻里絵ママの顔に翳りが走る。「ねえ東子ちゃん、なにがあったか知らない?」
 真実を告げられたら、どんなに気が楽だろう。だけど絶対に信じてもらえない。しかたなく、
「さあ、思い当たりませんけど」
 と告げるが、麻里絵ママは諦めない。
「東子ちゃんが来たって言えば、部屋から出てくるかも。ダメ元で、誘ってみようか?」
 一瞬、迷った。自室に引きこもった麻里絵が、ひとりむせび泣いているのなら心配ない。もしかしたら、卑劣漢の要求に応じて、自分の裸を写メに収めようとしているのかもしれない。だけど──
「やめときます。麻里絵には麻里絵の事情があると思いますから」
 そう言って辞去する。
 つるバラがからまる門扉を閉めたとき、わたしはどす黒い予感に苛まれはじめた。
 もしかしてわたしは、門前払いを食らったのだろうか。麻里絵が閉じこもっているのは、わたしに会いたくないってことだろうか。それはオリンピックコースに置き去りにした腹いせか──
 わたしは、ママと石戸が待つ軽自動車へと戻りながら、ひとりかぶりを振った。
 麻里絵にかぎって、そんなことはありえない。たとえ騙されることはあっても、他人を疑うようなことはない、絶対に。だからこそ、卑劣漢の言いなりになりかけたんだもの。
 軽自動車の後部座席に乗り込むやいなや、
 ママが、
「麻里絵ちゃんの様子は?」
「なにか変わったことは」
 と石戸が、ほぼ同時にあびせた質問を黙殺してケータイを開く。
 麻里絵のナンバーを呼び出し発信。
 電源断、電波断を告げるステロタイプなメッセージが流れる、と思いきや、なんと正常に呼び出しはじめた。コール音を数える。十回、二十回──なのに麻里絵はでない。
「なにかあったのかしら」
 わたしの呟きを耳にした石戸が、ママに告げた。
「もっと近づいてください」
 やがて、つるバラがからまる門扉が間近に迫ったところで、ママはエンジンを切った。
「お友達の部屋は?」石戸の問いかけに、氷川参道に面した出窓を指さしてやる。「少なくとも、ここからは幽霊は見えない。だが感じる。この辺りには、チャラチャラした薄っぺらな悪意が漂っているよ」
 たまらなくなった。ドアを開き、車外へ片足が出たところで、石戸に腕をつかまれる。
「待ちなさい。何をする気だ」
「麻里絵の身に、なにかあったのよ。内側から鍵をかけて、誰の呼びかけにも応じないって、きっと良くないことが起こっているにちがいないもの」
 問答している時間が惜しかった。わけを話せば、麻里絵ママだってきっと協力してくれる。鍵がかかっているなら、ドアをぶち破ればいいだけのこと。
「そんなことをしなくても、お友達の安否を確かめる方法がありますよ」石戸は私の腕を解き放した。
「きみが幽霊になるんです」
「だけど、それには瀕死の状態にならなきゃあ……」
 目の前で、したり顔が左右に揺れる。
「二度目に体外離脱したときを思い出してください。きみは、いつのまにか眠りに落ち、そしていつのまにか体外離脱していたんじゃないのですか?」
 またも心を読まれた。脳裏に、二度目の体験を思い浮かべていたのは確かなことだった。
「やはり、そうなのですね」
 苦笑を浮かべた石戸は、わたしに、自分と入れ代わりに助手席に座るよう命じると、後部座席に乗り込んで告げた。
「美由紀さん、いいですね?」
「しかたありません。場合が場合ですから」
 ママは目をつぶってうつむいた。
「わたしの言う通りにしていてください。怖がることは微塵もありませんから」シートがリクライニングされ、私の顔を石戸が柔和に見下ろす。「肺の中の空気を、すべて追い出すように呼吸してください。ゆっくりと大きく……。そう、息を吸うときは、お腹の筋肉を緩める感じで」
 一種の催眠術なのだろうか。同じような言葉が繰り返される。ソフトに、そして緩慢に。
「目を閉じてリラックスするんです。だんだん手足の感覚がなくなるイメージをして……。自分に手足はない。呼吸しているのも忘れて……。わたしの声しか聞こえなくなる、聞こえなくなる……」
 どれくらい経ったのだろうか。
 突然、身体を支えているシートの感触が消えた。狭い車中のはずが、わたしの周囲には広大な空間が広がっていた。まるで、真っ暗な海に浮かんでいるよう。暖かく、波もない。石戸の声だけが、遠い水平線から押し寄せてくる。
「きみの意識は、肉体という殻のなかに浮かんでいる。意識だけを、寝返りさせてごらん。できるだけ、ゆっくりと……」
 なぜかわたしは、石戸の言っている意味がよくわかっていた。意識を包んでいる肉体とのあいだに、わずかながら隙間を感じる。まるで羽化する直前の蝶のサナギみたいに。
「寝返りを打ったら、次は起き上がる……。さあ、やってごらん」
 指示されるまま、意識だけの身体を反転させる。
 いきなりだった。
 軽自動車の屋根が見える。その傍らで、石戸が微笑みながら見上げていた。
「さあ、お友達の部屋へ。あとは、自分でできるね」
 私を捉えて放さない視線にうなずくと、麻里絵の部屋めがけて舞い上がっていった。
「危険を感じたら、自分の肉体を思い浮かべるんだ。そうするだけで、一瞬のうちに帰って来れるから」
 その忠告が追いかけたきた時にはすでに、リストカットして横たわる麻里絵の姿を見下ろしていた。

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