はなぶさ日記:母
「ただいまーん」
「おかえりーん」
今、僕は訳あって母の家で2人暮らしをしている。
母は、仕事から帰るとすぐに夕飯の支度に取りかかる。
トントントントン
包丁がまな板を叩くリズムが心地いい。
「セッティングよろ〜」
「あいよ〜」
母が料理の最中、準備をするのが僕の役目だ。
そんで母は酒を飲む。
めちゃくちゃ飲む。
だから僕は、ある時、母に聞いた。
「ビール オア ワイン?」
返答はこうだった。
「ビール ア〜〜〜ンド ワイン」
「…まじ?」
「まじ♡」
生粋の下戸で、普段から水しか飲まない僕からすると、この返答には顎が外れた。
なんといってもこの母親、ワインを飲み始めると、スルスルと1本空けてしまうのである。
しかもその飲み方がなんとも美しくない。
注ぐ量にはワインを美しく魅せる為の適量がある。
しかしこの母ときたらなみなみに注ぐ。
何度も注ぐのが面倒だからだ。
しかし、そんな事より僕は母の「ア〜〜〜ンド」の言い方にツボった。
ビール、と答えて、溜めてからの大袈裟なア〜〜〜ンドがずるかった。
だからふざけて更に聞いた。
「ア〜〜〜ンド?」
「うめっしゅ〜」
相変わらず変な言い方だ。
でもそこが母らしくてまた笑った。
しかし、流石に冗談だと思い、テーブルに350mlの缶ビールと未開封の赤ワインをセットした。
「グラスは?」
と聞くと
「ワイングラスで」
と返ってきた。
セッティングが完了したテーブルに、次々と料理が並べられる。
これで準備は整った。
さてさてようやく夕飯だ。
先に食べ終わり、ソファーの上でくつろぐ僕は、母を見て口をあんぐりと開けていた。
この母親、やりおった。
先程のやりとりは冗談ではなかった。
「うーん、美味い!」
本当に梅酒まで飲んでやがる。
しかも、ワイングラスで。
そこでふと、酒からグラスに意識が移る。
というのも、僕は去年、初任給で母にワイングラスをプレゼントしていた。
そして母は、最近どんな酒でもワイングラスで飲む習慣があった。
酒には酒にあったグラスがある。
下戸の僕でもそれくらい分かる。
(もしかして…)
その瞬間、ただの酒好きの母親が、子供想いの優しい母親に見えてきた。
元々子供想いではあったのだが、改めてその優しさに感動した。
そしてその姿を見つめてジーンとする僕を見て、母は僕に聞いてきた。
「なんでそんな見よーと?」
「いや、ありがたいな〜って思って」
「何が?」
「いや、そのワイングラスよ。何の酒でもそれで飲むけん何でやろ〜って思っとったっちゃけど、俺がプレゼントしたけん毎日使ってくれとるんやろ?」
すると意外な答えが返ってきた。
これ100均よ?
「え?じゃあ俺があげたワイングラスは?」
「まだ箱に入っとる」
「は?!あげたのもう1年以上前やん!」
「だって割れたら嫌や〜ん」
「形ある物いつかは壊れるんや!」
「えー」
「じゃあ、イタリア土産で買ってきた秋冬用の手袋は?」
「まだ外では使ってないよ、はめはしたけど」
「なんで!使ってや!」
「だって汚れたら嫌や〜ん」
「手入れせぇ!」
どうも勝手な勘違いだったらしい。
ある意味大切にしてくれているのかもしれないが、
物は使ってこそ意味があると思っている。
しかし、次の話を聞いて納得した。
昔、母は妹からプレゼントしてもらったネックレスをつけていた際、
風呂に入ろうと服を脱いだ瞬間、誤って千切ってしまった事があるらしい。
それ以降、子供たちからのプレゼントは、使わず保管しているようだ。
ただの書き置きやちょっとした手紙など、子供から貰った物は何でも取っておく母。
「そんな書き置き要らんやろ」
と僕が言うと
「いいと。嬉しいっちゃけん」
と母。
要らんやろと言いつつも、母が捨てない事は分かっていた。
それが僕の母なのだから。
こんな事を言うのは照れくさいが、僕は、酒飲みで、子供想いで、とても優しい、
そんな母が大好きである。
とは言うものの、やはりあげた物は使って欲しい。
「記念日とかでいいけんさ、そのグラス絶対使ってな!」
「うーん。じゃあ弘美が小説家デビューした時に、あのグラスで乾杯しようかな」
何ともやる気を煽るのが上手い母であった。
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