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拘りの理由(2)─好き楽し─
もともと感情的というか、周りをよく見ず自分の思うままに行動してしまうところがあって、拘りというのはそれほど無かった。
小学生のとき。安全のためよと母は黄色いごくごくシンプルな傘を買ってくれてなかなかのお気に入りだったのだが、傘を開いたまま強く横に振るとひっくり返るのが大好きで、しかし母の買う傘は返りにくいもので(やってみると分かるけれど8本骨のジャンプ傘←ワンタッチが返りやすい(笑))、何本も傘を駄目にしてしまいついにはお買い得だったからと嫌いな赤色の傘になってしまった。その傘はわりと長いこと壊れなかったように記憶している。
そんな、ときおり妙な執着心が顔を出し他人様に迷惑をかけたことも多々あるしょうもない子どもだった─今もしょうもない人間(オトナ)だが。
執着心と拘りは似ている。意地とか、ハマる、沼、なんかも仲間かもしれない、と思う。
夢中になると周りを見ず時間も気にしない…のは今も変わっていないではないか。おやおや考察するつもりが反省会になってしまっては敵わない。
若い頃の拘りは、他の態度や感情と同じく実にパワフルだったような気がする。いま思うと何故それにそんなにも…?どうしてそこで?と思わなくもないが、拘ったモノ・コトはそれなりに好きだった。
楽しくて、充実していた。満足度が高い。
今はどうだろうか?
拘ると何かと周りの目が気になり、好きなように動けない。
世間体を気にしてしまう。
家族にバカにされるからイヤになる。
故に、好きなことでも楽しくないことが多くなってしまった。
それでも、楽しさを求めはじめた。
ツレが常に楽しくない人で、それが当たり前と思っていることに恐怖をおぼえ、笑うことは罪とさえ思っているのではないか?と感じるほど笑わず、いつもイライラして家族の粗探し、いつ怒鳴り散らしてやろうかと身構えているかのようで、こちらの話は常に空を切っているという虚しい状況であることを知ってしまったのだ。
楽しくない、笑顔のない人生など、私には必要ない。
だから気になるコトや好きなモノに拘るのを復活させてみた。今は生きている気がして満足感がある。若い頃ほどの興奮はないが、それでも楽しいと感じることや充足感には意味がある。
ツレのことは可哀想だと思うが、そのように育てたのはその親である。こちらがとやかくいう必要も責任もない。いやかなり突っ込んで言ってきたが先に述べたとおり空を切っているのだ。長いこと無意味だったのだ。ならば、それに費やした時間は今後は自分のために使おうと思った。拘りさえも自分のためにやる。
楽しくないならやめようと決めている。
楽しいならとことんのめり込もう、ハマろう。