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鈴木清順は神様じゃない!~MOVIE TRAP3 in NO WAY TICKET@ひ録:わらの手


キネマ旬報1974年7月下旬号

1974年(昭和49年)1月15日(祝)。
ニッショーホール(初代:虎ノ門)にて「清順の日」が開催された。
当時、1月15日は固定の成人の日で、だから「清順の日」とかけた
命名であり、実施日だった。

「清順の日」手書きポスター
花札「芒に月」を模したポスター
鈴木清順監督のサイン入り

上映作品は「野獣の青春」と「肉体の門」。
(「肉体の門」は、当時貸し出し不可作品だったのだが……)

主催は、戯作舎(げさくしゃ)。
某大学映画研究会有志の集まりで、命名は自分。
検索すれば、同名の会社が存在するが、そちらは平成27年設立なので、
こちらの戯作舎とは無関係だが、命名はこちらが早い。
ので、使用に関してはご容赦いただきたい。

戯作舎の活動については、備忘録として若い頃から記録に遺しておきたい、
と思っていたが、まさかこんなに時間が経っているとは、感慨無量。

以下に再掲したい。
これは、キネマ旬報に採用された唯一?の文章。


鈴木清順は神様じゃない。

渡辺武信氏が戯作舎主催"清順の日"の講演で、清順監督を神格化するのは
間違いだ、と語ったのは、(会社側の不当な場面改悪命令! があったに
せよ)あれだけの映画を製作できたのは、当時東洋一を誇った日活撮影所の設備があったからこそ、と言うことだった。

※ 渡辺武信(わたなべ たけのぶ:1938年1月10日 ~)
 詩人、建築家。「日活アクションの華麗な世界(上中下)」等、
 詩集、建築関係本以外に映画関係の著作も多い。

たとえば、流れ者の心情的な空間性を見事に具象化した「東京流れ者」の
極度に装飾を排除した“クラブ・アルル”の白い壁面は、ムラを出さないよう苦心したため、確か三百万の予算の二倍近くを費やしたという監督自身の話だった。現在の日活ロマンポルノ、七五〇万の低予算状況……。

また清順監督が不当な解雇理由で日活を、劇映画界を六七年の「殺しの烙印」以来離れなければならなかったということで、判官びいき的に清順監督を神格化するのも間違いだ、という渡辺氏の言葉だった。

清順監督の煙草の吸殻を持ち去った原宿学校の彼や、「やっぱり清順氏は僕にとって神様なのです」と言う4月下旬号”私はこう思う”欄の彼で思い出すのは、一昨年の文芸坐オールナイトの「野良猫ロック・暴走集団71」。ラストで原田芳雄がマイト握りしめてライフル銃弾何発も受けながら、郷鍈治に食らいつき爆死する場面で、「はなさないで!」と絶叫した女の子のことだ。

文芸坐オールナイトの愛すべき悪しき常連同胞の名台詞をかき消す「ヨシッ!」とかの定型化したかけ声や、名場面前の拍手に比べて彼女の一声は、完全に映画の中へのめり込んで行けるそのナイーブな感性ゆえに、いとも簡単に虚構と現実の境界線を跳び越えた人間の、ぬくもりを感じさせるコメントとして私を感動させたのだ。(大袈裟?)

しかし、原宿学校の彼はともかくも、「はなさないで!」の彼女と共通項を持つ「やっぱり」の彼に対して、非常に理解は出来るが清順監督を神格化してしまう(だけではないと思うが)のは私としては物足らない。

お世辞を言うつもりではないが、渡辺武信氏の映画評論の特徴である、映画に対する熱っぽい憧憬と冷めた論理性(客観性)の二面的な立場というのは大事だと思う。

それにしても、キネ旬の「世界の映画作家」に深作監督や熊井監督が特集されているのに(非難にあらず。為念。)、何故、清順監督は特集されないのか。

もっとも、清順監督を特集するのはかなり困難と思われる。

戯作舎の会見した限りでは、清順監督は神などという色気のない存在ではなかったが、一個の人間として非常に屈折した心情の持ち主に思えた。
大和屋竺氏が「いくら体当たりしていってもはぐらかされる難攻不落の絵袋
……」と評したのが、判るような気がしたものだ。世界の映画作家の一員として取り上げるにしても、清順監督に自作を語ってもらうというのは、やはりかなりの困難がある。なにしろ、過去の自分の作品は忘れたと(一応は)言う人であるから。

その忘れたということにしても、坂口安吾が全てを求め得られぬ反動として一冊の蔵書も置かなかったのと同様に、会社側の命令で改悪せざるを得なかった自作を忘れられぬからこそ、忘れたと言うのではないかと推測するのだが、どうだろうか。

たぶん、私がこんなことを言っても清順監督は、「いや、本当に忘れてしまうんだ」と言って微笑し、私を十何度目かの混乱におとし入れるだろう。

清順監督と重ねた六回の逢瀬?の一部始終を戯作舎だけのものにしておくのは、他の清順ファンに対して、ひどく不義理ではないか。

これは、戯作舎同様清順監督と会見した胡流氓(コルボ)シネマテイクの人から電話で聞いた話。

後記) 多分、大久保賢一さんだと思う

「東京流れ者」ではしばしば現代気質のヤクザを表現した東京タワーと、昔気質のヤクザを表現した朽ちかけた大木が挿入されるのだが、この映画の本当のラストは、横倒しになった大木に腰掛けた不死鳥の哲(何故かフジチョウと発音する渡 哲也)と、頭上には緑色のジャンパーを着ていた大塚の流れ星(二谷英明)を表象したと思われる、緑色の月!がかかっていたと言うことです。

現在、映画館で観る「東京流れ者」は、不死鳥の哲の去って行く後姿で終わっているが、”終”の字は緑色に成っている。清順監督のせめてもの抵抗であろうか。


若書きとは言うものの、文章が硬いな、の印象。

※ 「東京流れ者」の中で、渡 哲也が「ふじちょう」の哲と発音する。
 思い出す度に調べた。出身地淡路島の方言?かと思ったが、
 そうでもない。

 何度目かの検索の時、最近だが、Songs for 4 Seasons と言うサイトで、
 答らしきものを見つけた。

 引用はじめ。
渡哲也扮する「不死鳥のテツ」(映画のなかでは不死鳥は「ふじちょう」 と濁って発音される。これは東京人のくせで、下谷生まれの亡父は「台東 区」を「だいとうく」と発音した。清順も東京生まれ、亡父の二つ下なの で、あの時代の東京人らしく、「ふしちょう」という抜けた音を嫌ったの だろう)
 引用おわり。

明らかに通常の発音とは違うので、違和感が残ったのだが、
渡 哲也の発音癖なら清順監督は直させただろう。
むしろ、清順監督が渡 哲也にそう演出したのだろう。
(つまり、清順監督は主人公に自分を仮託した!?
 生前の清順監督に聞き忘れた。後述する渡 哲也本人にも
 聞き忘れた・・・)

そう言えば加山雄三主演の「大学の若大将」で、祖母役の飯田蝶子が
お招きを「おまねぎ」と発音していた。飯田蝶子は浅草生まれだ。

※ 渡 哲也はNHKの「勝海舟」を病気で降板し、当時の国立熱海病院に
 入院していた。インタビューした舛田利雄監督のはからいで、
 戯作舎の数人でお見舞いに行った事がある。ご本人も奥様も最高に
 感じの良い方で、入院中にも関わらず あたたかく迎えていただいた。 
 (この件は後日「戯作舎備忘録」の中で取り上げる予定)

結局、キネマ旬報の原稿のつづきは書かなかった。
理由は、分からない。しかし、失われた時を手探りで掘り返す作業は、
これからも続く。

以上「鈴木清順は神様じゃない!」


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