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下妻物語 in BOOK ON

【原作】
嶽本野ばら「下妻物語 ヤンキーちゃんとロリータちゃん」
【映画】
監督:中島哲也
主演:深田恭子(竜ヶ崎桃子 ロリータちゃん)
   土屋アンナ(白百合イチゴ ヤンキーチャン)
公開:2004年5月29日
メモ:忘却の彼方にあった原稿が突然出てきました。 
   映画を観て感動し、原作を読んで感銘を受けたので、
   双方への感想が混在しています。  
   20年前の文章ですが、ほぼそのまま掲載します。
   一部、映画を再鑑賞したので補筆)を入れました。
   なお、ネタバラシもあるので原作未読の方、映画未鑑賞の方は、
   そのつもりで読んで下さい。

バッタもんでも・・・

「下妻物語」は、やわらかくしなやかな感性で、
孤絶にひるまない人物造形をしたところが凄いと思った。

嶽本野ばらは、バカが嫌いだと思う。
でも、それ以上にもたれかかる奴を嫌悪している、と思う。

嶽本というヘビーな姓と、
野ばらというメルヘンな名のアンビバレンツが、
この人の作風を象徴している。

「孤立を恐れない者だけが連帯できる」

昔々、そんなアジ(魚ではないぞ、アジテーション:扇動)があったような
気がするが、孤立、個立、屹立(こりつと読むのはきつりつの誤読)
を超えて、孤絶という「異端」に注ぐ作者の哀惜と慕情は、
自己愛に陥る寸前で普遍化を成し遂げている。(何言ってるのだろう?)

つまり~、人という字は日本(違う!!)二本の足で
しっかり立っていると言う表徴で、大という字のように両手を広げて
権力を得ようとする人間とは、連帯できないちゅう、事よ。
(ますますわからん???)

補筆)「孤立を恐れない者だけが連帯できる」
   本当は「連帯を求めて孤立を恐れず」です。

   1968年から1969年にかけて続いた東大紛争の時、
   安田講堂に残された有名な落書き。
   「力及ばずして倒れることを辞さないが、
    力尽くさずして挫けることを拒否する」と続く。
    原典は谷川 雁。

ロリータちゃんの生まれ育った環境は、決して上品ではないのだけれど、
その精神の貴族性は、唯我独尊・天地無用・言語道断・横断歩道、
渡れると判断したら赤信号でもあたしは渡る、ってくらい高い。

当然「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のように、
虚空からデロリアンが出現して轢かれても、
あたしはいいの。渡れると判断したあたしの判断を尊重するの。
その判断の結果はどんなものであれ、引き受けるの。
そういうキャラね。

(そんなのアリ!かよ、と内心つぶやくかも知れないが・・・)

ここで蘊蓄(うんちくと読むんだよ。うんつく、じゃないよ。
汚いだろ、それじゃ)を垂れる。

人生は行動選択の繰り返しなんだ。
(洗濯も繰り返すが)
何かを選んだという事は、何かを選ばなかったって事だ。

選んだ行動の結果責任を負うのは自分で、
これは当たり前だ。

でも忘れちゃあいけない。
選ばなかった行動の結果責任を負うのも自分なんだ。

いい歳こいて、こんな事も知らないで
大人してる人は一杯いるよ。

ロリータちゃんは、どちらの結果も引き受ける覚悟で生きている。
エゴイストかも知れないが、こんなキャラのヒロインは今までいなかった。たぶん。

ちょっと見、異端、孤高に評価されるかも知れないが、
実は近代的な、日本人には少ないが、正統な「個人」なのだ。

補筆)リバタリアンだと思う。

さて、ロリータちゃんは正統な「個人」だけれど、
(おいおい、何も証明しないで断言してるぞ)
 ピンでストーリーを引っ張るにはキャラが極端だ。 

くどい! 独りよがり! 
衒学的!(げんがくてき、と読む。学をひけらかすって事。
あっ、これは嶽本野ばら本人かも。おいおい、お前もそうだろう、
なんてツッコミは入れないよ~に)

そこで、この強力無比のロリータちゃんに対抗すべく
登場するのがかゆいところに強力ムヒ、我らがアイドル(勝手に決めるな)
ヤンキーちゃん、なのだ。

「バッタもんでも◯〇ルサーチは◯〇ルサーチだろうが」
という脳天気発言でブランドの概念は木っ端微塵。

アナーキーとは、こういう事だね。

補筆)映画ではロゴがVERSACEではなく、VERSACHになっている。

たちまちはじまるロリータちゃんとヤンキーちゃんの
爆笑・苦笑・微笑・猛笑(こんな言葉はない)の
ボケとツッコミ漫才合戦。

詳しくは書かないよ。興味を持った人は本編を読んでね。
小学館から文庫が出てるから。

ひとつだけ。
代官山へ向かう電車の中で、ロリ系ファッションのロリータちゃんと
特攻服のヤンキーちゃんがジロジロ見られるエピソードには、
泣くほど笑った。

全身、カネコ イサオブランドで固めた女と
全身、ユニクロで固めた男が一緒に歩いていると

「視線がレーザービームなら、私達はもう肉の一欠片もなく
 粉々になってなってるだろーね」

って台詞は、もう実感だね。(誰の実感だ?)

用意したモデルが、目薬と間違ってマネージャーの水虫薬を
点眼(すごい展開)したため眼が充血。使えない。

そんなわけでヤンキーちゃんは、採用されたロリータちゃん
デザインのお洋服モデルをつとめる事になる。

そのため所属している族の舗爾威帝劉(ポニーテール:
こんな難しい当て字すんなよな~。漢字変換しないじゃないか。
するわけない!!)の集まりに欠席する事になる。

結果、物語はクライマックスに向けて、
一気に走りはじめる。

そして、ヤンキーちゃんは単なるピエロではなく、
トリックスター(意味は自分で調べてね!!)である事がわかってくる。

文庫本290ページから293ページに亘(わた)る
ヤンキーちゃんの台詞は、倫理学(なんだそりゃ!)史上に残る
名台詞だ。

前略。

「抜けさせて貰うよ、こんな仲良しクラブ。
 こっちから願い下げさ。人は最期は一人なんだよ。

 徹夜で語り合って、手を絡いで抱き合って眠っても、
 違う夢を見るんだよ。だからこそ、人は人に影響を受けたり、
 人を大切に思ったり、その人間の生き様を尊重出来るじゃねーのか。

 ―こいつはよ、あたいが一番辛い時、傍にずっと一緒にいてくれた。
 でもこいつはあたいに、優しい言葉を何一つ掛けてこなかった。

 あんたらなら、適当な言葉を掛けてくるだろ―な。

 でもその言葉はあたいのことを想って掛けているんじゃない。
 そこには、自分はお前を心配してるんだ、
 味方なんだよということを主張して、
 だから私のことも見捨てないでくれよっていう
 損得勘定しかね―んだよ。

 損得勘定がしたいなら、
 真面目に学校で数学のお勉強でもしていなよ。
 大学行って、経済学でも専攻しなよ。
 
 ―知っているんだよ、こいつは。
 どんなに頑張っても、人は人の悲しみや苦しみのすべてを
 共有出来ないってことを。
 
 その全てを肩代わりするなんて出来ないってことをよ」

 後略。

そこには、嶽本野ばらの思想

「ひとりがひとりで立つ事の不安と断念と覚悟と恍惚」

が集約され代弁され、そうなってはじめて
人と人は交わる事ができると
静かに熱く主張される、のだ。

「下妻物語」を、特に小説を単なる
お笑い作品と思っていたら大間違いだよ。

笑いというオブラートにくるんではいるが、
人間という生が内包する矛盾と真実を、
自立と自律の意味をグサリとえぐったシリアル(違う!!)
シリアスな物語、なのだ。

以上「下妻物語」

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