名は別に人を表さない

体の不調を訴えると必ず「病院に行け!」と言われるので、文句を言われないように先手を打って整形外科に行くことにした。

いつもは朝に通うのだが、この日は仕事帰りの夕方。普段お年寄り達でぎゅうぎゅうしてる院内はびっくりするほどガラ~ンとしていて保険証を出すのも躊躇ってしまった。どうやらお年寄りと若者(というのも厳しい歳だが)は生きている時間が違うようだ。

病院にはなぜ年寄りが多いのか?体にガタが来る年齢でもあるが、その他に病院に通える時間と金銭的余裕があることも大きいだろう。世の中には病院に通える時間は働き通しの人もいれば金銭的に通えない人もいる。医療は我々に与えられた権利のはずだが、若者の間では贅沢品になっているのかもしれないと今よく見る光景が社会の写し鑑になっているような気がしてならない。

当然そんな日本社会を憂いるようなことは診察時に考えていない。
待合室にあるテレビをぼうっと見ていた。

私は数回この整形外科に通っているがチャンネルがNHKから替えられた時を知らない。そして周辺にはチャンネルを替えるためのリモコンも見当たらない。なので一年中NHKから替えられることはないのだろう。お年寄りはとにかくNHKが好きである。そしてニュース番組も相撲も好きである。

別に興味はないのに相撲を見ることになった。
画面いっぱいに広がる(おそらく)対戦表には力士の名前がびっしり詰まっている。

一人一人の名前を見るが、正直どれも心当たりがない。
だいたい三文字~五文字のしこ名の中には「欧」のように地名を表す漢字と「勝」のように縁起の良い漢字、「琴」のように伝統的に使われる漢字が多いと思った。(今調べたら同じ部屋出身の力士が名乗るらしい)

そこでふと思った。
なぜこの人達は自由に名前をつけないのだろうと。

自由に名前を付けられるとしたら生まれつき決められていた出身地なんて代わり映えのないものを選ばないはずである。第一出身地でも都道府県の名前の性質上人と被ってしまう。山や川の名前から取ってつける場合もあるが。それも大まかな括りで出身地だろう。

犬が好きだから名前に犬を入れる、なんてことはないのだ。

そう思うと名前がだんだん不思議に思えて来る。名前は基本的に名付けられるものであるということにショックを受ける。自分の最大のアイデンティティであるはずの唯一無二の本名でさえ自分の意思では決めていない。親の意思で生まれる前から決まっていたものなのだ。

私が経験した自由な意思による命名などネット上のペンネームくらいしかない。それくらい自分から自分への名づけというものは特殊なものである。人によっては芸名・源氏名・雅号もあるかもしれないが、それもころころと名前を変えるものではないから、やはり特殊な体験だと思う。

よくネット上には自分の好きなキャラの名前を自分自身の名前として利用する人がいるが、それができるのもペンネームが存在するからだ。そして個人のアイデンティティに推しが組み込まれるようになったのは実はつい最近のことなんじゃないかと思う。(「歴史上の人物が歴史上の人物に肖って同じ名前をつける」を推し文化に加えていいのかはよくわからない)

別に好きはアイデンティティにならない。
自分の名前という最大のアイデンティティは「受け継がれてきた名字(しかもこの名字なんかも地名がだいたいの由来だ)」+「親が勝手につけた名前」の組み合わせなのだ。生まれる前から決定されている名前はその人本来の性質を表しているわけではない。なので本当に自分に相応しいかどうかなんて誰もわからない。それどころか名前負けなんて言葉もあるくらいだ。

では自分に相応しい名前は誰が決めるのか?実はそれも他人が決めているのかもしれない。人から言われるニックネームや蔑称の方がその人の本質に迫っていることの方が多いのではないだろうか?そう考えるとますます名前というものが不思議になってくる。

自分というものは自分の中にあるのではなく常に他人の中に存在する。そんな話に終着するのだろうか?或いは名前の数だけ人格があるという話かもしれない。名前だって人から呼ばれないと認識されないのだから、自分がつけた名であっても他者がいてはじめて成立する……とすればどこまで他人任せなのだろう。人なしでは生き得ないどうしようもない人間社会の呪縛が見えてくる。

さてここまで話してみた。何を言いたかったかというと自分の勘違いである。自分というものを強固な存在に思っていたのに実は自分の力の及ばないところで自我が確立、保証されているという話なのだ。

この文章を読んだ人は自分のペンネームの由来を思い起こして欲しい。
それは好きな漢字だったり、語幹だったり、字面から取っていないだろうか?何か愛着を持つもの、憧れるもの、人生上で出会った何か、あだ名の一部だったりしないだろうか?

この推し活時代、好きという感情はますますアイデンティティになっていくのかもしれない。そしてその表れは先ず名前から……血縁・地縁を拭うこと、それは本来勇気のいる行動なのではないだろうか?切り離された第二の人生を推しと歩むと考えるとそれはそれでロマンティックな気がする。




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