人生に反省は必要か? 『恥辱』(J・M・クッツェー)
真面目な人ほど日々反省の連続だろう。
「あの件はもっとしっかり出来たんじゃないかな」「あの言い方は厳しすぎた?」「イライラして家族にあたってしまった」
日々精いっぱい生きているのに、それに加えて反省ばかりしていたら疲れてしまう。
そんな時に『恥辱』を読むと主人公と比べたら私はなんて謙虚なんだろうと自分を褒めたくなる。
52歳の大学教授が教え子からセクハラを告発され大学を追い出される。その後娘の元へ逃げ込むが、一向に反省せずに淡々と日々を過ごしている。
もちろん彼なりに現実を受け入れようと苦悩するのだが、時代の移り変わりについていけない中年男の皮肉と含みのある会話に心が痛くなる。
『恥辱』が出版された1999年は、セクシャルハラスメント問題が世界的に議論され始めていた。
女性は黙り耐え忍ぶ旧時代の価値観から、声をあげ戦ってでも自由を勝ちとる新時代の価値へシフトしていた時代。
『恥辱』はいくつものメタファーが緻密に交錯している。
女性視点での注目は、主人公の大学教授デヴィット・ラウリーを告発したメラニーと娘のルーシーだろう。
単位をほしいがためにデヴィットに気を持たせておいてもらったら告発をした教え子と、レイプされて身籠った子を出産することを決める娘。
この小説の舞台はアパルトヘイトが撤廃された直後の南アフリカ。
セクシャルハラスメント問題に並び、文学界隈ではポストコロニアル理論も盛んに議論されていた。
ポストコロニアル理論(通称:ポスコロ)とは、植民地や帝国主義を幅広く議論していく文化研究で(あくまで問題意識であって運動ではない)、旧植民地の国の文学では旧宗主国がどう描かれているのか、植民地となった国の文化風習がどう抑圧されてきたのかを研究するものだ。
人種差別問題、セクハラ、旧時代と新時代。変化する際に生じるひずみ。
自分自身を見つめ直すことに意味はあるのか?
誰ひとり、もう自分になんて興味を持たないのではないか?
愛情にも温情にもじつは期限や流行りがあるのではないか?
赦す心を見出してくれるといいが。
文学サイト「たおやぎ」で、この本をテーマにしたコラムを書いています。