20年ぶりに一緒に暮らした父のこと
もうすぐ父の日。
なので、私の父の話を書いてみる。
もう4年も前のことだけど、出産前後で4ヶ月間、実家に戻り、両親と暮らした。私の大学卒業式の前日に脳出血で倒れて要介護となった父と、その父を支えながら暮らす母との20年ぶりの三人暮らし。後に夫も合流し、四人暮らしになった。
父は、THEモーレツサラリーマンでありながら、歌がうまく、話も達者だった人。若い頃には、複業で結婚式の司会を引き受けて小銭稼ぎしていたらしい。また「話し好き」が高じてか、YMCAに通って英語勉強を続け、40代になり単身アメリカに赴任したことも。倒れて以降、何度かの脳出血を経てだいぶ言語に支障をきたしていたけれど、昔の記憶は強いのか、あるいは話したい気持ちが強いのか、倒れた後も不思議と唐突に英語を発した(「話す」というよりは「突然出る」感じで)。ただでさえ聞き取りにくいのに、いきなり英語(英単語)が混じるので、周囲は困惑。初めて夫を紹介した時なんて、しばらくの沈黙の後「…No problem」と発し、緊張していた夫は「へ・・?」と固まり、母は笑いを堪えて(いや漏れてた)“通訳”したんだった。
一方、家事が得意で性別役割分業なんて(まじで)どこ吹く風の令和な夫。臨月に入る頃に実家に来てからは、前にも増してお腹が大きくなった私を座らせ、テキパキと家事をこなす。そんな彼に昭和まんまの両親は目を丸くするばかり。母は「ダンナさん(母は父をこう呼ぶ)は、何もしなかったねえ」と父をいじり、父は眉毛を下げて笑いながら「オボエテナイ」と答えた。本当にもう記憶になかったのか、お茶を濁したのかは、分からない。
さて、父のルーティーンでは就寝は21時。母に手伝われながらパジャマに着替え、自分で車椅子を転がし寝室へ向かう。ひらひらと私に手を振りながら「オヤスミ〜」と告げる様子は、母によると「それはそれは嬉しそうなおやすみ」だったらしい。
そしてそこから先が母の自由時間。コロナ禍で出産予定の2ヶ月も前に帰らねばならなかったこともあり、その間、母は自分と父の「子育て時代」の話をたくさん、たくさん、聞かせてくれた。
なんてったって昭和モーレツサラリーマン、加えて地方都市の長男な父。いつだって「ワシが第一」で「仕事第一」。自らを、三児の父ならぬ「三時の父」とのたまい、午前様もしばしば。母が巻き込まなければ、きっと仕事一直線でしか無い人生だっただろう。
20年ぶりの両親との暮らしは、賑やかで楽しく過ぎたけれど、同時に、70代に入った親の老いを間近に見る辛さもあった。思っていたより話が通じないし、目が見えていない。二人の生活は淡々として静かなもので、それこそが望ましいことでもある。
一方で、里帰り出産は喜怒哀楽の連続だ。娘に毎日会える、心配する、注意する、言い争い、なんかいつのまにか仲直り、予定日が近づく、今日か、明日か、生まれた、無事か、名前は、初対面、寝た、起きた、動いた、泣いた、ミルク飲んだ、ゲップした、その一つ一つに感情が振れ、ハッピーに満ちている。
元の生活に戻る時、必ずそのギャップは如何ほどか。
そのことに気づいてしまってからは、罪悪感ではないはずだけど、そのようなものが湧いてきて仕方がなかった。でも私には私の生活があり、仕事があるわけで、お宮参りを済ませた後、予定どおり、私は子を抱えて夫と帰宅した。
そしてその一ヶ月後、年が明けて、父が入院したと連絡があった。正確には私の誕生日にLINEが来ないから「何かあった?」と連絡したら、入院したと判明。そうか、そうなのかと思いながら続報を待つ日々が始まった。
今回は少し長い。長めの入院を経て一度は退院したものの、自宅での生活は難しいと判断され、グループホームでの生活を挟むことに。春になり、また入院。5月になり退院して再度グループホームに戻って一週間。母から着信で、「お父さん、いっちゃった」と告げられた。子供が生後半年になった日だった。
疲れさせちゃったかな、ギャップでがっくりしちゃったかな。実際に、そうだったとは思う。前年にも入退院を繰り返してずいぶんと弱ってもいた。もしかしたら感情の振れ幅の大きさに疲れさせてしまったかもしれないけど、それでも顔を見ておやすみ・おはようと言い、朝晩一緒に食事をする生活は良かった。私も、時々爪を切り、メガネを拭き、少しながら食事介助したり、誕生日を祝うなどできた。父は、膨らんだ私のお腹を見て毎日のように「オオキクナッタ」と言い、出産後帰宅したら、「アシガ、オオキイ」と言って目を見開いた。お宮参りも一緒に行ってもらって、抱っこもしてもらった。
遺影は私の結婚前の両家顔合わせの時に撮った写真だ。私にできる最良の恩返しをできたと心から思う。今頃、好きな車に乗り、美味しいものをたらふく食べ、歌謡曲でも歌いながらこっちを眺めているであろう。
そういえば、一緒に暮らした数ヶ月のあいだ、父が唐突に「〇〇ハ、**ダッタッケ?」など言い出すことがよくあった。なに?突然?と聞くと、覚えていたいことを覚えておくのも大変なんだというようなことを言っていた。
私もいつか、いろんなことを忘れてしまう日が来るだろうか。それなら私は、父のあの「それはそれは嬉しそうなおやすみ」を覚えていたい。
読み返してみて、仕事無関係が過ぎるけど、まぁ、いっか。
そんなこんなで父にはいい思い出が多く、だからこそ「虎に翼」のお父さんには泣けて泣けて仕方がなかったのだった。