長銀団地という生き方 その4
長銀団地という生き方その3よりつづく
だいぶ脇にそれたが、というか、それっぱなしで、このタイトルの訳がわからなくなっているのだが、兄が私に「会葬お礼の文章の原案を作って送って、」と言っての帰りしなに、私から兄にきいてみたのは、
「私さ、絶対にお兄さんのほうが文才あると思うんだよね。」
「うん。」
「でね、ここの、この長銀団地の方たちって、ほかの地域の、いわゆるお年寄りとは全く違うよね。」
「そうだね。」
「私は正直、こんなに素敵な年齢を重ねた方々の集団を見たことがない、けど、どう思う?」
「確かにそう思うし、実は僕もああいうふうに生きたいと、いつも思ってはいるんだよね。」
「これって、誰かが記録しておいたほうが絶対いいことだと思うんだけど。」
「そうだね。
僕にはその発想はなかったよ。」
昔、まだまだ父が元気で、でも「ヘラブナ釣りに一年365日」の生活から、自治会のメンバーの方々との活動を中心にし始めた頃、そのあまりに「楽しそうな様子」にああ、この人は、本当に「長銀団地を遊び尽くしている」と思ったことがあった。
そして今回、父だけでなく他の皆さまの様子を拝見して、
色々お話を聞かせていただくうちに、
これは長銀団地という「生き方」なのではないか、
そんな考えが芽生えてきたのだった。
「For You」のお話を聞かせてくださった方が、父の旅支度を手伝いながら、父がどのように自治会の中の男性の自主活動グループに参加するようになったかの、時期や細かな経緯を含めたお話をしてくださったのだが、
皆さんの父を評してきっとおっしゃることばの中に、
「絶対休まなかったもんね!」という父の参加態度があった。
私たちは、ただ単に好きだから、そちらを優先している、それはそれで何より、というふうに受け止めていたのだが、そこにはどうもまた別の父の選択が、意志があった、ような気がするのである。
もう随分と前になるが、父が、寂しそうに「地区会の面倒を見てくれる人が、いなくなっちゃったんだよね。」と言ったことがあった。
長銀団地に住み始めた翌年には父にも役員の当番が回ってきて、父も周りの方も働き盛りの方々で、自治会の役員のお仕事も、それぞれの方がお仕事を通じて培った「プロの技」を随所に見せながら、気の合う仲間を見つけたり、中央の通りで色々なお店を開いてお祭りをやったり、みんなで排水溝の掃除をやったり、大人も子供も入り混じって楽しんだものだった。
一年目は良くても、数年するとそれが、「大変」になって、「負担」になって盛り下がってくる。よし、あの仲間たちともう一回盛り上げよう、とやるうちに、父が慕っていた先輩の役員の方々が相次いで亡くなられたのだ。後を引き継ぐように、父曰く、「おじさんたちの面倒を見てくれていた」先輩役員さんのお嬢さんも、縁あって長銀団地を出られたのだ、という。
そう思い返してみると、この頃に父の中である決心が芽生えたのではないのか?そういう予感がした。
通夜を終えて、しばらく二階に上がっていた兄が、喪主挨拶のあらましを「こんな感じでどう?」と私に持ってきた。
「私は、ずっとパパが遊んでもらってたんだと思っていたんだけど、何か、そこには、こういう、『決意』みたいなものがあったんじゃないかと思うんだけど、それを、皆さんにお伝えできたら、って思うんだけど。」
と兄に伝えると、
「なるほど」
と再び二階に上がり、しばらくして降りてくると、
「うちのハナさんがね、(ハナさん、というのは兄の奥さんの名前で、4月から青森の団体に仕事が決まり、しばらくは帰れないだろうから、と倒れる数日前に挨拶に訪れていたのである。)倒れる直前に挨拶に来た時に父から、こういう話をされたそうなんだ。」と手渡された先程の用紙には、このようなメモが記されていた。そのまま引用させていただく。
「人の輪に入り、みんなに楽しんでもらえるようにすれば、どんなところでもうまくやっていける。ーー父も自治会や団地のお仲間とそういうつもりでやってきたか」
全く知らない土地の、全く知らない人々の中で仕事を始める義姉に対して手向けた、子である私たちには、見せたことのない、聞かせたことのない言葉であった。