達人の技は、解説外のところにも汲むべきものが点在している
今日は満月だったのだ。
スーパームーンってやつらしい。
道理で、山の端から昇ってきた月が巨大だったわけだ。
月とは何の関係もないんだけれど。
ちょっと今、とんでもない緻密な絵付け作業の工程動画を見て、ビビり中なのだ。
すごかった。
凄まじい。
わたしには、その行程の1%もできない自信がある。
もちろん、完成した作品は素晴らしく美しく、見応えがあった。
実物は、どれほどの迫力だろうか。
が。
とてもいいタイミングで、いいものを見た。
緻密な行程とかには、あんまり関係ないのだが。
作品の中にこめる「メッセージ」について。
解説では一切語られていないんだけれど。
この作品のイメージのもとは〇〇です。
だから、〇〇に関連のある、△△の要素を忍ばせてみました。
みたいな解説がサラッと、なされていた。
それだけなのだけど。
忍ばせた...という要素は、その作品の中核となるイメージと、ほぼ関係のないものだった。
が。
見る側は、それぞれ、自分自身のバックボーンから作品のパーツを見る。
要素と要素に特別な因果関係がなかったとしても。
観客は、それぞれ自分由来の興味を、その中に見出す。
画像が、無言のうちに、わたしに訴えてきていた。
「イメージ」に、意味づけしすぎると、かえってメッセージが薄れる。
「好きだから」
で、いいじゃないか。
「コレから、こちらを連想したから」
で、いいじゃないか。
そこに意味を見出すかどうかは、観客の自由だし。
因果関係は、「作り手の世界観」という糸が繋いでいる。
ああ
すごく、腑に落ちた。
タロットとか、やっていると、どうしても、一枚の絵の中に配置されたシンボルに全て意味がある...みたいな呪いがかかる。
そうである必要性があれば、ルールとして守らねばならないが。
必要性のない時にもルールとして無意識に構造を縛ろうとすると、隠れたストレスになる。
っていうか、そうなっている...と、さっき、気付いた。
これもまた、解除したほうがいいもののひとつだ。
それにしても…
惜しげも無く全公開されている緻密すぎる行程のうち、ほんの1割程度でも実行することができたら。
クオリティは、段違いに上がる気がする。
できない、とか言ってないで、少しは努力すべきだろうか。
そんなことを真面目に思うほどに、根気が必要な行程だった。
自分でも取り入れられるとしたら、どの行程だろう。
それこそ、「頭の使い方」っていう話に、なりそうだ…。
今設計している勾玉デザインのモノで、一度、取り入れてみよう。
緻密さ、繊細さ、しかしイメージは大胆で自由。
実装できたら…妄想だけなら、いくらでもできる。
まず、下絵を作るという段階で飽きてしまうというこの性分が、最大のネックだな…
【追記】
下絵を作らない一発描きでも、けっこう細かい造作を描きこむことがある。
まあ、さっき動画を拝見した達人の作品の「細かさ」とは比較にならないんだけれど。
それでも、モノによっては、かなり繊細に描きこむこともある。
陶器絵付けになると、アクリル画などとはガラッと空気感も変わるし。
下絵は、「アタリ」という程度には作ってもいい。
が、そこにエネルギーを注ぎすぎると飽きすぎて二度と顔見たくない...ってなってしまいがちなので、それはやっぱり、わたしには向かないと思う。
だから。
あの達人の技から盗めるところがあるとすると、たぶん、濃淡だ。
上記、自分のためのメモとして追記。