満月の夜に見つけた、自分の中の泥の層
卑屈な感覚を、自分自身に向けている。
そんなところがあるよな...と、薄々感じていた。
それが、思いがけない場面で不意に、恐ろしいほど明確に、体感できてしまった。
言語化できない領域なのは間違いないが、だから言語化しようとしなくてもいい、という意味ではない。
言語化しようと試みることは、問いかけ続けることでもあり、それが深みをもたらし、やがては個を超えたところにある共通意識という水脈へ到達する道だから。
そんなことを語ってくれる人との会話。
ほんの数分の、永遠のような素晴らしい時。
だからこそ。
炙り出されてきたのだ。
この「炙り出される」というキーワードは、ここのところずっと、様々な場面で意識される言葉であり、現象だった。
自分も、他の人も、あらゆる方向で、秘めたるもの...特に暗部は、次々と炙り出されてゆく。
その結果、様々なことが突然に決断しなくてはならなくなったり、ごまかせなくなったり。
そして。
今日はわたしの中にずーっと、排出することなく澱んでいた配水パイプの汚泥のごときモノに、不意にスポットライトが当たってしまったのだ。
と、いうよりも。
自分が足を浸しているところがどういう光景なのかを、見てしまった。
という感じ。
これでは、澄み渡る地下水脈へ糸をたらすことなど、できるわけがない。
この汚泥層が、あっという間に水を汚してしまう。
水脈に汚泥が流れ込むことは、あってはならない。
故に、永遠に到達することはない。
そして、「なぜ、いつまでたっても到達できないのだろう」と、頭は悩む。
いや。
「悩んでいるつもり」に、なる。
水田の泥土なら、実りの源となろう。
けれど、この泥は、あらゆる種類の光るもの、よいものを呑み込んで泥に同化させ、ただそこに澱むだけの異物へと変えてしまう。
吸い込んで虚空へ消えるだけ、ブラックホールの方がマシというものだ。
会話の序盤で、その泥を見てしまった。
それでも、後に続く会話は、素晴らしい清涼なものだった。
足元は泥に沈んでいるけれど。
呼吸する空気は澄んでいて香しい。
そんな感じ。
陶器を作る時、手にこびりついた泥や釉薬は、水を張ったバケツで洗い落とす。
バケツの底には、雑多に混じり合った泥が沈殿していく。
上水は流して捨てられるけれど、底にたまった汚泥は流せない。
それは、固めて水気を抜いて捨てる。
人によっては、その泥を花瓶や壺などの内底に敷き詰めるそうだ。
焼成すれば一体化するし、外側から見えない影響のないところを厚くする手段ともなるという。
わたしが自分の中に見つけてしまった汚泥層。
腐った水を抜いて、きれいな水で洗い、水抜きして練り合わせて、別のカタチを創ろう。
これも確かに自分の一部だ。
なかったことにするのではなく。
単に捨てればいいというのでもなく。
これを、違うカタチへと創り変えて、これからの自分の一部としよう。