「無いものさえ在るようにする」という行為は、人にしかできない。
神にはできないことだから、必要な行為を人に乞う。
なのに、人間は、なんだかんだと神に願ったり頼ったりするばかり。
小銭を投げて、大望を願う。
思い描いた都合の良いカタチ以外は、叶えられたとみなさない。
もちろん、人間には三次元的に必要とするものがたくさんある。
お金にはじまり、食事に衣類、休む場所、そして時間。
神にはどれも不要なもので、人にとっては必須/得たいもの。
あっちへ行けこっちへ行け、あれをやれこれをやれ...と指令は来るが、物理的に必要なそうしたものは「自分で得よ、方法は教えた」なんて平気で言ってくる。
違うってば、そうじゃねえよ。
あんたらの言う「教えた」をやってたら、何十年かかるんだっていう話で。
でも旅費はすぐにいるんだよ。
時間も捻出しなきゃらないんだよ。
そのことで、徹底抗戦の構えを長く続けた。
言うこと聞くもんか、と思って、飛んでくる指令も無視した。
すると、夫の夢に指令が飛ぶ。
動かざるを得ないようにしてくるのが、またまた腹立たしい。
でも。
それでも。
「無いものさえも在るようにする」
ことは、人にしかできない。
知ってるから、どうしたって、イヤイヤだろうがグズグズだろうが、結局は動くことになる。
この関係性。
これは、母親との関係性に、酷似している。
母が存命中の時から、薄々そう思っていた。
母を見送ってから3年。
今振り返ると、まったく同じ態度だったなと、我ながら呆れるほどだ。
親というのは、最も近いご先祖=直近の神だから。
まあ、しょうがない。
ともかく。
現状、わたしは、引用したブログを書いた頃に思い描いたような到達点には、辿り着いていない。
もしかしたら、そんな日は来ないのかもしれない...と、思ってもいる。
だから無駄とか無理とか言いたいのではなく。
辿り着けないほど遠い到達点を思い描けてしまうということに、なぜか
「なんか、わたしらしいな」
と、感じてしまう。
辿り着けないかもな、って思いながら、着こうとすることはやめない。
わたしは、やること全てが、どこかに相反する要素を抱えている。
何かを成しえる人は、できると確信があった...とか、できないと思ったことがない...とか、語っている。
すげえな
と、思ってしまう。
きっと、わたしにとって垂直に10kmに思えることが、彼らにとっては水平に10kmでしかない...んだろうな。
そんなことを思っていても、別に気力が落ちているとか盛り下がっているとか、ヤル気失ったとか、なんかそういうネガティブなことではなくて。
こういうのが、通常。
わたしの手がやる「無いものさえも在るようにする」行為は、三次元に見えない存在を顕現させること。
土が足りないから、明日、仕入れてこなくては。
急に勾玉ムーブが来てしまって、この手は何個でも作るぞという体勢になっている。
そこに出現する「在るようにされた無いもの」は、何なんだろうか。
頭のわたしには、皆目わからない。
まあ、それも通常だから、それでいい。
わたしは、常に、願う。
あなたに幸アレ