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無いものさえ在るようにする

空(そら)
という名称を空に与えた人は、そこにどんな思いをこめたのか。

地表または水面から1ミリでも上は、もはや地面でも水面でもない。
そこは、空(くう)に気が満ちる「何も無いように見える」場所。

個体も液体も、そこを突き抜け、次の「個体」または「液体」に出会って、止まる。
受け止めた先が、液体…川や海なら、その粒子の密度分の抵抗を受けながら、更に突き抜け…最終的には、「底」と呼ばれる個体で止まる。
液体同士が出会ったなら、混ざり合う。

人は、遥か高い場所を見上げて「そら」と呼ぶ。
しかし、「そら」というものは本当は存在しない。
みんなで、なんとなくこのへん?というものを、それぞれの感覚で「空だ」と、呼んでいる。

実際には。
地表あるいは水面の境界から、次の個体または液体がある場所…一番近いのは、多分、月…そこまでの全部が、


だ。

月にぶつからなければ、その次は何だろう。


そうか、あの時、こういう風に話せればよかったのだな…
と思うことが、いろいろある。

去年の私も今の私も、根底は変わってない。
価値観には変化はある。
世界観は、変化ではなく拡大した。

「なりたい自分」とか「欲しい未来」とかがなくなった。
到達したいポイントは、これまでになく、明確になった。

「なりたい自分」≠「到達ポイントに立った自分」

だとハッキリした。
その区別も、今までは、曖昧だった。
その曖昧さが、ブレを生む。

「到達したいポイントに立つことができた時」

今は、そこに立ったことがない。
だから、今の私には、その私は、想像できない。

想像できるとしたら、「今の枠内」で組み立てている舞台装置でしかない。
つまり、そんなものは、まがい物だということだ。

「なりたい自分」を明確に想像しなさい…というメソッドが上手く機能しない理由は、そこらヘンにあるのかも。

だって。
今の自分がそこまで微細に想像できる枠の中で、納まってイイのか…ってことですから。


「大気圏」には、その中に更に細かい定義があるのだ。
地表0km~11kmまでは、対流圏
地表11km~50kmまでは、成層圏 ←この中にオゾン層がある
地表50km~80kmまでは、中間圏
地表80km~800kmまでは、熱圏
ここまでが、「大気圏」
その外は、「外気圏」

この境界線を越えるのがいかに困難か、というのは、衛星打ち上げ~帰還の困難さをちょっと考えただけでもわかる。

でも、飛び出すことさえできれば、外気圏に出ることさえできれば。
最早、推進力そのものが必要なくなる。


横に11km…っていうと、そう大した距離じゃないのだが。
これが、タテになると、とたんにとんでもないことになる。
地面から11km上は、もう、成層圏。
道を11km歩くのは、できるけど。
11km上がることは、生身のままの人間には、不可能。

富士山だって、たかが3776m…4kmに満たないのだ。

しかし。
地表からほんの1、2キロ上がると、ただそれだけでいろんなことが起こる。


気圧

「気」の「圧」だ。

それが、高いところへ上がる時にどれほどの負荷になるか。

高いところへ行けば行くほど、気圧は下がる。
水の沸点は低くなり、お米には芯が残るようになる。
密封してきた袋は潰れる。
酸素は薄くなる。
体液の循環に変化が現れる。
人は、それに慣れるために努力を必要とする。
時には、身体がどうしても慣れてくれず、諦めるしかない…ということもある。


横向きに軸があるとしたら。
その軸を垂直にしてみたら、どうなるだろうか。

あるいは、その逆は。

革命的に意識が変わるかも知れない。


しかし、自分の核になるところに、「座標0」が原点として在れば。
軸の向きがどのように傾こうと、自分を見失うことは無い。
…ような気がする。


流れるまま、ただ淡々と過ごす。
隠居願望がたんまりある私には、それはとても、魅力的。

が。
何の因果か。

…いや、もともと、「あなたには正しい野心がある」と何度も言われてきた私だし。

因果もへったくれも、そもそも根本的に、到達したい成し得たいことを持って、ここに居るのだろうな…と思う。


それは、過去(生)の精算であるとか、未来へのカルマの解消とか。
そんな話ではなく。

マイナスや空洞を埋めるためでもなく。


ただの、人としての…職人としての在り方なんではないかと。
思うのであった。




「無いものさえも在るようにする」

空という存在しないものを、共通の名称として浸透させることにより、在るものとする。
(念のため。「そら」が存在しない言ってるのであって、「くう」が無いと言ってるのではない。ややこしいな)

人が、「在る」という意識になれば、それは、「在る」のだ。

人が在る限り。
あらゆるものは、在ることができる。

だから、神は人に、祈り願う…のだね。

アメブロ“手が知っている異界の彩”より
無いものさえ在るようにする
投稿日/2012-01-25 14:12:37




「無いものさえ在るようにする」という行為は、人にしかできない。

神にはできないことだから、必要な行為を人に乞う。


なのに、人間は、なんだかんだと神に願ったり頼ったりするばかり。
小銭を投げて、大望を願う。

思い描いた都合の良いカタチ以外は、叶えられたとみなさない。


もちろん、人間には三次元的に必要とするものがたくさんある。
お金にはじまり、食事に衣類、休む場所、そして時間。
神にはどれも不要なもので、人にとっては必須/得たいもの。
あっちへ行けこっちへ行け、あれをやれこれをやれ...と指令は来るが、物理的に必要なそうしたものは「自分で得よ、方法は教えた」なんて平気で言ってくる。

違うってば、そうじゃねえよ。
あんたらの言う「教えた」をやってたら、何十年かかるんだっていう話で。
でも旅費はすぐにいるんだよ。
時間も捻出しなきゃらないんだよ。

そのことで、徹底抗戦の構えを長く続けた。
言うこと聞くもんか、と思って、飛んでくる指令も無視した。
すると、夫の夢に指令が飛ぶ。
動かざるを得ないようにしてくるのが、またまた腹立たしい。


でも。
それでも。

「無いものさえも在るようにする」
ことは、人にしかできない。

知ってるから、どうしたって、イヤイヤだろうがグズグズだろうが、結局は動くことになる。


この関係性。
これは、母親との関係性に、酷似している。

母が存命中の時から、薄々そう思っていた。

母を見送ってから3年。
今振り返ると、まったく同じ態度だったなと、我ながら呆れるほどだ。

親というのは、最も近いご先祖=直近の神だから。
まあ、しょうがない。


ともかく。
現状、わたしは、引用したブログを書いた頃に思い描いたような到達点には、辿り着いていない。
もしかしたら、そんな日は来ないのかもしれない...と、思ってもいる。

だから無駄とか無理とか言いたいのではなく。
辿り着けないほど遠い到達点を思い描けてしまうということに、なぜか
「なんか、わたしらしいな」
と、感じてしまう。

辿り着けないかもな、って思いながら、着こうとすることはやめない。
わたしは、やること全てが、どこかに相反する要素を抱えている。


何かを成しえる人は、できると確信があった...とか、できないと思ったことがない...とか、語っている。

すげえな

と、思ってしまう。

きっと、わたしにとって垂直に10kmに思えることが、彼らにとっては水平に10kmでしかない...んだろうな。

そんなことを思っていても、別に気力が落ちているとか盛り下がっているとか、ヤル気失ったとか、なんかそういうネガティブなことではなくて。
こういうのが、通常。


わたしの手がやる「無いものさえも在るようにする」行為は、三次元に見えない存在を顕現させること。

土が足りないから、明日、仕入れてこなくては。
急に勾玉ムーブが来てしまって、この手は何個でも作るぞという体勢になっている。

そこに出現する「在るようにされた無いもの」は、何なんだろうか。

頭のわたしには、皆目わからない。
まあ、それも通常だから、それでいい。


わたしは、常に、願う。

あなたに幸アレ


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緋呂@ひとりからはじめる天下泰平
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