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創作道に重なるミッション/世界平和と天下泰平
天使が介入するようになって以来、たくさんブログを書いてきました。
あの時書いておいてよかったなあ…と、実感します。
交流する人の関係性が変わったり、自分自身の考え方が変わったり...で、削除した記事もあるのですが。
そういうものも、一部は下書きに戻してひっこめておくというカタチにして、残してあるものがありました。
その時の自分の判断を褒めたいです。
人は忘れる生き物。
忘れるから、生きていける。
とはいえ。
忘れ過ぎなのでは...って思うことも、しばしば起きます。
少なくとも、わたしは、サクッとすっからかんに忘却しきっていることが、いろいろあるので。
別件で過去記事を探している時、下に引用する記事が出てきました。
こんなこと、当時ちゃんと言語にしているじゃないか...って、思いました。
おいおい…過去の自分に叱られるぞ、これ...。
以下は、友人にメールで送ろうとしてたのを、思い直してこちらにUPすることにした文章です。
一人にだけじゃなくて、ここに書いておいた方がいいかも知れない、と思ったのです。
満月が見てたしねえ。
この数日間に起こった、いろんなことやら。
この4月に起こったいろんなことやら。
今も進行中の、いろんなことやら。
そういうことを、全部、通して。
ここらで、一本通しておかにゃ…と、思ったことです。
今日。
会社から徒歩で名古屋駅まで行く道々、自分のミッションを、決めました。
ある意味「非常に虫のいい夢」です。
でも、多分、これから先には、それくらいのことを「思いこみ」でも何でも、してないと、できないと感じて。
お題目でも、なんでもいいから。
それを常に掲げておくことに意味がある…と、思いました。
なぜ、神仏天使を描くのか。
その理由を、今までは、非常に消極的なものとして、人に話してました。
なんでやってるのか、わからない…だし。
好きに描いてるのともちょっと違うから、抵抗感もあるし…だし。
なんかいいように使われてる感もあるし…だし。
確かに、好きでやってるとは言い難いところはあるけど。
でも。
人にも共有してもらうためには、それじゃダメだからね。
何で神仏天使なのか…と言えば。
やはり、それは、最終的には、世界平和のためですから。
と。
ここまで、書いてあった部分です。
世界平和。
私は、ほとんど無宗教に近いです。
信仰は、持ってます。
それは、アニミズムみたいなもので…とても原始的根源的なものです。
今は日本の神様を多く描いてますが、それを信仰してるわけではありません。
(そもそも神道は宗教じゃないけどね)
他の宗教の神を描くことがあるけど、それも、信仰ではないです。
そんな自分が神仏天使を描く…と。
おかしな話なんですけど。
信仰してないからこそできること…というのも、あって。
どの神が一番だ、とか、絶対だ、という観念は全くないので。
けれども、神や仏や天使というのは、人の内側に一定の「想い」を想起させる対象である、というのは間違いない。
マイナス感情が喚起される人も中にはいるでしょう。
また、それらを悪用する人もいる中ですから、私が描くものをきっかけに、なんか間違った道に入り込む人っていうのも、もしかしたら、いるのかも知れない。
その可能性はあります。
現実に、神はナンだ…という議論になれば、私が描くような記号的な、キャラクター化した姿は、まやかしである…とは、確かに言える。
私自身、そう思う。
第一、私のしていることって、いわゆる「二次創作」みたいなものですからね。
そういうものを、すべて含んだ上で。
それでも、描くことを、選ぶわけです。
そんなにジマンできるほど腕があるわけでもなし。
なのに、強気に、出るわけです。
それはやっぱり…。
まず、自分の国に坐す神の「存在」を、知ってほしい。
去年は古事記編纂1300年記念だったし、今年は伊勢と出雲で遷宮がある…ということで、日本の神様たちは今までになく、表に出られる機会が多くあります。
再認識されはじめた。
もっと、知っててほしいです。
まず、知ることから。
格調高すぎる古い様式の絵よりも、キャラクター化された絵は、とっつきやすいから。
親しんでもらいたい。
(少々腐女子臭を感じるかも知れませんけどwww)
とっかかりができたら、そこから、もっと造詣を深めていく人はそうしてもらえばいいし。
単に、ちょろっと知っただけでも、知らないよりはいいと思う。
他の国の有名な神々とは、日本の神様はかなり様相は違いますけども。
自国の神を知る、というのは、他国との文化のぶつかり合いが起こる時、支えになると私は思うのです。
そうして、他国の神々とも続いたところにみんな、いる…と。
そんな感覚になっていってくれる人が、一人でも出てくれれば。
最終的には、みんなモトは一つの存在なのだ、ということが、だんだんと浸透していくに違いない。
神が上とか、絶対者だとか、支配者だとか、創造主だとか。
人は救済される対象だとか。
原罪とか。
誰が誰を救うの、引き上げるの。
なんか、そんなことは、どうでもいい話やと思うのです。
そうなってほしい。
だったら神なんか意識しない方へ行くべきじゃないのか…と。
うん、それも、あります。
でも、在るものは、在るんだよね。
無いことには、できない。
みんな、在るのだから。
ただ、垣根というか…意識差というか…
なんか、そんな区分けがなくなっていってほしい。
長い時間がかかるだろうけど。
千里の道も一歩から。
間違うこともあるだろうし。
これからも、まだまだ、種としての大きな辛いことに直面したりは、すると思う。
でも、やっぱりそういう時に支えとなるのは、何を信じるか、どう納得するか…ということなんだと、思う。
そこに至る、そのための、わかりやすい旗を立てる。
そういうものを、描いていく。
それを、ミッションとしていきます。
2013-04-27 00:30:05「ミッション」一部引用
https://ameblo.jp/kawazo1151/entry-11518902729.html
投稿日が2013年4月ってことは、まだ、龍が登場する前ですね。
2013年6月の段階で、とある先輩からの質問に
「龍なんか描きませんよ。関係ないし」
みたいなお返事をしています。
理由があって、そのことはハッキリ記憶しています。
描いたことが全くなかったわけではありませんが、あくまでイレギュラーと思ってました。
今になっては、どの口がそれ言った?って話ですけども。
ま、そこは、来ちゃったから仕方ない案件です。
龍は、神仏両界にわたってのシンボル的存在なので。
当時だって、よくよく考えていたら、いずれは来ることはわかったと思うんですが。
薄々はわかってたけど「描くの大変そうだし」関係ないことにしておきたかった...みたいなのは、あったかも。
(正直、今は、龍の方が楽っていうかなんていうか...。また別記事に書きます)
上に引用した記事には、「世界平和」と書いています。
わたしの好みから言うと、五感的に、「世界平和」よりも「天下泰平」が好きです。
単なる印象ではありますが。
「平和」という言葉は、いささか不穏な雰囲気を感じ取ることが度々あり。
そこに忍び込んでくる、圧力みたいな不穏さです。
使われ方からくる印象...かもしれない。
ゆえに「泰平」の方が、好みです。
波乱はある。
苦楽もある。
快も不快もある。
それらは常に、行ったり来たり。
どちらか一方だけになることは、ない。
そうであっても、それらを呑み込んでいくことでしか、泰平は訪れない。
世界平和と天下泰平は、方向性は同じです。
だから、適時使い分けます。
その時その場の感触で。
が、わたし自身が常に、自分の中に掲げているのは「天下泰平」という言葉。
同じことなのに、わざわざ使い分ける意味ある?
って、思われる方もいらっしゃることでしょう。
そういうところが、わたしの「言語化に対するこだわり」が出るところです。
おかげで、言葉のチョイスに困った末に「なんかピッタリくる表現が見つからん!」と言って、書くこと自体を保留してしまうっていう。
少々、困った話にも、なる点です。
だから、あえて、不穏さを内包するように感じる表現であっても、使うようにしています。
少しくらいのズレは、それこそ「呑み込む」ことも大事だから。
こっちが正解、こっちが間違い
のような短絡を生まないためにも、適時、表現を使い分けて書くって大事かなというのも、思っています。
日本の神様仏様は、たいへん、大らかです。
少々のことは気にされず、受け入れ受け流してもらえます。
そして、同時に、「日本刀の刃の上を歩く」みたいな、
非常に際どくて厳しい、鋭くて狭い領域を外れずにいる、
という精度も、求められます。
なので、フィットする表現は探し続ける必要がある。
けれども、そこに固執するあまり言挙げしないまま過ぎることも、NGなのですよ。
ああ、めんどくさいったらありゃしない。
ともあれ。
そういうのが、わたしの創作道で、道に重なるミッション。
あなたに、幸アレ!
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