才能を見抜く才だけを与えられ、しかし私にはそれしか与えられなかった/サリエリ
映画「アマデウス」/サリエリの独白
往々にして。
こうありたい、こうなりたい...と願う思いは「自分自身の分断」を生むものでもある。
...と、思う。
その願いが強ければ強いほど。
「なりたい」に届いていない、今の自分ってものが、感じられる。
なりたいのに、なれない。
とても、届かない。
それに囚われすぎず、
「今、できることをやろう」
「その先に、叶えられる時が来る」
と信じて愚直に続けるしかないのだけれど。
なかなか、そうはできないもの。
けれど、世の中には、軽々と「なりたい」を実現していく人がいて。
「なりたい」と願い、なろうとしている自分には、なりたいものになれている人を敏感に嗅ぎ分けることができる。
映画「アマデウス」の中で、サリエリが落ちた闇。
「神に生涯を捧げた自分に与えられた才は、神が真に愛した天才を見抜く才だけだった」
映画が封切られた当時、1984年。
わたしはまだ成人を迎えていない。
若かったが、自分に才能があるとは、もはや、感じていなかった。
というか。
遡れば幼稚園の頃から、常にわたしの身近には「とても太刀打ちできない」人がいたから。
それを嗅ぎ分けることはできたから。
早々に、「自分の才を見限った」という枠をつくって生きてきた。
まだ感性が柔らかい時代に観た「アマデウス」
映画館で観る他は、レンタルビデオに頼るしかなかった当時。
食費を削って、映画館へ5回以上行った。
レンタルも数えると、20回以上は観たと思う。
サリエリにも、モーツァルトにも、どちらにも共感できた。
毎回違った感想を持ったように思う。
しかし...だ。
あれから40年経った今、念うことは。
人の才を見抜く才「しか、ない」
と思ってしまうのか。
人の才を見抜く才「が、ある」
と思えるか。
結局は、自分をどう活かすか...っていう話で。
そこにある葛藤を、どうやって、「自分の未来」へつなげる力へ変えるのか...っていうことじゃないかな。
人の才を見抜く才
これは、素晴らしいものだ。
今、わたしは生きている。
もしかしたら今日死ぬかもしれないけど、ひとまず、今は生きているし。
状況的に、この人生はまだもう少しは続くと思われる。
わたしは、映画のサリエリ氏のように、自己憐憫で終える一生を過ごすつもりはない。
幼少期から「自分を見限った」って枠をつくってきてしまったのだが。
壊そうとしている。
アラカンの、今ここ。
才能を見抜く才だけを与えられ、しかし私にはそれしか与えられなかった
素晴らしい才ではないか。
人の、世界のいいところを、真っ先に見つけて愛でることができる才だ。
「なぜ自分ではないのか」
ではなく
「自分だからわかる」
のだから。
残念ながら、今はわたしは、「見抜く才」もたいしたことなかったって知っている。
自ら成す才も中途半端なら、見抜く才も中途半端だった。
いやほんと。
今のわたしの置かれた状況が、それを証明している。
その事実を受け止めて。
そのうえで。
じゃあ、どうする?
なにをする?
どう生きていく?
大事なのは、過去ではなく今と未来だ。
何か成したいと願う人には、「見抜く才」も、セットで備わっている。
「見抜く才しか」ではなくて
「見抜く才も」なのだから。
その才は、よき未来よき世界をつくるための、素晴らしき力となる。
人を引き上げることができるのだから。
勇気を与えられるのだから。
肯定することができる力なのだから。
誰かに嫉妬することができる自分を
人の才能をうらやむことができる自分を
まずは、それを受け止めてみよう。
葛藤とは、見えているからこそ生まれる。
感知できるからこそ、生まれる。
そこには、自分の才が、ちゃんとある。
一粒あれば、増やしていける。
自分を活かし、人を生かす。
その循環が、世を泰平にする。
あなたに幸アレ!
最後に
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