信仰とか宗派とかそんなことではなく「在り方」や「領域」のハナシなのだよ神仏は
仏の顔も三度
という、ことわざがある。
仏は、それでも、微笑みをたたえるだろう。
柔和で
穏やかで
慈悲深き
微笑
かつて、わたしは、仏様が苦手だった。
お寺も、苦手だった。
神様は「よく遊んでくれる、隣のおじちゃん」みたいな妙にフレンドリーな感覚になることが多くて
(もちろん、畏怖は忘れていない...忘れられるわけない)
神社も、いつでもウエルカム...的な感覚になることが多くて。
(そうは言っても、大人になるまで神社とは怖いところだと思っていたのだが)
一方で、お寺となると。
急に、職員室に呼び出しくらった悪童になったような気になる。
シャキッと正座して神妙にしていなくてはならない...みたいな、そんな感覚。
だから、お寺は苦手だった。
さすがに最近ではそれが緩んできて、リラックスもできるようにはなってきたけれど。
あ。
「苦手」だったのであって。
「嫌い」だったわけではありません。
そして。
仏像が苦手だった...のでは、ありません。
仏像は好き。
それこそ、劣等生だった美術科高校生の頃から、仏像は好き。
まあ、見る目が、敬虔さや信心からはほど遠い、煩悩しかないものだったわけだけど。
だって、あの緩やかなS字を描いた腰のラインとか…
ゴホゴホ…ああ、咳が出ちゃうよ
八百万の神は、表裏も陰陽も合理非合理も、一柱の裡に存在する。
同じ神が、同じ神のままで、災厄をもたらしたり恵みを与えたり。
そういうところが、「生きている」と、感じるゆえん。
仏様は...というと。
慈悲深き微笑みの如来は、憤怒相へと変化される。
同じ「如来」のままではなく。
様式や役割がガチガチに決められてきた歴史があるから、そうなっているのだけれど。
その「年月」が生みだしてきた「在り方」に、長い間、馴染めなかったのは確か。
手から出てくる「顕現した結果」であるところの作品が、平面の絵画から陶器という立体造形へ移行していく中で、不思議と、その馴染まない感じは薄らいだ。
像をつくるほうが、わたしには、合っていた。
仏様に関しては、顕著に、それが出た。
神仏と一括りにはするものの。
神と仏は、明確に、「存在領域」が違う。
わたしには、そう感じられる。
昔も、今も。
それでも、今。
この手は、仏の姿を、造形していく過程にある。
薬師如来像は、できあがりつつある。
...というか。
たぶん、この薬師如来は、永久に「完成」はしない。
一体ごとに現れる差異が、ある。
同じ型を土台にしていても、顕現した像の全てが、異なるものとなる。
そういう意味で、完成しない。
まだ公開できないけど。
着々と、進んでいるところです。
最後に、前に遊びで作った画像を貼ってみる。
Web上のアプリで作った画像。
我ながら、自分の感じる「神」と「仏」の領域や在り方の違いをうまいこと出せてると思う。