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母の夢を見る
数ヶ月に一度、母が私の夢に出演する。母は72歳でこの世を去っている。
私の夢に出てくる母はいつも、何がちょっと困っているような、切羽詰まっているような様子である。
夢の中では母の抱えている問題は、いつも一向に解決しない。
そしてそれは私に何かしらエモーショナルなインパクトを与えるのだ。
私の母は昭和7年生まれ。
なかなか強烈なキャラクターの人だった。
私は母が37歳の時に産んだ子。それはそれは大事に育てられ、過保護で過干渉な母娘の関係だった。
母はいつも自分の感情をストレートに口に出す。
しかし、口に出して、あれこれ言う割には実行力はなく、目の前の問題の合理的解決は苦手というタイプ。
父は仕事で子供たちとはすれ違いだったから子供にとっては母イコール我が家という、昭和の典型的核家族だった。
そんな我が家では、私が小学校に上がる頃、犬や猫を飼い出した。
母の有り余る愛情は犬や猫にもバンバンにそそがれ、近所に捨て犬、捨て猫をがいると、
母はほって置けなくて、
最盛期には雑種ばかり犬3頭、ネコ2匹を飼っていた。
まあそれだけなら犬猫の多い一家で済んだのだが、
なぜか家族の中で私だけが、小4で、
ネコ、犬の毛が原因の気管支ぜんそくとアトピー性皮膚炎になってしまった。
季節の変わり目に繰り返し発作が出る。母に抱えられるようにして車に乗せられ、病院に駆けこみ、気管支拡張剤を点滴してもらう。
今のように低容量ステロイド吸入など無かったから、ひたすら対症療法を繰り返した。
成長するとともに私の喘息発作は頻度強度を増し、高校生の時には大発作を起こして計3回は入院した。
当然、医師には犬猫を処分しろと言われる。
母と私は意を決して、犬だけは保護団体に引き取ってもらった。
しかし私が小さい時に拾ってきたトラコという雌猫は、母にとっても私にとっても何物にも代えがたい存在で、どうしても手放すことができなかった。
そんな実家を
私は大学進学とともに離れて一人暮らしすることになった。
実家を離れた途端、犬猫の暴露がなくなり、あれだけ悩まされた私の喘息とアトピーは跡形もなく消え失せた。
私は久しぶりに手に入れた元気な身体で大学生活を謳歌した。
ところが、盆正月の休みに帰省すると、テキメンに私の喘息発作がぶり返す。
年末二十八日に実家に帰ってすぐに、
発作が出て、病院に駆け込み、
30日に下宿先に舞い戻り、
一人で年越しをしたこともあった。
一方、最愛の猫トラコは、私の大学進学の数年後に老衰でヨタヨタとなったまま、実家から姿を消した。
当時はネコは放し飼いだったため、こんなこともよくあった。
最愛の猫を失ったことは私にも母にも大きな悲しみをもたらしたが、
これを機に母には、もう金輪際、犬猫を飼わないと約束してもらった。
ところが、である。トラコの死から1年も経たないうちに、母は保護犬を貰い受けて家で飼い出したのである。当時の私はなんでやねん、と叫び出したい気分だった。
その犬はかなりの暴れん坊で、母や父に噛みついたりもした。無駄吠えも多くて近所迷惑なので、我が家の一室をその犬専用にしたら、部屋の壁紙や柱はぼろぼろになった。
その猛犬はどうにかこうにか、うちで生きながらえ、母が乳がんで亡くなる直前に天寿をまっとうした。
その間、私は相変わらず実家に帰るとアレルギーが出るので長居はできず、そのうちに東京で結婚し子供も産まれたので、ますます忙しく、帰省する頻度は極端に少なくなった。
母の立場になってみると、ほんのたまにしか帰省しない娘の喘息のために目の前の保護犬を処分なんてとてもできない。
娘が帰ってしまえば、犬がいなければ愛情のやり場がない。
そうでもしなければ、娘や息子の出ていった後のエンプティネストをやり過ごせなかったのではないか。
というわけで、生前、母は私に会うと、いつも、すまんな、すまんな、と言っていた。
だから、今でも夢の中で、切羽詰まったみたいな感じなのかな。
いい加減、もう少し晴れやかな顔をしてくれてもいいんだけどな、お母さん。