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長年の謎!92歳 父 財産の全貌

これまでのあらまし

 一人暮らし続行不能となった92歳の父を大阪から東京に引き取ることになった私。父が80代後半に私たち子どもには内緒で、謎の不動産投資を複数件おこなって家賃収入を得ていたことが判明。それを手助けした不動産屋さんの存在を知り不信感を抱いた。
 *事実と違うところもあります。あまり楽しい話でありませんが、おおよその記憶保持のために文章化しています。

四、ウチは貧乏?

 私の子供時代の母の口癖は、
「ウチ(我が家)は貧乏やさかいな。贅沢したらあかん。始末(節約)せなあかん。」
で、あった。
 
 母はなかなかの節約家で、家計簿もきちんとつけていて、食材なども最小限しか買わない。例えば、我が家の味噌汁やうどんは青ネギが入ってなかった。母曰く「青ネギはすぐいたむ(悪くなる)さかいな。その割に高い。もったいないから要らん」。
 と、いうような調子だった。

 私は大阪生まれ。三歳下の弟が一人いる。父、母と四人家族。一家は、私が6歳の時に、奈良の一戸建てを購入。私は子供時代を奈良で過ごした。
 
 両親は子供二人をとても大切に育ててくれたし、塾や習い事もさせてもらい、大学に進学すると一人暮らしの学費プラス仕送りも十分に与えてくれた。特に贅沢することもないけれど、普通の経済感覚の家庭だったと思う。

 父の商売も順調で、当時はバブル最盛期でもあり、買った株が数年で大化けした、投機目的で買った住宅地の地価が値上がりした、なんて話も父からよく聞かされていた。
 父は母のことも家庭もとても大事にしていたので、いわゆる「家にお金をいれない」なんてことは無かったと思う。

 そうした状況と、母のぼやき「ウチは貧乏」との間の大きな違和感が常に私の中にあった。
 
我が家はお金があるのか、たぶん人並みにはあるけれど、母のあのドケチっぷりはなんやねん。

 父には未婚の姉が二人いた。私にとっては二人の叔母さんである。
この叔母二人が大阪で家業の店舗の二階に住んで、兄弟三人で商売を回していた。

 実質、商売の舵は、上の叔母が握っていた。叔母は、私のことも実の子のように、溺愛してくれた。なので、今でも私の実家は二つあるような感覚である。叔母とその店舗、そして奈良の家。

 
もしかしたら、母は、叔母二人に遠慮があったのではとも思う。
 
旅行や外食などもっと贅沢したいけどできないのかもしれない。
そうだとしても、どこまでが母と父と私たちの四人家族のものでどこまでが叔母二人のものなのか到底線引きできないだろうと、子供ごころに感じていた。
 
 さて、昔の話はこれくらいにして。

 父を大阪から東京に引き取って、リハビリ病院への入院、老人ホームの入居手続きと並行して行ったことは、
父の財産の状況把握であった。
 シンプルに銀行口座に現金、株と持ち家というような編成であったら、相続までは何も調べなかったと思うが、
 前回書いたように、父が内緒で買った貸家が複数件あって、そこには入居者さんがお住まいだったり、事業を営んでいらっしゃるのである。
 放置して入居者さんになにかまずいことになってはいけないと思った。

 結論から言うと、父の財産は大金持ちとは言わないけれど、そこそこの分量だった。しかもいろんなカタチでバラバラに蓄えられているのだ。
 ゆうちょ銀行だけで父名義の複数の口座が存在し、メガバンクから、地元信金まで、父名義の口座があり、少額なものもあるがそれぞれに預金があった。
 それに不動産投資の際に設立した法人の銀行口座と貸金庫も。

 賃貸物件にしている家は奈良の古家も含めて5件。
大阪のかつてうちの店舗だったものも賃貸物件となっている。
数件の小店舗が入る小さな貸店舗が1件。
 ほかにも株式、生命保険、などなど。

 とにかく抱え込めないほどの分量の預金通帳と大量の銀行印と賃貸契約書と管理契約書、そのほか分類不能の書類が手元にあった。
電話で父に確認しながら、銀行のサイトにアクセスしようとするのだが、父の記憶力があやしく、ついでに聴力もあやしく、実態把握は難航を極めた。

 そこで、子供のころの母の呪文がよみがえった。

「ウチは貧乏」

 何が貧乏やねん?
しかもこれは、父一人の財産と違う!
母が家庭を守り、
父の姉二人の労働力の上に作った財産やないか。
それをなんで誰にも相談せんと、不動産投資になんか使ったんや。

 先の見えない整理業務をしているうちに、
私の中で、
父の不動産投資への疑念といら立ちは、どんどん膨らんでいった。

つづく。
 

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