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キューバの英雄~「チェ・ゲバラ」 後編

あらすじ----
ゲバラは旅を通じ、貧富の差をどうにかできないか考えることになります。
ボリビアや、グアテマラでの改革を目の当たりにし、
旅を続ける、ゲバラ。そこでゲバラの人生を大きく動かすカストロと出会いました。
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ゲバラは軍医として、メキシコからキューバへ
ヨットには、82人の兵士が乗っていました。

目指す場所は、キューバの首都ハバナから遠く離れた
「シエラ・マエストラ」という地へ向かうことに。

ですが、キューバ政府が待ち伏せしていたのです。
ゲバラ達、革命軍は荷物を少量にし、逃げるしかありませんでした。

「目の前には医薬品が詰まった「背のう」と、一箱の「弾薬」が転がっていた。両方背負うには重すぎる。
私は医者なのか、革命の戦士なのか。私は弾薬を拾い上げ、サトウキビ畑へと走った。」

ゲバラは医師ではなく、「戦士」の道を選んだのだった。
合流できたのは12人のみ。だが、カストロは「大丈夫、我々は勝てる。」と言ったそうです。

ハバナからの支援軍がシエラ・マエストラから突入してくるので、
山中に身を潜めていた革命軍。
カストロはゲバラに事前に言っていたことがありました。
「戦いで負傷した兵士は、たとえ敵であっても、傷の手当てをして釈放せよ。」

ゲバラはこれを反対。
「限られた医薬品を政府軍のために使えば、革命軍の不利になる。」
しかし、カストロの言ったことは後に影響しました。

命を救おうとする姿勢に住民からの支援を得ることができたのです。
当時のことを証言してくれる人の話では
「カストロとゲバラはとにかく人の役に立つこと、人として正しいことをやりながら戦っていました。「彼らなら信じられる。」そう思いました。直接戦いに参加したり、参加できなくても、支援する人が出てきたのです。」

そして、ゲバラは診療所を設営。無料で治療などを行ったそうです。
ゲバラは困っている人を見捨てない。そう、ゲバラに対してカストロは強い印象を受けたようです。

これにより、当初12人しかいなかった兵士が、半年後には支援者も増え400人までに増えたようです。
なんてアツい展開でしょうか。こういうムネアツな展開は好きです。

そして、ハバナ政府軍へ対抗するために、シエラ・マエストラから300人の革命軍兵士が間にある「サンタクララ」で戦争を行うことに。
政府軍は20倍にもなる6000人の兵士がいたようです。

ゲバラは、政府軍の装甲列車を転覆させ、政府軍を困惑させることで
サンタクララを掌握することに成功しました。

すると、革命軍の勢いに圧倒され、キューバ大統領が国外へ逃亡することになりました。
民間の大観衆に受けながら、首都ハバナへ到着。
その当時、カストロは32歳、ゲバラは30歳でした。

これが、キューバ解放、キューバ革命です。
戦士として戦い。医者としても戦ったゲバラはみんなに称えられました。
この偉業が今でも人気が根強い理由だったんですね。

最初は戦士として戦うことを選びましたが、
途中から医師としても貧しい人や負傷した人を助けることもしていたゲバラ。
すごく難しいことをやってのけているんだろうなと思います。

ゲバラはアルゼンチンに戻らず、カストロを支援することを決意しました。
キューバ市民権を得ることもできました。国立銀行総裁、工業大臣にも就任しました。
キューバの産業、経済に改革を与えようと奮起しました。
農業改革もかつてグアテマラでやったように、土地を国有化し、農民に分配しました。

工業の発展のためにも、各地を訪問しました。
休日もいろんなところへボランティアをしていました。

ゲバラは目指すべき生き方をこう表現。
「新しい人間」
他人のために進んで働く生き方。

これは、マルクス思想による生き方を表現していたのでした。
だから、ボランティアもしてキューバの発展を支えていました。

ですが、キューバ国に幸せが続かず、世界的に起きていたのが「東西冷戦」。
キューバとしては、アメリカが近くにあるのでソビエトに接近し、
アメリカに威嚇できるよう、核ミサイルを配備するようになります。
核戦争寸前でした。

ゲバラは様々な国際会議に出席しました。
国際会議でもアメリカ含め、アジアやアフリカに貧困を押し付けている経済国を批判しました。

「欧米列強諸国の高い生活水準は、我々 途上国の貧困の上で成り立っているのだ。
もし途上国が惨めになることによって、社会主義国家が高い生活水準を保っているとすれば、それは帝国主義的搾取の共犯者と見られても仕方がない」
とスピーチし賞賛されたのです。

キューバを戻りましたが、すぐにゲバラは姿を消しました。
カストロには別れの手紙を書きました。

「今、この瞬間、僕はたくさんの場面を思い出している。

初めて君と出会った時のこと。
あの日「死んだ時には誰に知らせればいいか」と
君は聞いたね。
その時の僕は、それが真の革命であれば、人は勝利するか死ぬかの
二つに一つしかないことを学んだのだ
今、世界の他の国が
僕のささやかな努力を求めている。
君はキューバの責任者だからできないが、
僕にはそれができる。
別れの時がきてしまったのだ。
永遠の勝利の日まで 勝利か死か
ありったけの革命への情熱を抱きしめて 「チェ」」

・ゲバラ36歳
コンゴ共和国は最近独立したばかりの国。
ベルギー、ソビエト、アメリカで対立し、戦争が泥沼化していた。

ゲリラの革命軍を指導し、ここでも自分が兵士として出ていました。
だが、ゲバラの日記にも書かれているほど、コンゴ革命軍を批判していました。
「寄生虫のようだ。」と自分の意見とまったく正反対であり、食料供給などを強要する
革命軍にうんざりし、半年でコンゴから亡命することになりました。

その後もボリビアに行き、軍事独裁政権へ戦いを挑む。
だが、アメリカの支援もあり苦戦し、民衆の支援を受けることもできなかった。

・1967年、39歳 チェ・ゲバラ 銃殺刑により死去。
政府軍により捕獲されたゲバラは、銃殺刑により殺されてしまい、
見せしめとして民衆に公開しました。

自分が死の間際に、銃を向ける若い兵士にこう叫びました。
「撃て、恐れるな!俺はただの男にすぎない」
そう言葉を残しました。

1997年にゲバラの死体を回収され、キューバの地へ帰還しました。
そこでカストロはこう言いました。
「チェの思想が実現していたら、世界は違ったものになっていただろう。
戦士は死ぬ。だが、思想は死なない。」

ゲバラの死から50年、銅像も建てられていますが、
賞賛もされましたが、批判として銅像撤去の署名運動もされています。
チェ・ゲバラの思想・行動は、全ての人に受け入れられたわけではなく、
反対の意見もあることも忘れてはいけませんが、

僕は、行動しない人とは違って、自分の思ったことを行動し、
人の心を突き動かしたチェ・ゲバラという偉人を「世界を救うために戦った英雄」として
称したいと思います。

ではまた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。少しでもたくさんの方に読んでもらいたいのでシェアしていただけると嬉しいです。

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