芸術制作を通しての思考、そして救済――クザーヌス「神を観ることについて」
大昔、大学で書いた文章を必要あって漁っていたら出てきたので、アップしておきます。
書き方が明らかにあらっぽいし、「新たな距離――大江健三郎における制作と思考」のなかでより洗練して展開している内容でもあるが、何かしらの参考になれば。
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芸術制作を通しての思考、そして救済――クザーヌス「神を観ることについて」
「神を観ることについて」というテクストを読むなかで最も関心を持ったのは、クザーヌスの思想における「私」の位置だった。
神という存在を規定するとき、それを規定しようとする私の一人称的な能動性をどう処理するかが重要な課題として立ち上がる。神の絶対的能動性にばかり注目していると、私の自由は完全に損なわれ、ただ決定論的な因果に身を晒すばかりとなってしまう。かといって、私の能動性を死守しようとすれば、すぐに独我論的な境地に至りそうになる。
必要なのは、私がいずれかに向かって進もうとするその行為の基板となる世界そのものの論理として神を見出し「うる」と考えることだろう。本稿で注目するのもその点である。クザーヌスが「類似」や「自己愛」や「技芸」や「最も聖なる無知」などという概念を用いていることなどを基点として、クザーヌスの思考を、一種の芸術論として読むことは可能なのではないか。なぜなら芸術制作においてこそ、生命は自らの一人称的視点と外部環境の生じさせる摩擦のなかで、決定されないどこかへ向かってかろうじての選択を強いられつづけるのだから。それはクザーヌスが「神を観ることについて」というテクストの末尾に記した、他者と共同して行う神の探求の営みそのものではないか。上記の視点から、ひとつの試みとして、以下を記したい。
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出発点となるのは、第7章の25・26節である。
そこでは、「あなたが私に私自身を与えて下さっているということがなければ、どのようにしてあなたがご自身を私に与えて下さるでしょうか」という言葉とともに、神が私を観ることによって神の存在が私に注ぎ込まれ、私が存在するようになる過程が検討されていた。
問題となるのは、私の自由である。神があらゆるすべてを司っているという立場に立てば、世界のあらゆる因果は神が規定しているがゆえに、私はもはや何も行動せずとも神の導きによって神の行いをなぞることになる。私はどれだけ欲望に身を浸して堕落したとしても、神の下で無条件に肯定されることになる。そこでは祈る価値すら見当たらない。こうして「神を観ることについて」というテクストを書いている過程すらも無駄であろう。
しかしクザーヌスは、知の営みを肯定しようとする。神を愛するだけでは足りないのだ。知を働かせなければならない。ここでは知を働かせる主体である「私」の能動性が肯定されている。
神の絶対的能動性と、私の自由の、一見不可能なようにも思える両立を成り立たせる基盤として、あらわれるのは類似である。はたして私と神が似ているとはどういうことなのか。
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25・26節において、私の内奥にもたらされる言葉を参照しておこう。「汝は汝のものとなるべし、そうすれば私さえも汝のものとなる」。ここには、所有のずらしがある。私による私の所有が、私による神の所有へとずらされている。このような論理が成り立つには、私という述語が、神と一致していなければならない。私と神の類似は、そのためにもたらされるのだろうか。
私と神が類似しているならば、私は能動性を持っていなければならない。なぜなら、神と類似している私が能動性を奪われれば、それと類似しているはずの神もまた、能動性を奪われ、神は絶対的存在でなくなるから。
だが、そのような論理をもって確保される能動性は、あまりに消極的すぎるだろう。なにより、私という存在と神との間に結ばれる類似の関係が、恣意的すぎる。私は類似を肯定する論理を持つべきである。
さて、そこで重要と思われるのが、65・66節である。
私は私に類似しているものを愛する。そして、私は私を表現することができる。このふたつのテーゼが神にもまた見いだされるということは、次の116節から明らかである。
ここで注目すべきは、神による自己像の制作が、神による世界そのものの創造に類似させられているということである。
自らに似せて何かを創造することによって、彼は自らを多数化し、そこで自らを喜ばせ、自らの技芸を安らわせる。そこには、ある種の制作行為自体が制作主体の類似を生み出す過程が、神による創造に根本的なものとして想定されている様がある。
そして、クザーヌスは、神による自己像の制作という観点から、私による神の探求の営みを、私の複数化によって成し遂げる可能性を見出す。
まずこの箇所で、私は、神によって制作された神の類似としての私の複数性を肯定することができる。神に似た私は複数存在する。
次に、複数化された私が、互いになにかしらの価値を与えあうことが示唆される。
ここにきて、私の複数は、神を探求するという目的のもとで助け合う、ひとつの共同体を形成する。私は神を蝶番として無数の私と類似し、互いを所有しあう。「汝は汝のものとなるべし、そうすれば私さえも汝のものとなる」という言葉の意味も、ここから導き出されることだろう。
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クザーヌスの中で、類似によって結ばれた群れとしての知性的〈霊〉たちの協同作業が意識されている。感性から理性へと紡がれる、認識能力のヒエラルヒー的把握も、群れのなす密度の濃さとして了解可能だろう。
いくつもの私が似ているとして、その類似は私Aと私Bの間だけで結ばれるものではない。常に神を蝶番として成立させられている。この類似が究極地点まで進むと、イエス・キリストの保持する類似となる。
この、媒介抜きでの類似が、ひとつの目標となろう。
イエス・キリストはクザーヌスにとって、絶対的な教師であった。彼は私に対して教え、促す。そのような規範となるのであるならば、私は常に行動しつづけなければならない。というのも、人が教師を必要とするときとは、まさにその人が手さぐりで行為をおこなう過程にほかならないからである。
港から港へと瞬時に移動できるならば、灯台は不要である。一定の時間のなかでの探索と、それに伴うその都度の行為の修正が必要であるがゆえに、灯台が求められるのだ。
すなわち、そこにはなにかしらの過程が求められる。神の探索行為、それはいかように定義されるのか。
私がなにかを知解するという事自体にねづくものとして、あらゆるものの類似が定義される。そしてそれは私の多数化に寄与する類似関係と共鳴する。私という存在はあらゆるものに類似させられ、複数の私の作りだす神の探求のための共同体は、石や木や動物や海までとりこんでひとつの群れを成すだろう。海にも私があり、石にも私がある。
そして89節において、上記の箇所の直後に、工匠についての記述があることは重要だろう。
神による自己像の制作がこうして接続される。
動かす力の媒介。事物に対する制作の肯定。
ここでようやく芸術制作について考えてみる。絵を描くとき、建築物を作るとき、詩を書くとき、その制作者は事物と密に接する必要がある。絵の具を、資材を、言葉を、動かすことによって、なにかしらの地点へと進める。方角は定かではないし、画布に絵の具を置くとき、そこに絵の具を置いたことについての選択を行った主体が、常に制作者の位置に住まう私を要請する。芸術制作とは、環境と私の摩擦の中で、新たな私を制作する過程である。芸術制作者は、なにかしらの目標を知覚した上でそれに従って作品を形成するのではなく、一手ごとに視界の不確かさに恐怖しながら、それでも限界まで思考した上で、かろうじて動き、画布という環境を改変し、それを改変した主体としての私を見出す。そのとき制作の能動性は、画布と私の双方が担うことになる。ある一定の状態の画布がなければ、私はそのように制作せず、ある一定の私がなければ、画布はそのように制作されなかったのだから。
そして、そこでは常に目標が不明でありながら、どこかへ進み、完成がもたらされるという不可思議さがある。制作行為のなかから、意味の不確かな完成形が導き出される権利が、芸術制作者に担保されているのである。もちろん、芸術制作の運動を停止させるような完成形が芸術制作者に与えられることはない。制作は続く。私が生きる限り。
このことを、クザーヌスが「最も聖なる無知」という言葉で言い当てていたとして、奇妙なことはない。
この直後に引かれる喩え話が示す「無限」という言葉は、時間経過を孕んだ無限、すなわち作品制作の時間だろう。
クザーヌスが知ある無知を説き、自己愛を重視し、工匠の例を多用することが、こうして結ばれる。神に近づく道は複数あるだろうが、芸術制作はその一つに数えられるだろう。芸術制作においてこそ、人は自らの周囲の環境を支配するのでも、単に従属するのでもなく、お互いに行方不明の神に向かっての探索として、行為することができる。その行為において重要なのは、類似を含んだ自己愛である。すなわち、私が私であること。芸術制作における「私が私であること」は、制作行為を媒介として絵の具や言葉や資材のなかに見いだされるようになる。私が私でありながら、複数でもあるという、この状態においてこそ、私は思考し、探求し、「自分自身を超えて、あなたが招いて下さっている栄光の場を私が予見できるように」(119節)なる。
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なぜ「私が私であること」を捨てるべきでないのか。それは、私を安易に捨てることなく、私が私であることの内側から、私を超える必要があるからだ。
キリストにおいて重要なのは、神でありながら人間であるという、奇妙な矛盾の肯定だった。それは、複数の矛盾した事物をひとつに統合してしまえる私という存在の奇妙さと類比的である。
私の耳で聞いたものと、私の目で見たものが、ひとつの私の思考において混ざり合う。生まれた瞬間の私と、死ぬ直前の私が、同じ私であると確信できてしまう。その奇妙な統合・持続こそが、根本的である。「私が私であること」を、いかに、この世界のあらゆるものへの肯定、そして私による世界との共同体的な営みへの肯定へと、昇華させるか。それが、クザーヌスにとって、あまりに大きな問題であったのではないか。
この意味で、芸術という営みもまた、一つの思考の手立てとして肯定される。未だ私は神を知り得ていないからこそ、私は芸術制作を通して世界を肯定し、神による救済へと到ることが可能である。このとき、神は私が存在したことすべてを否定しない。
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