![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46681191/rectangle_large_type_2_7530e0abea4b2e8d089224b72d0c82f0.jpg?width=1200)
”嫌いな人”がいない
私には”嫌いな人”がいない。
これは私のことを嫌っている人がいないということではなく、あくまで私から見て嫌いな人がいないという意味であることはまず断っておく。
#嫌われていないことは祈るしかない。。
なぜ”嫌いな人”がいないのか、今日はそのことについて独断と偏見に基づいて書いていこうと思う。
”嫌い”って何?
そもそも”嫌い”ってどういう意味なのだろうか。
調べると様々な意味のある言葉ではあるが、よく用いられる意味としては、
・いやだと思うこと
・忌みはばかること(遠慮して避けるような意味)
などが挙げられると思う。つまり、ある意味一方的に自分自身から遠ざけたいと言ったような、拒絶する意味で用いることが多いと思う。
この場合、”嫌い”を発した人はその”嫌い”な対象について、自分から遠ざけることで自分自身を守ることができ、そういう意味ではこの言葉にも非常に重要な役割があり、単に”嫌い”という言葉自体が悪いということはない。
誰だって、自分から或いは自分の大切なモノ達から、遠ざけておきたいようなものはあると思う。
ただ、この”嫌い”という言葉を投げられた側の気持ちはどうなのだろうか。
社会人になり、周りから私はこの言葉を投げられることも少なくなった。
しかし昔、学舎時代はこの言葉を投げられたことはある。
当時の気持ちを正確に思い出し、言語化することは難しいが、(あまり良くない意味で)美化されたその記憶を辿れば、思い出すことはできる。
”嫌い”と言われたら
幼い頃、父の仕事の関係で転校の多かった私は、転校先の学校で洗礼を受けることもあった。
今思えば、本当に大した理由ではなかった(と思っている)のだが、簡単にいうと「外から来たこれまでの平和を壊すかもしれない存在に対しての拒絶反応」だった。
私たちの体の中でも、外界から入ってきた異物にはまず拒絶反応が出ると思う。それが出続けることもあり、そう言ったものは確かに排除されるべきだと思う。(新型コロナとか本当に怖いと思うし。。)
でも、人に対しては(原則として)そうした拒絶反応は次第に落ち着くものである。実際に私もそうだった(1年くらいで落ち着き、今では仲の良い仲間になったと私は思っている)と思うし、私も周りも幼かったことも理由だと思う。
※上記について”いじめ”を肯定するものではないことは、念の為描かせてください。いじめは本当に許されるようなことではなく、(かといって過剰に反応することも肯定はしないが)自分や自分の周りで発生させてはいけない行為であると思っています。側から見ればいじめ”のような行為”も受けましたが、結果から見てそれは全て拒絶反応だったのだと私は納得しているので、「洗礼」や「拒絶反応」という言葉を説明を続けさせていただきます。
まぁ、洗礼や拒絶反応も減ると良いなとは心の底から思っていますが。。
そうした洗礼を受けているなか、(今では友人となった)人から「嫌い」という言葉を投げられた。
私は身に覚えのないその言葉にまず驚き、徐々に受け止める中でとても悲しい気持ちになった。
・必要とされていない、存在を否定されているような感覚
・仲間に入れてもらえない、拒絶隔離され腫れ物のような扱い
・もう独りでいた方がいっそ楽で、自分を守れるのではないか
そんな気持ちに襲われた。きっと”嫌い”と言われた人は、「なぜこうなったのか理解できない」という気持ちと、辛く悲しい気持ちを抱くことになると思う。そして、”嫌い”と言われないように、洗礼を受けないようにするには、どうすれば良いか自分を変えようと取り組むと思う。
”嫌いな人”を作ると
ここまでの経過を考えた際に”嫌い”を言った人と言われた人とでは、どんな違いが生まれるのだろうか。私の偏見が強く、主語や解釈が大きくなってしまうが以下のような感じになるのではないだろうか。
”嫌い”と言った人
相手を拒絶し、自分から遠ざけようと考える
⇨(何があったかわからないが)他責に捉えて、思考を停止している
”嫌い”と言われた人
原因が何なのか苦悩し、自分の置かれた環境を改善しようと模索する
⇨(何があったかわからないが)自責に捉えて、悩み考え続ける
これは直接相手に言葉にして言っていなくても、口には出していなくても、結局同じ状態になると思う。つまり、”嫌い”は他責に考えるきっかけを作ってしまう可能性があるということ。
何事も自責で考えれば良いということではないが、一方的に他責に考えることは環境を状況を好転させることはできないと思う。そう考えると、この”嫌い”という言葉は、本note冒頭で説明した意味で多用することは、あまり望ましくないと思う。可能な限り自責に捉えて自らが環境の状況の改善を取り組む方が、そんな取り組みを誰もが互いに少しずつ実行できれば、きっと自分にとっても誰かにとっても素敵な世界になるのではないか。と思っている。
しかし、”嫌い”に近い感情を抱くことをゼロにすることは難しく、ダイバーシティや多様性が叫ばれる現代で、どう整理すれば良いのか。多分正解はなく、私たちそれぞれがそれぞれの解釈のもと、
・受け入れられなくても、受け止めて
・すぐに理解できなくても、徐々に理解できるように努めて
生きていかなければならないのではないかと思う。
そんな気持ちを表現するのに、どんな言葉を使えば解釈が前進していくのか、そんなヒントにこのnoteがなれば嬉しい。
多様性社会に向けた”嫌いな人”の新しい解釈の提案
論理を飛躍させすぎて、大それたテーマを設定してしまった。笑
回収できる範囲で、私なりの解釈を説明/提案していく。
・受け入れられなくても、受け止めて
・すぐに理解できなくても、徐々に理解できるように努めて
といった先にあげたこの感情を、
可能な限り自責に捉えて自らが環境の状況の改善を取り組む
為にはどんな言葉があるのか。そこで私は以下の言葉にその可能性があるのではないかと考えた。それが、
”難しい”
である。
”難しい”という言葉についてよく用いられる意味は、
・簡単には解決できない
・理解が困難
などではないだろうか。これらは、他責な側面も含まれているが、”嫌い”との大きな違いは自責の意味が含まれていることではないだろうか。
”難しい”モノやコトに直面した時、初めから拒絶して他責にして遠ざけることは少なく、少し努力していると私は思う。
数学が”嫌い”な人も、トマトが”嫌い”な人も、簡単には解決できない”難しさ”がその本質であって、それを”嫌い”と言ってしまっていただけではないでしょうか。
つまり本当は”嫌いな人”って、すぐに理解できないような、すぐに受け入れられないような、そんな人の総称であって、正確には”難しい人”だったのではないだろうか。だとすると、もしこれまで”嫌い”と言っていた場合、正しく自分の気持ちや考えを伝えきれていなかったのではないだろうか。
別に全てを理解し、受け入れる必要はないと思います。というか、きっとそんなことは不可能だと思います。
特定の食べ物、例えばお蕎麦にアレルギーがある人だっていて、そういう人がお蕎麦を食べることが難しいのは当たり前で、無理に食べる必要が全くない。ただ、だからと言ってお蕎麦を社会から排除するのは、お蕎麦が好きな人もいるのだから違う。それと同じで人に対しても同じように整理できるのではないか。
色んな人がいるこの「多様性社会」において、簡単には理解できない人がいることは自然であり、難しいと思うのは全く間違っていないと思う。ただそこで、「簡単には理解できない」から拒絶して排除するのは違うのではないだろうか。
アレルゲンフリーのお蕎麦が様々な人の努力のもとで生まれたように、人に対してもその難しさを自分も相手も含めた周囲との協力で、改善に向かうことはできるのではないだろうか。理解まで時間がかかるのであれば、その”難しい人”を拒絶するのではなく、何か共存できるような空間の作り方があるのではないだろうか。協力するにしてもその協力の仕方にはさまざまな手段があるのではないか。
私はそう思うようになってから、”嫌いな人”がこの世界から消え、
”難しい人”との付き合い方を模索することで、多様性への悩みを少し減らすことができた気がしています。そんな、
何か行き詰まることがあったら、表現を変えてみる
これが私の今回の小さな哲学です。
最後に
今回の私の小さな哲学は
何か行き詰まることがあったら、表現を変えてみる
です。
何か他責にしてしまっていることがあった時に、この小さな哲学はその問題を解消に近づけてくれるような、ある意味当たり前で簡単じゃない考え方だと思います。
「たかが言葉の使い方だけで何が変わるの?」と思うかもしれませんが、自分の中で考えるときや誰かとの会話の中で、その意識的に変えた言葉が自分の気持ちをより正確に伝え解釈するきっかけになり、何か変化が生まれるかもしれません。
もし何か行き詰まることがあれば、違う表現をしてみてはいかがでしょうか。日本語は幸い色んな表現方法のある言語だと思うので、きっと解決の糸口になる言葉がどこかにあると思います。
いつか私の「パクチーへの難しさ」が、解消されることを祈って、今回のnoteはおしまいです。
写真はnoteの内容と全く関係のない、最近お気に入りのホットワインのお供です。笑
まだ寒い季節が続いているので、皆さんもお身体にはお気をつけてください。