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父の形見の腕時計にまつわる、ちょっと不思議なエピソード

今日は大晦日、我が家はこの年末年始を妻の実家で過ごすことになり、東海道新幹線で西へ向かっている。といっても新幹線の座席でパタパタとキーを叩いているわけではなくて、この文章はあらかじめしたた めていたものだ。

結婚以来、9度目の正月を迎えようとしているが、妻の実家で年越しをするのは初めてのことだ。というのは僕の父の命日が12月31日だからで、大晦日は墓参りに行ったり僕の実家で仏壇に手を合わせたり、もしくは自宅で簡単な陰膳を据え、父を偲んで一杯やりながら過ごすのが通例となっていた。

先日、十七回忌を済ませたことで気持ち的にひとつ区切りがついた──ということでもないんだけど、娘に祖父母や従姉兄たちと過ごす正月を経験させたいという思いもあり、妻の同窓会参加なども重ね合わせて今回の帰省に至った。

そんなわけで、僕にとって大晦日は「一年の最後の日」というよりは「いつも以上に父を偲び、在りし日の父に想いを馳せる日」という意味合いが強い。折角なので、父の形見の腕時計にまつわるちょっと不思議なエピソードを紹介したい。

父からの入学祝い

もう30年ほど前の話だけど、大学入学の記念に、父が若い頃に使っていた腕時計を僕に譲ってくれた。OMEGA Seamaster COSMIC 2000というモデルで、18そこそこの若造には立派すぎるモノだったが、何より「父が使ってきたモノを受け継いだ」ということが本当に嬉しかった。

ところがこの時計、実はオーバーホールが必要な状態だった。秒針はキレイに回るけど分針・時針がついてこないのだ。父は僕に譲るタイミングでオーバーホールに出そうと考えたようで、父の知り合いだという近所の(当時、池袋丸井に入っていた)時計店にオーバーホールを依頼した。

しばらくして手元に戻ってきた時計は、きちんと時を刻むようになった。ところが、竜頭の辺りに何か違和感を感じる。詳しく聞いてみると「全く同じモデルの竜頭が入手できず、やむを得ずひと回り小さいサイズの竜頭を使った。機能的には問題ない」ということだった。

もし今そんなことをされようものなら、怒りをなんとか押し殺して「そんなバカな話があるか。今すぐ本来のパーツを取り寄せてやり直してくれ」と言うだろう。でも当時の僕は幼く、世の中のことなんてほとんど何も知らなかった。だから時計店からそう伝えられたとき、驚きはしたものの「古い腕時計っていうのはそういうものなのか」というくらいにしか思わなかった。

それはそれとして──いやなるべくして、というべきか。一度は動きを取り戻したかに見えたムーヴメントも、いつの間にかまた秒針だけが静かに回り続ける状態に戻ってしまった。

この件について、当時父がどう思ったのかはよく分からない。知り合いというのは、もしかすると仕事絡みの付き合いがあったのかもしれない。少なくとも事を荒立てた様子はなかったが、裏で何かしらの交渉があったんだろうとは思う。

いずれにしても、改めて再オーバーホールとなると(少なくとも当時の僕にとっては)それなりにまとまった金額がかかる。それに直したところで、自分の腕にはどうも似合わない。それならこのまま大切にしまっておいて、大人になったらもう一度オーバーホールして今度こそ使おう。そう考えて、大切なものを集めてある抽斗ひきだしにしまい込んだのだった。

それから十数年間、たまに取り出して眺めてみたりなんとなく腕に巻いてみたりはしたが、基本的にはずっと抽斗の中にあった。飾り棚に置いていた時期もあったが、埃をかぶるのも嫌なのでまた抽斗に戻した。

早すぎた父の死と、動き出した腕時計

僕が33歳のとき、何かのきっかけで検査を受けた父の身体にステージ4の腺がんが発見された。大動脈瘤まで見つかり、完治を目指せるタイミングはとうに過ぎていた。余命宣告なんて映画やドラマの中の話だと思っていた。まさか自分が家族の余命を宣告されるなんて、想像もしていなかった。

夏の終わりに入院して数ヶ月後の大晦日の夕方、父は病室で静かに息を引き取った。本当にたまたまなんだけど、その瞬間に病室にいたのは父と僕の二人だけだった。クリスマスも病室で一緒に過ごし、父も容体が落ち着いていたので、病室で正月を祝うべく、母と弟はおせち料理を準備するために自宅へ戻っていたのだ。

入院から息を引き取るまでの数ヶ月間には、今でも忘れられないことが沢山あって、わりとお父さんっ子だった僕は50歳を目前に控えた今でも気持ちの折り合いがついていないことも多い。もしかしたら今後、その期間のことを文章にする日が来るかもしれないけど、ここでは詳しく触れない。

大晦日の夜にもかかわらず、父が懇意にしていた葬儀社が病院に駆けつけてくれたが、ちょうど年の瀬ということで、荼毘に付されるまで一週間ほど日が空くことになった。その間、父の身体は自宅の一室に置かれ、思ったより急に訪れた別れを噛みしめながら過ごすことになった。

そんな折、ふと思い出して例の腕時計を取り出して腕に巻いてみた。長い間抽斗の中にあった自動巻きの時計はもちろん動いていなかったが、腕に巻いてしばらくするうちにまた動き始めた。

よくよく見てみれば、なんと秒針だけでなく分針と時針もきちんと時を刻んでいるではないか。「しばらく放っておいたらまた機嫌が良くなったのかな」と思って日付と時刻を合わせ、父の思い出と過ごすようなつもりで毎日身に着けて過ごした。

秒針は回り続ける

数日が経ち、松が明ける頃に父の葬儀が執り行われ、遺体は焼かれて灰になった。喪主はもちろん母だったが、来てくださった方への挨拶や葬儀社との細々とした実務は主に僕が担当し、一日はあっという間に時間が過ぎた。

自宅へ戻り、ふっと息をついていたときのことだ。着替えをしようとして、「おや?」と思った。腕時計の時刻がズレている。しばらく眺めていると、秒針は回っているが分針と時針がついてこない。あれ、また元に戻っちゃったな、と思いながら腕時計を外し、抽斗に戻した。

翌日、改めて腕時計を確認してみると、やはり秒針だけが静かに回っていた。ずいぶん気まぐれなものだと思ったけど、いや、そうじゃない、と思い直した。

これはきっと、父がここにいたのだ。病室で息を引き取ってから荼毘に付されるまでの一週間、父は家族と一緒にいたのだ。

別れたくなかったのかもしれない。もっと生きたかったのかもしれない。もしかしたらそんなセンチメンタルなものではなく、何か大きな心残りがあったのかもしれない。真相を知る由もないが、少なくとも父はここにいた。そして、自分は今ここにいるというシルシとして、父の腕時計はその間だけ動きを取り戻していたのだ。

今もここにあり続ける

そんなことがあって、その後、腕時計は父が他界した日時に合わせたまま、オーバーホールできずに手元に残している。普段はしまってあるけど、父を感じたい時や何か大切なタイミング、失敗したくない時など……要は御守りのような形でたまに身につけている。オーバーホールして普段遣いするというのも良さそうなんだけど、なんとなく踏ん切りがつかない。

あ父が亡くなったことによる喪失感は自分でも驚くほど大きかった。小さい頃からよく叱られたが、本当に優しい人だった。いつも冗談を言っては周囲を明るくし、何より家族を愛していた。僕は自分も家族を持ったらそういう夫/父になろうと思っていた。

今、自分が実際に家族を持つようになって、目標たる父、尊敬する父の背中にどれだけ近づけているかは分からない。父の存在を胸に、父に恥じない生き方をしようと思うが、ままならないことだってもちろんある。

ここ数年は、大晦日に改めて父を思うとわりと穏やかな気持ちになり、そして身も心も引き締まる思いがして、なんとなく良い気分で新年を迎えられるような気がしている。

父よ、安らかに──。
そして皆さまも良いお年をお迎えください。

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