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自分だけ取り残された感覚

あんたは人生で取り残されたと感じた経験があります。

それは、時間からなのか世間からなのか、どちらでもありどちらでもないのかまだ分からない。この経験を初めて文章におこしてみます。

今から10年ほど前の24歳の時、大学時代からやりたいと思っていた農業をやろうと、新卒で入社した会社を辞めました。

農業をしたいと思った理由は、以前から自然の中で暮らすことに憧れがあったのもありますが、決定的になったのが、大学時代に友人と岐阜県にある白川郷へ旅行に行ったことです。

そこで感じた景色や空気、食事などに心底感動し、「こんな場所で働きながら暮らしたい」と思い、田舎でスローライフといった言葉などに憧れを持ち始めました。

退職後、農業の求人をネットで調べていくうちに「第一次産業ネット」というサイトを見つけました。
そこの求人には、住まいや食事補助も出ながら給料がもらえるといった、まさに好条件だと感じ応募しました。

早速応募をして、電話面接と履歴書の送付で一社目からトントンと話が進み、採用が決まりました。数日後にすぐに支度して、お世話になる農家へ向かいました。

場所は長野県南佐久郡川上村という高原路地野菜をしている農家さんで、高原という土地柄、早くから雪が降ったり、気温が低くなるので、村のみんなは半年で1年分の農作物を作ります。
冬は農業ができないので、他の仕事をする人もいれば、長期間旅行に行く人もいるそうです。そんな村へ5月~10月までの半年間という期間での仕事になりました。
この川上村は、レタスの生産量で有名で、日本国内のレタス生産数の70%を占めているほど、多くのレタスを生産してます。

駅に着くなり、社長の奥さんが車で出迎えてくれて、農家さん宅や僕の住まいを案内してくれました。

部屋は仮設住宅のような空間で、ワンルームにブラウン管テレビが一台、トイレ、バス、キッチンは共同でといった部屋でした。
テレビは地デジに切り替わるタイミングだったのか、専用チューナーがないため見れる番組はありませんでした。
唯一見れたのは、村のことを放送している番組のみで、確か19時には映らなくなるのと、一時間に15分程の番組が2回ひたすら再放送が流れていたように記憶してます。

番組内容は村や中学校のイベント、天気などといった内容のみだったので、みんなが見ているようなニュースやアニメやドラマなどは一切見れませんでした。

Wi-Fiが飛んでいると聞いていたので、ノートPCを持って行ったのですが、なぜかWi-Fiの受信ができず、当時はガラケーの為ネット代がもったいないと思い、ほとんど使うことはなかったです。
なので、この時点で外ととの繋がりは電話、メール、村の人たちのみとなりました。

農家についた日に社長や一緒に働く中国人に挨拶して、さっそく翌日から仕事が始まりました。ここでは主に、ホウレンソウ、白菜、キャベツ、レタスを生産していました。

初日は確か朝日が昇ったと同時(5時頃)に仕事が始まったかと思います。
苗を作るために土を調合し種を敷き詰めて、湿気と温度が一定の保管場所へ入れる。
保管場所で育った苗をビニールハウスへ移し水と温度管理をしながら、日光を当てを育てる。ビニールハウスで育った苗をマルチを敷いた畑へ植えるといった順番です。

8時頃に朝食を食べて午前の仕事が始まる。まさに朝飯前とはこのことかと体感しいました。午前と午後は苗植えや畑作り、苗作りといった野菜を育てる仕事がしばらく続きました。

そんな生活が1週間ほど続いたある日、一緒に働いていた中国人が違う農家へ行くとのことで、一人で働く日が2日ほど続きました。
3日目の日に同じ農家で一緒に働くこととなったインドネシア人のトハとジョコの2人来ました。
住まいは隣の隣の住宅で、彼らとバス、トイレ、キッチンを共同で使うこととなりました。彼らも僕と同じ期間一緒に働く仲間と知り、年齢も近いことからすぐに仲良くなりました。
日本語はまだまだ不自由でしたが、仕事は一生懸命頑張る真面目で陽気なインドネシア人で、すぐ彼らのことが好きになりました。

この頃から知ったのですが、この村では毎年繁忙期を迎える頃には中国、フィリピン、インドネシア、などアジアや東南アジアの外国人を中心に働き手を募っているそうです。
先に働いていた中国人はかれこれ3年ほど川上村にきて働いているそうで、仕事に慣れた手つきでした。

それから数日後に、今度は愛知県から5歳ほど年上の日本人が新たに来て隣の部屋で住み、今期はこの4人で仕事をしていくこととなりました。

6月に入ると、春先に植えたホウレンソウが収穫時期を迎えてきたので、朝露があるうちに収穫して冷蔵庫に入れる必要があるため、朝日が昇る前から収穫をするようになりました。この頃から仕事は午前3時から始まりました。

収穫→朝食→仕事→昼食→仕事→夕食→就寝→起床→。。。といったサイクルが9月頃まで続きました。
夏が近づくにつれて、高原特有の暑さで寝返りをすると枕を血で汚してしまう程、常に耳が火傷をしていたので、農業には麦わら帽子がどれだけ大事かを身をもって知りました。
朝、夕は夏でも肌寒いくらいの気温になるので、寒暖差が激しく過酷な環境でしたが、野菜がとても肉厚に育ち成長にはとてもいい環境ということも知りました。

社長や社長の奥さん、おばあさんと家族で経営しているので、みんなと仕事をする時間が多かったのですが、とにかくみんな仕事が早い。よーいドンで収穫をしても、みんなドンドン前へ進んでいって全然追いつきませんでした。

僕は、まずおばあさんのスピードについていくことを目標とし、収穫のコツや無駄な動きを省きながら少しずつ早く収穫できるようになり、トハに負けじとライバル意識を持ちながら収穫していました。

こうしているうちに、トハやジョコとは何かと競い合うようになり、負けたり勝ったりの繰り返しでしたが、とても楽しく仕事をしていました。

一緒に働く日本人は苦手なタイプでした。マイペースであまり急ぐ様子もなく、何かぶつぶつ言いながら仕事をしている光景をよく覚えています。
思うことがあるのは分かりますが、まずは考えず体を動かさないと終わらないので、この状況でなぜ焦らないのだろうかと不思議でした。

農家の仕事で一番大変だったのが、畑にマルチを敷く仕事です。社長が機械ででおおまかな場所は敷いてくれるのですが、端から端まではマルチを切ったり、土で動かないようにしたりととにかくスピードがとにかく大事なので、休む暇もなくひたすら社長をを追いかけてました。

もう一つ大変だったのが、キャベツと白菜の収穫です。収穫はいいのですが、折り畳みのコンテナに入れて運ぶ際に足場が悪いのと、野菜が大きく水分も多く含んでいるので、とにかく重い。
しかも、収穫が早すぎて、コンテナに積める作業と運ぶ作業とで毎日満身創痍でした。

仕事が終わらなければ休日はなく、月に一回程度でした。それも台風が来たときだけということで、どれだけ仕事の進みが悪かったのだろうかと休みの日でも畑を見に行ったほど不甲斐なかったです。

辛いことをつらつらと書きましたが、もちろん楽しいことや感動もありました。

キャベツを収穫しているとき、売り物にならない野菜は基本的に捨てるのですが、畑に転がっているキャベツをかじったときに、キャベツってこんなに瑞々しくて甘い野菜だったのかと初めて知りました。

農家の社長曰く、「他の野菜には旨味がない」などとよくいってました。旨味の意味がただ美味しいとは違うなと話しながら感じていたいのですが、農家で働きながら、社長の言う旨味を少しは理解できたと思います。
取れたての野菜程瑞々しくて旨味を感じられる野菜はありません。本当にいいものはやはり高級なものではなく、鮮度が高いものと確信しました。

僕の地元は横浜なのですが、8月には友人がバイクで遊びに来てくれました。昼休憩の一時間だけ話をしましたが、止まっていた時間が進んだという感覚になりました。お互いの近況など話して楽しい時間はあっという間でした。

川上村では、8月に夏祭りがあるのですが、その日は祭りに行くため、社長の奥さんが仕事を早く終わりにさせてくれて、インドネシア人を車で連れていき祭り会場へ行きました。
大きなグラウンドではなかったのですが、人もそこそこいて賑わってました。

祭りのイベントで、芸人が来ていたのですが、なんとモノマネ芸人の原口さんでした。
生でモノマネを見てテレビでは全然感じれないクオリティの高さに、流石プロだなと最高のエンタメを見れました。

祭りの最後には花火が上がりました。インドネシア人の二人が初めて見たのかとても興奮していてい、微笑ましい花火でした。

休みの日には近くにある甲武信ケ岳というところへ一人で登山もしました。
ふもとまでは車で行きました。標高が2500mほどだったかと思いますが、頂上はとにかく景色が最高でした。
埼玉県と長野県の県境に位置するとのことで、両県を頂上で眺めながら買っておいたスニッカーズを食べて全身で自然とチョコを堪能しました。

8月も後半になると、山梨県の南アルプス市にも畑があるとのことで、車で1~2時間ほどの道のりだったかと思いますが、行き来することが多くなりました。
山梨でも泊まれるような家があり、そこは一軒家だったので、インドネシア人とも一緒に寝食を共にしました。
山梨での仕事は朝がさほど早くないのと、車を借りていたので、近くのスーパーまで自由に行き、普段は疲れ切って出来ない夜更かしやお酒を買ってゆっくりとした夜を過ごせました。

9月に入ると一緒に働いていた日本人が家の事情で帰宅することとなり、僕とインドネシア人の三人で仕事をすることとなりました。

そのころには3時に起きて収穫する日が減っていたので、川上村では残りの収穫と来季に向けて畑の片づけと手入れが中心でした。それと並行して山梨の畑で育てた苗を持っていき苗植えや収穫などしていました。

川上村と南アルプス市では標高が違うのか、気候がまるで違いました。川上村では9月でも朝晩は10°を下回るので長袖長ズボンが必須なのに対し、南アルプス市は暑いので半そで半ズボンで十分なくらいです。

10月も半ばになると、インドネシア人が帰国する日がカウントダウンしてました。川上村での仕事終りに目途がついてきたので、帰国の前日に社長が隣街に連れて行ってくれて、みんなにバイキングをご馳走してくれました。

インドネシア人は初めて食べるようなものが多かったのか、「これは何ですか?」と色んな食べ物に興味深々でした。

翌日はトハとジョコの帰国日です。帰国日の前日の夜にに三人で記念写真を撮りながら部屋で別れを惜しみました。

彼らの帰国当日、日本人のお迎えが来て、社長などに挨拶をしてました。インドネシア人の二人も社長や奥さん、おばあさんにお礼と別れの挨拶をして、僕とも挨拶をしました。
素敵な二人との出会いと経験に感謝してます。

僕は、その翌日に帰宅予定でしたので、最終日は一人でもできる仕事として、畑を来期に向けての掃除をしました。
仕事最終日の夜に、社長の家でいつものように夕飯を食べていたのですが、社長から「山梨の畑でまだ働かないか?それか、俺がしている会社で営業をしてみないか?」と言われました。突然のことで予想すらしていなかったので、その場でやりますとは言えず、一度帰ってから今後のことを決めたいと、断りました。
後から考えてみたら、挑戦してもよかったのかなと少し惜しい気持ちも残りました。

10月の末日、帰宅日の朝がきました。社長とおばあさんにお礼とお別れの挨拶をして、社長の奥さんには甲府駅まで車で送ってもらいました。

車の中では、一時間近く農家の苦労や先に帰った日本人の話などしながら、アッというまに甲府駅につきました。駅に着くなり、奥さんもお礼とお別れの挨拶をして電車へ乗りました。

駅に着いてから色々と違和感を持ったことを覚えてます。ます、駅の建物や、人の多さ、駅にある広告など全てに珍しいものに見えて新鮮に感じてました。

家に着いたのは15時頃だったかと思います。家には兄がいて、
「おかえり。真っ黒になったな」
と言われました。
農家で経験した話しや、農家に行っている間の家のことなど話しました。僕が農家に行っている間に内閣総理大臣が変わっていたことが一番驚きました。

その日の夜には地元の友達と会いました。同じように農家の話や、近況を聞いたりして、農家に行っていた時間を埋めるかのように情報を仕入れました。

兄や友人と話しながら一番違和感を覚えたことは、農家に半年間行っている間、周りや世の中は大きく変わっていること。
半年間だけしか言っていなかったのに、一年以上も空白の時間があったかのような感覚になったこと。
農家でメディアを見ず、来る日も来る日も農業をしていると、世の中の情報から離れ自分だけが農家に行く前から時間が止まっているような孤独感が忘れられません。

半年間しか行っていなかったのに、一年以上も農家に行っていた感覚と共に、半年間も情報が入らないと世界に取り残されたような言葉にできないような孤独感に襲われることに気づきました。

人付き合いなどに気を使うことなく自然と共存することで、ストレスはかなり少なかった分、元の生活に戻ると、言葉にできない孤独感に襲われた。
これは、犯罪者が懲役が終わり、世の中に出たときに同じように思うのでしょうか。←(大袈裟)
映画「ショーシャンクの空に」でも同じような感覚になってる描写があり、とても共感できました。

半年間の農家での生活で、時間の感覚というものを考えさせられました。田舎での生活で世の中との関りを持って生活しないと、情社会から取り残されます。それだけ、世の中は早く進んでいる。

専業農家の生活や、世間から離れて生活することで感じる時間間隔、世の中は僕が思っている以上にとても早く進んでいること。これらを半年間で体感として学べたことが、今までもこれからも人生で一番濃厚な時間を過ごした半年間となるでしょう。

長文なのに最後まで読んでいただきありがとうございました😊

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