「今は政府を批判するべきではない」のか
思ったことを少しだけ書いておきたい。ここ最近の状況の中で、「今は緊急事態なのだから政府を批判するな」という類の言葉をよく目にすることについてだ。
あるいはそうした言葉の一つのバリエーションでもあると思うのだが、例えば政府による一斉休校の要請に絡めて、誰々は「政府が何もしなくても文句を言うし、政府が何かしても文句を言う」、そんな皮肉と嘲笑と憤りの入り混じった言葉を目にすることについてでもある。
そうした言葉の数々の中で、例えばこちらの記事でも、今回の事象に関する様々な情報が列挙されたのち、最後のパートは「臨時休校の効果や情報開示不足はいずれ科学的に検証されるべきだが今は政府を批判するタイミングではない」と締め括られていた。
「今は政府を批判するタイミングではない」か。なるほど。そんな風にして、メディアが言葉を書きつけているのか、と思った。
この記事のコメント欄にはこの記事を称賛する言葉が並ぶ。確かに私自身、良いなと思ったところも多い。
特に「一にも二にも検査と無責任に伝えるテレビを信じてはいけない」という点。テレビだけの問題ではないとは思うが、検査に関連して、様々なメディア、そして一部の「専門家」の発信に問題があるとは私も考えていたので、その趣旨については同意するところがあった。
例えば私もこんなことをつぶやいている。
だから、政府批判の勢いが過ぎて、むしろ自らの方が適切でない情報を発信しているのではないかと思われる人々やメディア、彼らに対する懸念はこの記事とも共有しているように思う。そして、そうした言葉は適切に批判されるべきだと思うし、私もそうした気持ちを持って、上のようにつぶやいたりもした。
しかし、そうした懸念からはじまって、では「今は政府を批判するタイミングではない」というところにまで考えがつながったり、「今は何か思っても黙っておくべきだ」という類の言葉を世の中に対して発信しなければと、そのように考えたことはこれまで一度もない。
適切でない政府批判を適切でないと考え、指摘することと、とにかく今は政府批判をするタイミングではないと人々に伝えること、その二つの間には大きな大きな違いがある。私はそう考えている。
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今、政府は2012年にできた新型ウイルスエンザ等対策特別措置法を改正しようとしている。そして、その中には「緊急事態宣言」というものがあり、それに関する様々な懸念が表明されている。
その懸念を、私は共有する。
つまり、法律によって、議会が、政府に対して、「緊急事態」を宣言すれば、通常の状態では制限してはならない人々の権利を制限できる力を与えることについて、それは危険ではないかと、そうした懸念を持つということである。
特に、今回の一斉休校要請の決定プロセスにおいて、「専門家の意見を聞いていない」ことを明らかにした現政府のことを念頭に置くならば、そうした宣言をできる力を、その時の政府に対して法的に与えることのリスクについて、否が応でも考えざるを得ない。
ちなみに、こうした懸念は2012年の法制定時においてもすでに表明されていたものでもあったから、その一例として、日弁連による当時の声明をここに置いておく。
同時に、現在こうして特措法改正をめぐって議論されている「法律に書き込まれた緊急事態宣言」を先取りするような形で、すでに、政府による一斉休校の要請(2月27日)、そして北海道知事による緊急事態宣言(2月28日)という、それぞれ「法的根拠のない緊急事態宣言(のようなもの)」が発動されている、そうした直近の事態のことを思う。
そして、私は、特措法改正関連の議論をしっかり注視しなければと思いながらも、同時に、こちらのすでに現実のものとなった法的根拠なき緊急事態宣言(のような何か)の方が、よほど危険なものではないだろうかと感じてもいる。
そして、「今は非常時だから」とか、「これはウイルスとの戦争だから」とか、そういった言葉が少しずつ少しずつ人々の間に広がって、こうした政府の踏み込んだ行為の数々に対して、自然と呼応してしまっているような、そんな現状のことを思う。
政府から発せられた一斉休校や外出自粛の要請、それらを受け入れることで、私たちの多くは、すでにこの緊急事態宣言を一定程度受け入れてしまっているのかもしれない。
そして、そう思うからこそ、「今は非常時だから」という不安と昂りが広がる中で、私たちはこうした要請を受け入れてしまって本当に良かったのか、そう問うことが必要だといま私は考えている。あとになってから問うことももちろん大事だが、同時にいま問うことも必要だと考えている。
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ここで私が問うべきだと考えているのは、一つ一つの施策や政策が正しかったのか、ということだけではない。
それだけでなく、政府の「宣言」によって立ち上げられる「緊急事態」の中で、まさに今、私たちの考える力と意思が飲み込まれてしまってはいないか、考える個であることを放棄して、全体に身を委ねることを選んでしまってはいないか、そのことを問い続けるべきではないかと、私は考えている。
個は全体のために存在するのではない。だからこそ、どんなときであってもこの一人ひとりからの「批判」を捨ててはいけないと、私はそう考えているのだけれど、皆さん一人ひとりは一体どう考えるだろうか。
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