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「外国人は奴隷でいい」はずがない

たかがツイッターのリプライ。普段は基本的にスルーしています。自分に対する中傷もミュートすれば見えなくなる。ただ、今回自分の投稿あてに飛んできたとあるリプライのことは、どうしても見過ごすことができませんでした。

なぜか。そのリプライが外国人やその子どもたちを「奴隷」と扱うことが当然だという内容だったからです。しかもそれは学習塾を経営する人(つまり日常的に子どもと接しているだろう人)からのツイートでした。

目を疑いました。これはミュートやブロックという対応ではダメだ、自分が見なくて済めばいいという問題ではない、きちんとレスポンスが必要だと考えて投稿しました。

リプライが飛んできた私の元の投稿がこれです。NHKによる外国人の子どもに関する報道記事を紹介するツイートでした。6~10歳の小学生相当年齢の子どもたちの多くが「不就学」の状態になっている。そして「公立小」でも「外国人学校」でもなく「保育園」に通っている事例も見られるーー。

この私のツイートに対して飛んできたリプライがこちらです。

ここで言われていることは3つあります。
①外国人労働者の本質は「低賃金の奴隷」である
②外国人労働者の子どもたちもいずれ「奴隷として搾取できる」
③だから外国人の子どもたちには「教育をしない方がよい」

私が衝撃を受けたのは、「日本の移民政策が一部の外国人労働者を“奴隷”のように扱っている」、そうした趣旨のことを批判的な視点から述べている言葉はこれまでいくつも見たことがある、けれど、同じ趣旨の言葉がここまであからさまに肯定的な形で(しかも実名で)述べられているのを見たことがなかったからです。

加えて、このツイート主は学習塾の経営者だとプロフィールに記載しており、二重に衝撃を受けました。古い差別的な感覚を持っている方と取材などで会うこともありますが、露骨に「外国人は奴隷でいい」などと言う人に会ったことは思い出せません。

技能実習制度などを中心に、人身売買的な性質の色濃い状況へと陥る外国人労働者が構造的に発生しているのは事実です。そして、私はまずこの事実認識を広く共有することが大事だと思って本や記事を書いてきました。

なぜかと言えば、正しい知識、正しい事実認識さえ広がれば、自分が考えるのと同じような価値判断をしてくれるのではないか、そう暗に前提していたからだと思います。

しかし、このリプライを見て思いました。たとえ近しい事実認識をしていても、その上で自分と全く異なる価値判断をする人が確かに存在する。私とこの人の感覚は大きく大きくずれている。そこにコモンセンス(共通感覚)は存在しないーー。

「奴隷」という言葉は重い。奴隷ということを端的に言えば「モノ」であることに縮減された人間です。モノであり誰かの所有物であるということ。それは、自分から動く、自分で考え自分の思いのままに生きていく、そうした「自由」を奪われた人間です。主体性を否定された、ただ客体であるだけの人間です。

近代人権思想の根本の一つは、この「モノとしての人間」「所有物としての人間」というアイデアの否定、乗り越えにあると思います。だからこそ「奴隷」という言葉が重いと言ったのです。奴隷を肯定するか否定するかは社会のあり方そのものに関わる。

そうであるがゆえに、国の根幹を成す憲法に人権思想をしっかりと書き込んでいるこの国の中で、社会の制度と人々の狡知とによって、今もなお擬似奴隷的な状況へと追い込まれている外国人がいる、そのことがこれまでも何度も批判されてきました。

私は新刊『ふたつの日本』でこう書きました。

外国人労働者を受け入れることは、鉄や小麦を輸入することとは違う。外国人はモノではなく人間だ。国籍が日本であれ、別の国であれ、人間である限り私たちはみな似たような問題に直面する。労働、教育、医療、社会保障、様々な問題に直面する。加えて、外国人であることによって、彼らは「言葉」に関する数多くの課題に向き合わざるを得ない。人間をモノのように輸入することなどできないのだ。(27~28頁)

4月1日に施行された改正入管法によって、外国人労働者の受け入れはさらに加速していく。そして、すでに昨年6月末時点で外国人は263.7万人、外国人の子ども(0-19歳)に限っても34.2万人がこの国で暮らしているのです。

これは未来の話ではない。今、この国で342,311人の実在する子どもたちが暮らしている。その子どもたちに学びの機会を与えなくて良い、むしろ与えない方が奴隷として搾取できるからその方が良い、そんなことが言われていいはずがない。

在留外国人統計 2018年6月末時点
・0-19歳(合計):342,311人
・0-4歳:88,107人
・5-9歳:75,906人
・10-14歳:62,370人
・15-19歳:115,928人

でもその「言われていいはずがない」ということ自体が壊れてしまっているのかもしれない。少なくとも、その共通感覚を共有していない人が確かに存在する。そのことにどう向き合い、どう行動すればいいのか。ずっと考えています。

最後に、自分の立ち位置を再確認するためにも、『ふたつの日本』に書いた言葉を改めて振り返っておきます。

私が本書を書く理由は、日本もすでに「移民の時代」に突入しつつあることを認識し、デモクラシーを排除の手段としない道を考えるためだ。この社会の中で、自分を社会の一部と感じられない人たちを取り残さないためでもある。前からいた人も、新しく来た人もである。(8頁)

社会が関与せず、関心を持たず、足場を与えずに放置し、その生から撤退する対象としての人間をどんどん輸入していくーーこうした移民政策から、移民を同じ人間として受け入れ、それぞれに必要な支えを提供し、誰もができるだけ「安定した生」を生きられるように努める移民政策へと転換することができるか。安価でフレキシブルな労働力という幻想を捨て、一人ひとりが経験する当たり前の現実へと目を向けることができるか。(216頁)

記事を書けば、少しは届くのか。本を書けば、少しは伝わるのか。わからない。自分の投じる一石など、常にあまりにも小さい。でもそれしかできることがない。だから、それをやるし、それをやり続けます。

#ブログ #コラム #日記 #ふたつの日本

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