重ねていくその先に
間隔が空いていくと、習慣とはなくなる。
noteの日記更新がだいぶ空いてしまった...。
撮ること、現像すること。仕事やプライベート。
そちらに注力がいき、疎かになる。
あちらを立てればこちらが立たず。
ではないが、noteも目的や一種の理由持たずとも湧き出てくる自然的な情熱がないと捗らない。
そんなことをウダウダ言っても面白く無いので、この夏を振り返る。
とにかく夏前半は天気が悪くて、外撮影を何回もリスケしたことを憶えている。はじめて天候にファ◯クと、苛立ったと思う。
気温的にも外での活動、イベントが重視される夏に雨天は酷だった。
後半は作品撮りもそうだけど、仕事の案件がぽちぽちと増え、毎日シャッターを切っていた週もあった。
無我夢中だった。仕事としてカメラに携われることはこのうえなく幸せだし、恩の字だ。
作品撮り活動も続けながら、仕事もこうしてお付き合いできたらと思う。
両者とももっともっと高みを目指しつつ。
作品撮りについて。
あれこれと考えながら、思いながらシャッターを切っていく日々。
世の流行、受賞作品、これからの時代なども脳裏に横切ることもあるし、そんなことを考えて撮るのも陳腐だなとも考える。天邪鬼気質もそれを煽る(苦笑)
そんな中、今の撮影、次の撮影はと先ばかりを気にしてたけど。
ふとカメラを触りたての頃の写真を見返してみた。ポートレートも4,5年前のやつにも目を向ける。
これらを今一度、並べてみたら...。
あれ?これらが俺の写真じゃんって再認識もさせられた。
「撮っているのが自分だから当たり前じゃん!」って、そういうことを言っているわけではない。
もっと一言でいうと、これらが自分らしさであり作品でもあるじゃん?
自分の写真系譜を作品って、なんだか偉人っぽくて、壮大でおこがましいかもしれないけど。
この重ねてきたものっていうのもが間違いなく自分の写真におけるアイデンティティである。
そうなると撮ることを辞めたらとてつもなく悲しいなと思った。
(辞めるつもりはことさらないが)
もうね。最終的にいくつく答えは一緒で、迷っても撮る。
「写真をやっています!」って口に発している限りは、今撮っている写真たちは鼓動であり脈な気がするから、会う人々に最近これ撮っています、これ撮りました。って普通に提示できるように撮っているのは大前提。
そして、時に過去の写真たちから作品として紡ぐのもいいんでないかなーって。
そんな秋初めの今日この頃。
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