私の芸術運動160あの頃沖縄で。

私が芸術として表現したいこの言葉にできない感情の正体は?私はずっとそれを探して旅に出て何かを持ち帰り絵に描いて来たんです。

初めて一人旅に出始めたのが23歳くらいの頃だったかと思います、私の実家は母子家庭で私の下に2人の弟がいました、生活が苦しかったのか?というと私はそうは感じませんでした、お母さんが上手くやりくりしてそういう思いを私達にさせたく無かったのか?生活に苦しむほどじゃ無かったのか?はわかりませんが、大人になってからおじいちゃんに言われた言葉が今でもふと思い出されます。

私が学生の頃にじいちゃんやばあちゃんも引き連れてお母さんに家族旅行に何度も連れて行ってもらいました、初めて見た沖縄の綺麗な海と突き抜ける様な青い空の色は今でも私を突き抜けてゆきます。そして感じたことのない日差し、植物、食べ物、洞窟、街並み、今思えば非日常というものを味わったのはあの沖縄が初めてだったかもしれません、他にも色んなところに連れて行ってくれました。

自分で言うのもなんですが、子供の成長は早いもので、私が美容専門学校に進学した頃、お付き合いしていた人の実家が偶然沖縄でした、夏休みには恋人の帰省について行って初めて家族とではない旅行に行きました、飛行機に乗って、街を巡って、美味しいものを食べて、一泊二千円の壁に大穴が空いた安宿に泊まり、夜の街を徘徊して、私達しかいなかったのに三線の演奏と沖縄の歌をゆらゆら踊りながら聞かせてくれました、何やら美味しいものを飲んでふわふわとしながら宿に戻りました、部屋に空いた大穴から外が見えそこから流れてくる夜の風が沖縄にいる事を強く実感させました、朝方に汗ダラダラで起き海水浴場に備え付けられた仮設シャワーみたいなので汗を流してリュックを背負って宿を出ました、この日は恋人の親族が車で迎えに来てくれてそのまま街を後にしました。何やら話す親族のおじちゃんの言葉がいまいちよくわからないままにしばらく走ってゆくと大自然がいきなり目の前に広がり家一件見当たらなくなりました、乗り物酔いしながら私は必死に窓の外を、その大自然を眺め続けたのでした。その時見た自然はサラッと心地の良い緑というよりは呼吸も浅くなる様な蒸れたエネルギーを蓄えた物でした、形もさまざまでまさに生き物のという感じがしました、いきなり木の根が地面からメリメリと音を立てて器用に足の様になってゆっくり歩き始めても私はこれが沖縄なのか!!!!と疑わなかったでしょうね。

そんな大自然の先でいくつかの街を抜けると、空とさとうきび畑に挟まれた一本道を進んでゆきました、牛がいたり、道の真ん中にトラックが停めてあったりして何度も停車しながらも先を急いでいたわけじゃない私はその待ち時間すら楽しかったのです、運転してくれていた親族のおじちゃんも声をあげて笑って何かを歌い始め私も自然と笑って体を揺らしてしまうのでした。

そしてようやく辿り着いたのが今帰仁村という村でした、家の中が覗き込めるくらいの低い石垣に囲まれて何軒かの家があり、その石垣が迷路の様に入り組んで村を形作っている様でした、見える家は私の知る家ではなくて、木造で大きな家、窓やドアは全て開け放たれていて視線が部屋の中を通った向こうには真っ青な海と空が光っていました。

親族の方々が石垣の向こうからこちらに声をかけて来て一気に囲まれててしまいました、私はオドオドしながら肩身の狭い思いをしていましたが皆さんはそんな事気に求めずに話してくるのですがその言葉がいまいち聞き取れないままに家の中に案内され私はいよいよ沖縄のおばあちゃんにお会いする事となりました。

みんながおばあちゃんを大声で呼んで私の恋人も「おばあちゃんただいまーー」と叫んでいましたが一向に出てこないのです、私はなんだか不安になって来ました。すると車で迎えに来てくれたおじちゃんがドシンドシンと家に上がって探しに行きすぐに戻って来て笑いながらこう言ったと思います

「耳が遠いからなんも聞こえないままお茶飲んでら」

みんなそれを聞いてゲラゲラ笑いながらドシンドシンドシンドシンと上がってゆきました、私は一番後ろにくっついて「お邪魔しまーす」と言って玄関をくぐりました。

私は今日このおばあちゃんの家に泊めてもらう事になっていて、ドキドキしながらおばあちゃんと初対面しました、孫に会えておばあちゃんは嬉しそうに抱き合っているのを見て私も嬉しくなりました、すると私に目線を移し怪訝な表情を浮かべた様に私には見えました、私はお辞儀して自己紹介をすると少し表情が柔らかくなった様に見えて私も肩の力がフワッと抜けた様に感じました。

そのあとはおじちゃんの家に行って自分でつけているハブ酒を見せてもらったり、三線をひかさせてもらったり、砂浜までいって海を眺めたりして日がくれてゆきました。夜にメガネをかけた二十代後半くらいの男性が私に声をかけて来て買い出し付き合ってというのです、私は言われるがまま近所の売店までゆき何やら色々と買い戻ると庭にBBQの様な準備がなされて周りに椅子がずらっと並んでいました、みんなせっせと料理を運んだりしながらゲラゲラ笑っています、その頭上を電球がいくつも括り付けられたコードが何本も巡っていてパチっとスイッチを入れるとペカーッと光ってとても綺麗でした、みんな各々椅子に座り始め知らない人がさらに何人も増えていましたが私はワクワクドキドキしながら「いいなぁーこういうのっ!」と言いました、隣の人が東京じゃこんなんないか!!と言ってゲラゲラ笑い楽しい夕食が始まったのでした。

何を話したのか?何を言っているのか?はもうよくわかりませんでしたが三線の音に合わせてみんなが何かを歌い踊り出し、ガブガブ飲んでガブガブ食べました、途中またメガネの兄さんに追加で買い出し行こうと言われてまた私は誰かいまだに知らないその人とふわふわしながらタバコを吸って売店へと向かいました、なんか色々と話したのですがすっかり内容は忘れてしまいましたが私はなんか嬉しかったのを覚えています。

フラフラと歩き、石垣づたいに迷路を攻略して私はやっとあの家に戻って来ました。

「今日はお世話になります」

「はい、どうぞ」

ギシギシと廊下の木が音を立てて家の中を風が吹き抜けていました、本当に気持ちのいい家で私はくつろいでうとうとしていると早く風呂入れと言われていそいそと風呂に入り、出てくるとさんぴんちゃが置いてあってごくごくと飲み干しました、そのあとは恋人の通訳を交えておばあちゃんと話し、ケタケタと笑っているおばあちゃんは立ち上がり恋人とおばあちゃんが一緒に別の部屋で寝てあんたはそこに敷いてある布団で寝なさいと言いました、わかもんがなんかあっちゃいかんという様な事を言っていたと思います。僕はそのまま泥の様に眠りました。

翌朝「いつまで寝てんだい?」と起こされると家の中をまた沖縄の風が吹き抜けて燦々と日差しが照っていました、テーブルの上にはマグロ?とご飯と漬物などが並んでいて早く食べなと言われるがままマグロ?にシークワサーをかけて食べました、東京で食べるマグロと違ってプニプニしていて濃いピンク色をしてました、シークワサーをかけると表面が白く変色しするのです、パクッと一口食べると不思議な食感とシークワサーの香りが口いっぱいに広がって泣き出しそうになるくらいに美味しかったのを覚えています。

食器を片し、布団を畳んで、さんぴんちゃを飲んで、リュックを背負って外に出るとおばあちゃんや昨日のみんながお見送りに来てくれました、「またね」と声をかけてくれて私も「また!」と手を振って旅立ちました、その後は世界遺産の遺跡をみたり美ら海水族館に行ったりしながら那覇に向けて移動してゆきました、途中那覇に帰るというタクシー運転手に出会い、ガソリン代だけくれればいいという契約を結んでいきたいところまでと運んでくれました、私達は首里城に行き、その後は温かい小雨の中を歩きながら市街地に向かって歩いてゆきました。

この旅から実家に帰って来た私をおじいちゃんは羨ましがりながらこんな話をしました

「お父さんが死んだからって理由でお前のお母さんは子供達に損はさせない様に色んな経験をさせようって頑張った、それがこうして大人になってこんないい人たちと出会ってこんな素敵な旅ができる様に成長したんだなー。お母さんもお父さんも喜ぶさ」と言ってました。

私は30歳を超えた今でも旅によく出ます、コロナ前は初めて1人で海外に行ったり、友達とカンボジアの遺跡巡りをしたりして、コロナ禍後は国内を色々と見て回って、その旅先で毎回実家にお土産を送り、思い出話を持って実家に帰ります、ここでは書ききれないほどの旅先でのエピソードがあって、それらが繋がって私の絵画へと集約されてゆきます。

絵を描いていて知った事は、ここでは無いどこか遠いところに何かがあるのでは無くて、自分の日々のたわいも無い日常がそういう縁を産むのだなと思う様になりました、私は絵を通して言葉にできない何かを、そこから得られる感動やインスピレーションが人生を彩ると言う事を、そういう私なりの観点を切り取ってこれからもずっと絵にしてゆきたいと思います。

たわいも無い日常過ぎてつまらないかもしれませんが、私はそこに人生の実を感じます。

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