私の芸術運動66高度なコミュニケーション
ごくごくありふれたたわいも無い事が私の芸術の正体であり、物事はある様にただそこに在るという私の芸術観がそのまま絵画へと昇華されています
ただそこに在るものに意味を見出すのは人間であり、さらに言えばただそこに在るものは鏡の様に見る人の心を映しています
物にはそれぞれ役目があります、物という漢字は生命の無い物質と感じます、者という同じ読み方の漢字には魂を感じます、しかし実際は人間が生活していくのに分けて考えているだけで実際それはただそこに在るというのが真実です
上の絵は私がこの前描きあげた目黒川水門の絵です、モチーフは水門という用途の確立した物です、しかし私はその用途以外に意味を見出しだのでした
私は目黒川水門が役目を終えただそこに在るものになったとしてもそこに意味を感じます、人間の定めた用途など実は関係ないのです。
だからといって物は大切に使いましょうね。笑
しかし、それにばかり囚われていては半分のものもしくはそれ以下のことしか理解できないままです、これはもう芸術なのです、例えそれが絵や音楽や彫刻や文に結晶していなくても、インスピレーションを受けた時点で芸術は始まっています
芸術とは言語よりももっと広大な可能性を秘めたコミュニケーションだとわたしは考えています、先ほども例に挙げた目黒川水門ですがそこからインスピレーションを受けた私が絵画へと昇華させそれを見たあなたは実際に目黒川水門を見るのとはもちろん違った印象を覚えます、用途も変わらず、あくまでも水門であるのは変わらないままに、私は目黒川水門を元に違うものを作り上げて皆さんにコミュニケーションを投げかけているのです。
モチーフに遭遇した時、画家はその対象と心の深い部分で交信します、本当は全ての人が同じ様に共鳴し合っているのですが気づけないでいるだけです、多分日常生活を送る中でマンネリなど本来はあり得ず、常に新規の今となっているはずです、これは物というモチーフに拘らず生物、人間などにも同じ様に作用しているはずです
だから、自分はダメだと思って心が重たくなっている人は現代に随分多いと聞きますが、もしあなたがそうなら、私は断言いたします、あなたが思っている事は貴方、もしくは周りのごく少数のたわいも無い意見に過ぎないという事、その他大勢の人々が無意識に定めた物事の在り方など関係ないのです、それぞれが思った様に物事を見ます、しかもそれは実は自分の心を投影した物であり、そこから解き放つ能力が芸術です、能力と言いましたが才能ではありません、なんら特別な物ではなく、ごくごく普通のありふれた事です、しかしそれが実は強大な力を持つコミュニケーションであり表面的に誤魔化せる言語や表情とは一線を画すものであると私は考えています。
だから私は周りからどう言われようと画家である事に間違いは無いと思えるわけです。
馬鹿でも良いです、馬鹿ならなお良いのかもしれません
強烈に孤独を感じた時に特に顕著にその感覚を得られると私は感じています、だから私は日常生活の中で小さな孤独を探しています、孤独に耐えられない時、それは自分の心に向き合えない時であり、自分が作り上げた周囲へのイメージと戦っているのだと思います、自分で自分を洗脳している様な状態でしょうか?こういうタイプの孤独は本当に辛いものです
そういう孤独を打ち破って心の中に静寂な歓喜が沸き起こる感覚を私の絵を通して少しでも感じていただけたらと思います。
ではまた!!
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