仕事はおもろい!!!|自己紹介|ourly砂川
はじめまして!!砂川弘樹(すながわひろき)と申します!
はじめましてでお話させていただく方やディスカッションをさせていただく方に少しでも私のことを知っていただくために本noteを書くことにしました。
私がどんな人間なのか、今までどんな人生を歩んできたのか、など書いてますので、ぜひ最後まで読んでください!
■幼少期〜小学生まで
兵庫県尼崎市で生まれました。
芸人のダウンタウンの地元で、治安が悪いことでよくいじられてますね。
落ち着きのない子どもだったようで、よく母親を困らせていたようです。
「勝手に鍵を開けて家を出ていき、近くの公園のジャングルジムの一番上まで登って、降りられずに泣いていた」という話は今まで100回くらい聞きました。
教育熱心な母の影響で、小学校入学と同時に、学研教室に通いはじめました。
(今考えると、小学校1年生〜高校3年生まで塾に通っていたので、塾なしの人生は大学生になってからでした・・・)
中学受験のために小学校6年生の時には、塾を3つ掛け持ちし、夏休みの勉強時間は1日に12時間ほど。
なかなかすごい小学生ですね。
他にも、ボーイスカウト(3年間)、極真空手(8年間)なども習い、いろいろさせてもらってたなと今では感じます。
中学受験は無事第一志望校に合格し、ほぼ中高一貫の大阪教育大学附属池田中学校に進学しました。
(中学→高校で成績下位3割が進学できません。)
■中高校時代
中学校から野球を始めます。(極真空手は痛いので辞めました)
とはいえ、中学校1年生から8割以上の学生は塾に通うような学校で、部活に本気という学校ではありませんでした。
もし人生をやり直せるならどうする?と言われたなら、迷わず「高校野球を本気の本気でやりきる」と答えるでしょう。
高校時代は、部員が1学年6人ほどしかおらず、いろいろなポジションを経験しました。
主にはピッチャーと外野を務め、最後の大会でも何回か勝つことができ、万年1回戦負けだった僕たちとしては、最高の結果で終えることができました。
受験の方はというと、ほとんどの学生がとりあえず東大・京大・阪大・医学部のいずれかを志望します。(結果、半分以上は浪人しますが)
僕も多分にもれず高校3年生では、第一志望校不合格。
1年間河合塾の医進館にお世話になりました。
1日15,16時間机に向かって猛勉強するも、第一志望だった医学部には合格できず。
受験にも完全燃焼し、大阪府立大学の工学部に拾っていただき、進学します。
■大学時代
大学ではサークルに入ってゆるくスポーツをして、バイトをして、友達と遊んで、、みたいな大学生活を考えていました。
しかし、どこか心の奥底では、何か本気で打ち込んで誇れるような4年間を送りたいとも思っていました。
そんな時に出会ったのが、アメフト部でした。
スポーツとしての魅力もそうですが、2年前に2部リーグ優勝を果たしており、本気で1部リーグ昇格を目指しているチームというのに惹かれ、ここで4年間捧げようと決めました。
今思えば、アメフト部との出会いで人生が一気に変わったなと思います。
▽1,2年生
アメフトの花形ポジション・QB(クウォーターバック)を務めることになります。
アメフトの勝敗はQBの実力で9割決まると言っても過言ではないほど、「実力」と「頭の良さ」が求められます。
(野球で言うと、ピッチャーとキャッチャーを足したようなポジションです。)
比較的、楕円球を投げるのも上手な方だったらしく、チームからは将来を期待されながら練習に励んでいました。
一方で、思っていたチームとは少し違いました。
『これが本気で1部昇格を目指してるチームの雰囲気なのか?』
『上回生は理想と現実のギャップを本当に理解しているのか?』
と1年生の冬から感じることが多くなってきました。
2年生になり、高校アメフトのタイトルを総ナメにしたスターQBが入部します。
その後輩の投げた一球を見ただけで、心が折れかけるほどには絶望的な差を感じたあの瞬間は今でも忘れません。(その後、後輩はリーグでも新人賞をもらうなど、大学でも抜きんでた実力を発揮していました。)
▽3年生
2番手QBとして努力すると同時に、他のポジションで試合に出ることを決心します。
この時期から1個上の幹部ミーティングに参加させてもらうなど、チーム運営に少しずつ関わっていきました。
この時、チームは2年連続最下位で、入れ替え戦にギリギリ勝って残留という成績で1部昇格には程遠いチーム状況。
ただ、この時の主将がカリスマ性がすごいことに加え、チームの現状を理解し、色々取り組んでいるのを見て、『このチームなら、、、』とどこか期待していました。
そんな夏のある日。当時の主将の部屋でびっくりする一言を告げられます。(勝手に主将の部屋に上がり込んでほぼ居候状態でした。)
『次の主将はお前やと思う』
私はプレイヤーとしても控えでしたし、周りからの人望があるわけでもない、リーダー経験もない。同期にもっと適任な選手もいる。
何よりこの人の後に主将をやる自信もなかったので、『それはないだろう』と思っていました。
夏の合宿前。1個下のスターQBが大怪我し、私がQBとして秋シーズンに出場することが決まりました。
結果、チームとしての力が及ばず、3部リーグ降格となってしまいましたが、例年の倍くらい得点できるオフェンスチーム作ることができ、手応えのある試合が多かったように思います。
また個人としては秋シーズンを通して、チームの軸プレイヤーにまで成長でき、リーダーシップも少しばかり身につき、チーム投票や同期からの推薦、そして自分に対する期待をこめ、主将を務めることが決まりました。
▽4年生(主将)
新チーム始動。
「1部昇格したくて入部したけれど、そこへ挑戦できない」。
そんなシーズンが始まりました。
もちろん2部昇格を目標には掲げますが、何かワクワクしない。。。
そこで掲げた目標が「4年後に1部昇格」
そのために、今年2部リーグ昇格はマスト条件。
今年だけ勝てるのではなくこの先このチームがずっと勝てるように、後輩たちが4年後に1部昇格を果たせるように、チームの土壌を作っていこう。
そんな思いを同期と話し、「4年で1部昇格」を目指しチームを始動させました。
今までのチームとは同じでは勝てないからということでチーム改革に取り組んだ1年でした。(詳細は割愛します)
結果として3校同率優勝となり、最後に抽選を外してしまい、入れ替え戦出場および2部リーグ昇格は叶いませんでした。
しかし、人生で初めてやりきったと胸を張って言える期間を過ごすことができたんじゃないかなと思っています。
個人としても連盟から表彰いただくことができ、プレイヤーとしても一定活躍ができました。
2部リーグ昇格、1部リーグ昇格は後輩に託し、コーチとしてチームを強くすることを決めます。
■大学院時代(引退〜就職まで)
ここまであまり自分の将来について考えていなかったので、とりあえず大学院に進学しました。
そんな感じだったので、大学院ではまっったく研究はせず、以下のようなことに取り組んでました。
・自己理解を深め、ここで働きたい!と思える企業を見つけること
・アメフト部のオフェンス監督として、最強のオフェンスを作りあげ、3年後1部昇格を果たすチームを作ること。
・長期インターン(ライター、人材会社にてテレアポ、webマーケ企業)
・ダーツ
・ゴルフ etc…
大学院1年生の9月には休学し、3月には退学しました。
▽コーチ
自チームには、全国のトップレベルのチームのコーチを出来る限り紹介していただき、アメフトを勉強しました。
自分はそこそこ賢いと思ってましたが、あまりのアメフトの知らなさに驚愕します。
また、コーチの活動を通じて、次のようなことを学びました。
・人を変えることはできず、自分のアクションを変えるしかない
・「期待」ではなく「信頼」する
・外の情報にアクセスする重要性(外のリソースを使いまくる)
・ビジョンを伝える
見る人が見れば、「当たり前じゃん」と思うことばかりかもしれませんが、とにかく強引に人をコントロールしようとしていた今までの自分にとっては、一気に価値観や考え方が変わったコーチ生活でした。
おかげで、新たなオフェンスシステムの構築、新たな取り組みが功を奏し、オフェンスが爆発。
1年目に2部復帰、2年目は2部3位と順調に成果を残していきました。
▽就職活動
「仕事や社会人は面白くない」そう思い込んでいた私が、アメフト部の活動で思ったことは、「こんな社会人生活を送りたい」でした。
めちゃめちゃ自己理解を深めて、いろんな社会人にアポとって話を聞いて、、、とした結果、ベンチャー企業に絞って就職活動をします。
そして、以下の4つを軸に就職活動をしていました。
(今振り返ると、よくわからない軸な気もしますが・・・笑)
1.自分にとって刺激的な環境か
2.チームを大事にしているかどうか
3.成長市場であるかどうか
4.ワクワクするかどうか
そんなときに出会ったのが、ビットエーでした。
軸に全て当てはまったのはもちろんですが、吉田社長をはじめとした人の良さや面白さに惹かれ、入社を決めます。
■ビットエー入社〜現在(22/8)
ビットエー入社
入社早々、新規事業のourly事業部に配属していただきました。
当時、ourlyはプロダクトの構想だけはできていましたが、まだ開発は全く出来ていないという、立ち上げの初期の初期のフェーズでした。
(そういえばですが、まだourlyという名前もありませんでした(笑))
メディアの立ち上げやLP作成などに携わったのち、営業にうつることになります。
転職を決意
実は、2021年11月に上司である飯野さんとの1on1でこんなことを言いました。
「飯野さん、転職を考えてます。」
自分の将来のことや家族事情、当時の会社への不満(皆さんすみませんでした)など、さまざま理由が重なってではありましたが、どうしても行きたい会社がありました。(今考えると、ourlyから逃げようとしていたのだと思います。)
その後、その企業の社長からもOKをいただきもうほぼ確定かなという状況だったのですが、支社長の人からこんなことを言われます。
『もうすこし今の企業で頑張って、成果を出してきてほしい』
目の前が真っ暗になりました。
「どうにか今すぐ行けないか?」「何をすればいけるだろう?」「砂川弘樹という人間の提案書を作る?」「半年無給でいい。ダメだと思ったらすぐクビにしてくれて構わないと伝えてみる?」
そんなことをグルグルと考え、悩んでいました。
その企業に行くために、成果を出そうと奮闘する日々が始まります。
すると、以下のような感覚を得ました。
「成果を出そうとする」→「お客様が何に価値を感じてくれるのか賢明に考える」→「それを提供しようと頑張る」→「契約いただける(価値を感じていただける)」→「楽しい。もっと価値を届けたい。」と感じる
こうやって文章に起こすと、営業にとって基本的すぎることなんですが、上記のことが初めて実感でき、見えてる世界が一気に変わったような感覚でした。
同じくらいの時期に、当時週1回業務委託で手伝ってもらっていて、現在営業の上司である髙橋新平さんに、以下のようなことを言っていただきました。
・会社への不満など言語道断。その状況であることを選択しているのは誰なの?
・どんな環境・状況であれ僕らのやることは、『目の前のお客様に価値を届けること』だけ
・次のステージを考えるのはもっとお客様に価値を提供できるようになってからでもいいんじゃない?
これらの言葉は、今の僕の原点です。
転職を考えていた約3ヶ月は、本当にいろんなことに悩み、いろんな感情を経験しましたが、それを超えられたからこそ、考え方やスタンスがまた一つ成長できたんだなと思っています。
今では、めちゃめちゃ楽しくゴリッゴリに働かせていただいてます。
これからのこと
今は、あまり遠くのことは考えないようにしています。
「ourlyというサービスで、目の前のお客様に価値を届けること。」
「どうすればourlyに価値を感じていただけるのか」
これだけを考えるようにしています。
ただ、やっぱり今思うことは「仕事はおもろい!」ということ。(数ヶ月前まで転職を考えてた人間が言っても説得力ないですがw)
今の会社も大好きです。メンバーも刺激的な人ばかりですし、常にもっと自分を高めないと、と思わせてくれます。
Ourlyは一言で言うと、次のようなことが実現できる社内のコミュニケーションを活性化させるツールです。
・会社のメッセージをしっかり届ける
・社内の人の理解を深める
・普段関わりがない人とのコミュニケーションのきっかけを作る
このサービスを提供することで、1人でも多くの人が、「自分の会社が好きだ」「仕事が楽しい」「自分の仕事は誇らしい」そんなことを感じてもらえれば、心から嬉しいです。
以上になります。
かなり長くなってしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました!!
何か質問などありましたら、ぜひお話しする際に聞いてください!!
よろしくお願いします!!