見出し画像

ジュラール・ジュネット『物語のディスクール』要約

ある時作業したジュラール・ジュネットの『物語のディスクール』要約を、急に思いついて載せてみます。まずい点もあるかもしれませんが、、(全部で3万字弱あります)


物語récitという語を、「物語言説récit」「物語内容histoire(または物語世界diégése)」「語りnarration」という3つの概念に区別する。物語言説は出来事の報告を引き受ける、物語内容を表すテクストのこと、物語内容とは出来事の連なりと個々の要素の諸関係を、語りとは物語言説を物語っている行為のことを指す。語りは、物語内容が現実のものであれば物語言説の存在条件であり、物語内容が虚構のものであれば、物語内容・物語言説の存在条件となる。

物語にかんする以上の3つの水準のうち、小説作品において直接の研究対象となるのは物語言説のみである。小説は虚構であり、物語内容や語りにかんする情報源は、当のテクスト以外にないからだ。『失われた時を求めて』にかんして言えば、語り手=主人公のマルセルの語りと、『失われた時』を執筆したプルーストの行為を混同することはできない。一例を挙げれば、執筆時期が第一次世界大戦以前の数年間にあるにもかかわらず、語りは第一次世界大戦後相当の時間が経過した時点で語られていると思われるからである。

小説が、語り手によって「語られた」「物語言説」を通して読まれることの謂でもある。つまり、物語内容と語りは物語言説に示されている痕跡が認められる限りで存在している。

なお、物語言説が「物語」を語るものであるためには対象が「物語」の内容を持たねばならない(cf. 出来事やその連なりを報告しないエッセイ)こと、また「物語」の中身をもっていてもそれが「語られた」ものでなければ物語「言説」とならない(cf. 何らかの資料体)ことから、「物語言説」は物語内容と語りと関係することによって存在してもいる。したがって物語言説の分析はこの3つの水準のあいだの関係(物語言説-物語内容、物語言説-語り、物語内容-語り)を研究することを含んでいる。

研究対象を物語言説と定めたうえで、さらに具体的な問題設定を行う。

トドロフは、物語言説をめぐる問題を3つに区分した。ひとつは「時間」で、物語内容の時間と物語言説の時間の関係を問題にしたが、ここでの「書く時間」と「読む時間」にかんする考察は「態」に振り分けられるべきである。ふたつめの「相」は語りの「視点」の問題で、「叙法」に振り分けられる。第三の「叙法」は3つの問題系を含んでいる。第一の示すことと語ることをめぐる距離と、第二の話法にかんしては「叙法」に、第三の物語言説における語り手と読み手のありかたに関しては「態」に振り分けられるべきである。
「叙法」は物語の「再現」の仕方(述べかた)の問題であり、「態」とは語りがどのような状況に置かれているか、物語言説に語り手と読み手がどのような仕方で含み込まれているかの問題である。

以上の3つの問題設定は、それぞれの問題で物語の3つの水準にかかわる。時間と叙法は物語内容と物語言説との関係に、態は語りと物語言説、そして語りと物語内容との関係に作用する。

第一章「順序」

物語言説の時間というのが、物語内容の時間と比べて、置換の操作をともなう擬似的なものとしかなり得ないことについては第二章でみる。

[錯時法]

物語言説のなかでの明確な指示や間接的な指標による推測によって、物語内容の時間的順序を定め、それと物語言説の時間的順序の関係を考えるのが本章の課題である。物語内容の順序と物語言説の順序の不整合を「錯時法」と名付ける。

西洋の文学的伝統において、まず「出来事の渦中へ」入ってゆき、そのあとでその説明を加えてゆくという語り方(つまり錯時法)は、ひとつの型である。(『失われた時』の別バージョンとも言える『ジャン・サントゥイユ』を例に、錯時法の時間構造を分析する。以下において、『ジャン』の一節の錯時法の移行/閉止・等位/従属関係が図式化される。)先説法とは、あとから生じる出来事をあらかじめ語る操作、後説法とは、その時点より先行する出来事をあとになってから語る操作を指す。

以上のような時間構造は物語の時点が増幅すればそれだけ複雑になりうる。

錯時法において、物語の時点から時間がどのくらい先行・遡行しているかの時間的距離を「射程」と呼び、錯時法が働いているときの物語内容の持続(第二章参照)を「振幅」と呼ぶ。

[後説法]

錯時法にある物語言説に対し、もともとの時間水準にある物語言説を「第一次物語言説」と呼ぶ。ある錯時法に対しては、物語言説の文脈全てが第一次物語言説であると一般に見做しうる。

振幅の全てが第一次物語言説における振幅に先行する後説法を「外的後説法」と名付ける。これに対し、第一次物語言説における振幅に包含される後説法を「内的後説法」と呼び、射程点は第一次物語言説に先行しているが振幅が第一次物語言説におけるそれに及ぶものを「混合的後説法」と呼ぶ。

錯時法を図示してみた

外的後説法は第一次物語言説へと接続しないために、両者のあいだの「干渉」の問題を考慮する必要がない。またその機能は第一次物語言説の「補足」に限られる。他方で内的後説法については干渉の問題を考慮する必要が出てくる。

内的後説法のうち、「異質物語世界的」なもの、つまり第一次物語言説の物語世界と関係をもつことのない物語世界は除外することができる。『ボヴァリー夫人』のエンマの修道院時代は第一次物語言説の物語世界より後に位置する内的後説法だが、第一次物語言説の物語世界に介入してはこない。この種の後説法は第一次物語言説の物語世界を理解するための何らかの役割を担っていると言ってよい。

これに対し「等質物語世界」の内的後説法、つまり第一次物語言説の物語世界と地続きのそれがあり、この場合ふたつに分けて問題を考える必要がある。第一は「追説」もしくは「補完的後説法」と呼ばれるもので、これは物語言説の欠落を埋める役割を果たすものである。このうち時間的な断絶もしくは単なる省略によるものがあり、物語言説がカバーしていた時間のうち、語ることを避けられた事柄が後になって語られることもある。後者を「黙説法」と呼ぶ。物語言説の欠落には単起的なそれの他に括復的な欠落も存在し(括復的については第三章を参照)、それを括復的な後説法で語ることができる。

第二のものを、「再説」または「反復的後説法」と呼ぶ。反復される物語言説のあいだの関係を問題にする必要が出てくる。プルーストにおいては、反復によってかつての出来事の意味が変容するのが特徴的である。はじめに遭遇したとき主人公にたいして持っていた出来事の意味が、その出来事について主人公が何か別の事柄を知り、顧みられることで変わる。意味の弁証法が展開するのである(ジルベルトとマルセルに対する「無礼な」身振り)。

混合的後説法については、振幅を考えて区別を図る。第一次物語言説に接続せず省略して終わるものを「部分的後説法」と呼び、それに対して第一次物語言説に接合してゆくタイプを「充足的後説法」と呼ぶ(実質的に前者は外的後説法で、後者は混合的後説法を干渉の観点から呼び直したものか)。充足的後説法の機能は、物語のいきさつの全てを物語ることにあって、多くの場合それは物語言説の重要な部分をなしている。充足的後説法には第一次物語言説の中断点にちょうど接合するものがあり、内的後説法についても同様の「充足的」なそれを考えることができる。

部分的後説法からの物語言説の再開の仕方にはいくつかの仕方がある。中断の事実に触れずに暗黙的だったり、語り手が中断前後の事情に介入して両者を縫い合わせるように再開することもある。プルーストの場合、後説法からその場の語りがそれとなく再開する。充足的後説法では第一次物語言説と合流する箇所が問題となる。中断点の場面を繰り返してしまって、物語の進行からすれば不自然な接合をすることもある。他方で接合の場面で語り手が介入して場面転換を滑り込ませるなど、巧みな接合の仕方もある。プルーストには、この接合を見て見ぬふりをする節がある。先の重畳的な繰り返しや、接合をまったく顧慮しないかのように後説法の部分を引き伸ばしてついには第一次物語言説の中断点をも越えていってしまう点である。

[先説法]

西洋の物語の伝統において、後説法と比べ先説法は用いられることが少ない。その伝統にはサスペンスへの配慮や発見的な語りという考え方がある。一人称の物語言説は、回顧の性質が明らかであるために、予想や暗示の語りに適している(この辺り、回顧はそうなのだろうが回顧において当人が自分の経験についてどれくらい知っているかの程度については差異があるように思われる。そしてこれは一人称の回顧がある意味全知を伴っているという『失われた時』の物語言説の性質にも関わっているのかもしれない)。先説法とは、現に語られている物語の時間に先立って何かを語ることであるから、第一次物語言説における時間的に最後の場面より先の出来事について語る物語言説はすべて先説法となる。先説法も「内的先説法」と「外的先説法」に分けることができ、この場合後者である。その機能はふたつで、出来事の帰結、すなわち後日談のようなものを形成することと、またかつての物語言説を先説法において認証することである。

内的先説法の問題は、内的後説法と同じく、干渉をめぐってある。同様の理由で、異質物語世界の先説法は除く。その上で、内的先説法は「補完的先説法(cf.追説)」と「反復的先説法(cf.再説)」とに分けられる。補完的先説法の場合は干渉の懸念はない。後説法のときと同じく、括復的先説法というものがありえ、この場合、括復的語りは出来事に最初に接したときに行われる事が多い。

反復的先説法は、それが後にみられる物語言説と重複するということから、ふつう手短にしか提示されない。それは予告の働きをもつため、以降そう呼ばれる。予告の目的は読み手に期待感をもたせること、あるいは物語に一貫性をもたせるための接着剤(正当化)としても用いられる。

予告は布石とは異なる。予告は後出することが明示されるのに対して、布石は後にもでてくる要素が提示されるだけである。その意味が明らかにはされずに現れることで、後に拾い上げられることとなる。布石は物語を読む際に私たちが意識せずとも働かせている物語の展開にかんする予測のようなもの(「こうなっているのなら、こうなるだろう」)に拠っていて、本物の布石にたいする「擬餌」にかんしても同様である。

振幅が第一次物語言説における時間におよぶ錯時法を充足的錯時法と呼び、先説法についてこれを考えるならば、先説法はほとんどが「部分的先説法」であることが分かる。先説法はその開始も終止もあっさり打ち切られることが多いのだ。

これまで錯時法は、物語言説の基準時や、それと錯時法として語られる部分との関係がはっきりしているということが前提にあった。実際の物語言説においては、異なる時点の挿入があったり、そもそもどの時点に位置づけられるのか分からないといった場合があり、問題は難しくなってくる。

[空時法に向かって]

まず「複合的錯時法」を考える。『ジャン・サントゥイユ』のときにすでに見たものだが、より大きな物語の水準でもみられる。そのひとつがスワンのオデットにたいする夢想である。かつてスワンがオデットとの未来を夢想したことが語られ、それが語りの時点で実現している事柄と相反することによる効果がある。他方で物語言説におけるある時点から、未来においてその時の出来事が語られることを予想する、という場面がみられる。この場合、未来を経由して過去としての現在の出来事が語られることを予想しているわけである。この結果、予想が物語言説における過去に属する出来事となり、回顧が物語言説における未来に属する出来事となる、といった事態が生じる。錯時法が第一次物語言説にたいして錯綜するのである。

これに関連して時間の位置づけを行うことができないケースがある。語り手が自在に付加するエピソードがそれで、その出来事は他の出来事との関連で登場するのでなく語り手が物語の出来事と結びつけたために登場するので、他の物語内容との時間関係を推定することはできない。このように語られた出来事や語りは「空時法」において考えられなければならない。

また、他にも空時法として考えなければならない場面が存在する。「トランザトランチック線」という路線に主人公が乗り、停車する毎にエピソードを喚起していくのだが、各駅で喚起される出来事は駅の継起とは無関係である。語り手は、自身に喚起される観点に従って出来事を配列しているのであり、ここで語られた出来事の時間は他の出来事との関連においてではなく自立的に存在している。

第二章「持続」

[不等時法]

物語内容の持続(ある出来事がどのくらいのあいだ続くか)と「物語言説の持続」(ある物語言説がどのくらいのあいだ続くか)の関係を考えることは厄介である。読みの速度には基準はないからだ。

物語内容と物語言説の「相等性」を考えることは難しい。対話の場面は、物語内容と物語言説が対応しているように思われるけれども、発話の速さや間などは物語言説に表すべくもなく、その相等性は限定的であることがわかる。

だが、物語言説の「等時性」は考えることができる。物語言説の速度を、テクストの長さと物語内容の持続との関係によって定義すると、物語言説の等時性は速度の不変性として考えることができる。すると物語言説の等時性は、常に「物語内容の持続と物語言説の長さが一定である」という基準に求められる。これはあくまで理論上のもので、あらゆる物語は「不等時法」によって成立していると言うことができる。

物語世界の時間が完全に正確に示されることは少ないので、以下の分析の単位を巨視的なものに限る。

『失われた時』を大きく分節化し、その次に各単位を時間順序によって配列する。時空間の分断によって11つに分けられるが、ふたつめの作業には、物語世界で言及される史的事実と作品内部の時間順序の食い違いと、各期間の順序関係や期間の不明な点を捨象してかかる。すると、『失われた時を求めて』の物語言説の速度をおおよそ以下のように捉えることができる。

《コンブレー》──一八〇ページで約十年。 《スワンの恋》──二〇〇ページで約二年。 《ジルベルト》──一六〇ページで約二年。 (ここで二年間の省略。)
《バルベック》
──三〇〇ページで三、四ヶ月 。
《ゲルマント》──七五〇ページで二年半。ただし、この要素連続自体、きわめて大きな変化を含んでいる。ここでは、一一〇ペ ージがヴェルパリジス夫人による招待──三時間程度のはずだ。…
《バルベック》
──三八〇ページでほぼ六カ月。
ただし、そのうちの一二五頁は、ラ・ラスプリエールでの夜会を物語ることに被されている。
《アルベルチーヌ》
── 六三〇ページで約十八カ月。
ただし、そのうちの三〇〇ページはたった二日間のことを物語るのに費され、…
《ヴェネチア》──三五ページで数週間。
ここで省略があって、どれくらいかは不明であるが少なくとも数週間が中断されている。
《タンソンヴィル》
──四〇ページで「数日」。
(省略により、約十二年が中断。)
《戦争》──一三〇ページで数週間。
ただしその大半は、ただ一度の宵を物語ることに費されている 。
(省略により、「多くの年月」が中断)
《ゲルマント大公邸でのマチネ》
──一九〇ページで二、三時間。

以上からわかるのはまず「振幅」の大小で、一分にひとページ費やされるものから一世紀をひとページで報告するものまである。第二に、結末に向かうにつれ物語内容の持続の短さにたいして物語言説の長さが増し、省略の規模も大きくなるということ、要するに物語言説の不連続性が増大していることがわかる。この古い出来事ともっとも新しい出来事との対照は、当初からプルースト自身によって目論まれていたものだったと思われる。

物語にかんする速度は、理論的には無限に多様であるはずだが、小説の伝統において、4つの基本的なテンポに還元することができる。ゼロの物語言説が幾ばくかの物語内容の持続に対応する「省略法」、省略法と後の情景法のあいだのテンポまでをカバーする「要約法」、限定的ではあるが相等性を保持している「情景法」、物語言説のある長さが物語内容の持続ゼロに対応する「休止法」である。

各テンポについて、以下のことが成り立つ。

休止法──TR=n TH=0 ゆえに、TR∞>TH 情景法──TR=TH
要約法──TR<TH
省略法―─TR=0 TH=n ゆえに、TR<∞TH
(TH=Temps d'Histoire 物語内容の時間TR=Temps de Récit 物語言説の擬似時間)

ここから見て取れるのは、要約法とは対照的なテンポをもつ、TR>THの式で表されるテンポが不在であることである。プルーストの長大な情景法はこれにあたるのではないかと思われるが、詳しくみると、それは語られている物語内容の外部の要素であったり、描写的な休止法によって中断されているものなので、当てはまらない。もともと主に「対話を伝える」情景法にはその対象との関連からテンポは一定するものなのである。(上の「描写的な〜もの」は後の記述と矛盾している。TR>THの自分の具体的としては平野啓一郎「Re:依田氏からの依頼」が言えそう。この場合、主人公が特殊な時間経験におかれているという設定がある)

[要約法]

要約法とは、登場人物の言動の詳細を省いて、数日乃至数年の期間を数行から数節など、物語の時間を短く圧縮して報告する語りのことである。

要約法は、情景法と比べると、物語における重要性が低い。物語がありありと展開する後者に比して簡略なためであり、要約法はふたつの情景法をつなぐ機能を担ってきた。要約法と情景法の交替こそが小説の物語言説の基本的なリズムをつくる。(充足的後説法の回顧的な箇所の大半がこれに属しているという指摘)

プルーストにおいては要約法によって物語の時間を俯瞰するようなことはない。圧縮は括復的と呼ばれる物語言説によってなされるし、物語の加速化はそれと省略法によってなされる。

[休止法]

休止法もまた『失われた時』には存在しない。ふつう描写とみられている箇所は、括復的な物語言説に属しており、そのため物語言説の速さを減じているどころかその逆である。より重要なことは、描写的と思われるところで物語内容の展開が留めおかれることはないという点である。描写的な記述は、主人公自身が静観する姿と対応していて、つまりは物語内容の一部としてそれらがあるのである。

歴史を顧みると、バルザックが物語の時間の外部で語り手が情報を提供する描写を打ち出した。スタンダールを経てフロベールが、描写を登場人物のパースペクティヴに一致させる。

プルーストはこれを規則にまで高めたと言えそうだ。主人公が静観しているとき、例えば彼が気にかかって仕方なく、読み解くことが依然としてできない秘密やそのしるしが彼に現れている。プルーストにおいて描写に見えるのは、そうした人物の知覚活動や印象の変化、発見、見立ての誤りやその修正等であって、それは一つの物語内容と見做しうるものである。静観のなかにあって主人公の活動は(ときにはげしく)持続しているのである。

[省略法]

物語内容における時間の省略が省略法において考察される。省略された時間の持続が指示されているか(限定的省略法)、指示されていないか(非限定的省略法)を知る作業がまずはじめにあり、後者を考察する際には推理を含まざるを得ない。

省略法は3つに区別できる。明示的省略法は、省略した持続を指示する。その仕方にはふたつあって、ひとつはたんに時間の経過を圧縮して報告するものであり、この場合物語言説は厳密にはゼロではないので、要約法に類似してくる。ふたつめは物語言説が再開した後で省略したことを指示するもので、物語内容の欠如をそのまま模しているという点でこちらの方が省略法の特徴を表していると言える。いずれであっても持続の指示のほかに何らかの情報を経過した時間にたいして付加することができる(その意味ではやはり要約法的か)。

暗示的省略法には、省略を示す直接の指標がない。物語内容の欠落や語りの中断から読み手が推測するしかないものである。この種の省略法を見出すには再開された物語言説の情報や指示に依るわけだが、省略された持続については情報が与えられないのが特徴となる。この沈黙は作品の解釈学の対象となりうる。

さらに、物語に指示が一切ないために、期間も他の物語内容との関係も確定することができない省略法というものがある。後説法はこの種の空白を照らし出す場合があり、これは時間分析の及びうる限界を指示するものでもある。

[情景法]

プルースト以前と以後では、情景法の機能が異なる。『失われた時』に先立つ小説の場合、情景法とは、要約法とセットで機能する、劇的に濃密な物語が展開する物語言説の技法を指した。『失われた時』の長大な五つの情景法の機能はこれとは異なる。これらは、要約法的な箇所に接続されているのではなく、場面の転換、つまりそれまでの物語内容の断絶によるあらたな物語内容の開始に対応している。そしてその情景法は、他の類似の出来事の典型として、つまりは劇的な出来事とは対照的なものとして出てくるのである。

プルースト以前の伝統では、情景法は劇的な集中化が行われる場面であったために、物語内容を中断する描写や話が脇道に逸れるといったことが排されていた。プルーストにおいては、その場にかかわるあらゆる付随的な情報がそこに集結する「時間的な焦点」と情景法はなる。こうした情景法は、その先に展開をもつのではなく、その混沌のまま物語を閉じる。この物語言説の特徴は、括復的と呼ばれる物語言説のあり方の考察と合わさることで、物語の時間性のまったくあらたなリズムを得ることになる。

第三章「頻度」

[単起法/括復法]

(物語世界での)出来事というのは、一度生じることもあれば、繰り返し起こることもある。繰り返しという場合、私たちはそれぞれの出来事を類似性において捉えている。(物語言説における)言表にかんしても、一度だけ語られることもあれば、繰り返し生み出されることもある(繰り返しに関しては同様)。

このように物語内容における出来事と、物語言説における言表は、それぞれ「反復」することができるが、出来事と言表が(どのくらい)繰り返されるかという観点で両者の関係をみると、実質的に3通りのパターンを考えることができる。

第一に、nR/nH(R=Récit, H=Histoire)の場合。物語言説の数と物語内容の数が等しく、語られたひとつの物語言説にひとつの物語内容が対応するパターンである。n=1がもっとも典型的で、n>1であっても変わりがない。「単起的物語言説(単一の物語言説)」と呼ぶ。

第二に、一度起きたことをn回語る場合(nR/1H)。同じ出来事を、時に文体や焦点人物を変えながら、複数回語るものである。干渉の問題を含んでいた反復的後説法と反復的先説法(再説と予告)はこのタイプである。「反復的物語言説」と呼ぶ。

第三は、n回起きたことを一度だけ/一度で語る場合である(1R/nH)。第一のパターンでn>1の場合、物語言説は似たような出来事を取りまとめて(=共説法で)語ることが可能である。このような物語言説を、複数回起きた出来事を一括して引き受けるという意味で、「括復的物語言説」と呼ぶ。

西洋の物語の伝統においては、バルザックにいたるまでこの括復的物語言説は、単起的な出来事に対して背景をなす従属的な役割を担ってきた(役割は描写と似ており、これは類似した出来事を一括してというこの物語言説が精神≒語り手の取りまとめによるものだからだろうか)。『ボヴァリー夫人』がこの伝統を打ち破ったが、『失われた時』は別格である。

括復法は、単起的な出来事のさなかに用いられることもある。公爵夫人邸での晩餐会において、語り手によってある一族の精神を示す長い挿話が語られるが、これはその場の出来事をはるかに越える持続を対象にしている。この種の括復法を「外的括復法(敷衍的括復法)」と呼ぶ。これに対して単起的な場面の持続の一部を括復法によって処理するタイプもある。こうした括復法によって語られた出来事は、互いにべつの類的なものと差し替えの利く存在になる。このときテクストを構成しているのは、公爵夫人邸での晩餐会という単起的なひと連なりの時間ではなく、上のような性格をもった出来事の配分なのである。こうしたタイプを「内的括復法(総合的括復法)」と呼ぶ。そして、プルーストにおいては、外的括復法と内的括復法が混交して、ある出来事とそれが繰り返された際の出来事の区別が付かなくなってしまうということが起きる(ここ、些末かもしれないが、「等質な」物語の出来事であれば内的とし、そうでない「異質な」物語の出来事であれば外的とするとすれば、プルーストの単起的な出来事の括復法的処理が、出来事を明確な区別のしるしのない括復法的情景として描くものとして捉えやすくなるんじゃないかと思った)。

これに関連して、「擬似括復法」とでも呼ぶべきものが存在する。擬似括復法とは、時制上括復的な出来事として提示されているものの、出来事についての報告があまりに詳細なために、それが文字通り繰り返されたとは受け取れないような括復法である。したがってこの種の括復法は通常文彩として、つまり文字通り以上のことが言われておりそうした効果を担った箇所として読まれる。しかしプルーストにあっては、みてきた括復法の例を含めると、これを文字通りに解釈した方がよいと思われる。プルーストにおいては括復法のなかに単起的であることを表す時制や、元来単起的であらざるを得ない行為が書き込まれている。プルーストにおける時間は「括復的な傾向」を有している。

括復法は反復的な出来事の存在に対応していると言えるが、単一の出来事を素材に括復的な物語言説を作り出すこともできる。一度を起きたことを繰り返し繰り返し話の種にする。そのことを(のちに)括復的な物語言説として語り起こすのである。

[境界限定・周期特定・延長]

括復的物語言説というのは、ある系列をなす種々の出来事をひとまとめにして(単位として)語ったものである。これを考えるために、それがいつからいつまでのものかという「境界限定」、それがどれくらいの時間毎に繰り返されるのかという「周期特定」というものを考えることができる。さらにその単位の持続を「延長」と呼ぶ。境界の画定は、明示的な場合(ex.春が近付くと)、非明示的な場合(ex.ある年から)、ある出来事との関連において(相対的に)なされる場合がある。

周期特定も、「毎日」、「時として」、「天気の良い日には」というように同様であるが、周期を複合的に設定することもできる(ex.年代と季節、天気に曜日と時間帯の組み合わせ)。

延長は非常に短い場合があり(ex.毎朝7時)、こうした括復法は「点括的」と呼ぶことができる。たいして充分に物語展開の可能な括復法では、ある系列の出来事を取りまとめて語りながら(抽象化)、具体化をしてゆく「内的境界限定」と「内的周期特定」という手法が存在する。

コンブレーでの毎日曜日の午後、マルセルは〈バラ色の服を着た婦人〉と出会って以後、叔父の部屋に寄らず自分の部屋にそのまま戻るようになる。したがってこの婦人との出会いは、内的境界限定をなしていると言える。この境界は、先と同様、非明示的なもの(ex.それから、」)でもありうる。内的境界限定においては、境界を画するものは通時的な秩序に属しており、画された括復的な出来事同士の関係も、前後の区別を有しているため単起的である。

これに対して、内的周期特定のほうは括復的なものである。なぜなら、「好い天気には…悪い天気には…」というとき、それは両者の交替を表しており、どちらからどちらへという継起関係でなく、繰り返しの事態を示しているからである。例によって非明示的な内的周期特定によって括復的物語言説を分節することも、ありうる(ex.ある時は/またある時は)。これは括復的物語言説に変異と多様を与えるうえで有効である。

内的境界限定と内的周期特定の概念を用いることによって、括復的物語言説に潜む時間の構造を記述することができる。この分析はある印象なり経験を与えるテクストが、どのように成り立っているのかを明らかにする。

フランス語で時間tempsは天気をも意味するが、以上のようにみてくると、プルーストの括復性は天気や季節の移り変わりとともに生じているとも思えてくる。

括復法の多様化の手段としては、擬似括復法に加えてさらに2つ挙げられる。ひとつは括復的物語言説の例証として単起的な出来事を呼び出すことであり、もうひとつは括復法のなかの例外としてそれを導入することである。単起法はこうして括復法に埋め込まれ、西洋の物語伝統とは反対に、括復法に対して従属することになる。

[内的通時性と外的通時性]

括復的物語言説において、通時性がかかわる場面はこれまでにもあった。括復法の時間を境界づける境界限定や、括復法のなかの系列を境界づけて多様化する内的境界限定がそれで、これらはあくまで括復法を機能させるための指標や変異体として用いられていた。

他方で括復的物語言説には、単位内部の持続のほかに(内的通時性)、その外部の通時性(外的通時性)が入り込むという場合がありうる。括復的な散歩の時間に、(不可逆的な)時間の経過や人物の死、感覚の変化などが盛り込まれるのである(ここに内的通時性と外的通時性の関係と、場合によっては干渉の問題が存在するという)。括復法において出来事は、因果関係の連鎖といったものから解き放たれてから互いに結びつけられる。それぞれ別個の時間を混同するということ、それが括復法の特徴である(それゆえに外的通時性が括復法のなかに入り込むことになる、と言えるのか)。

[交替・移行]

古典的な小説の物語言説の総合が要約法であったのに対し、以上のようにプルーストにあっては括復法が物語言説を統べているように思われる。『失われた時』の物語言説のリズムを成しているのは、要約法と情景法の交替ではなく、括復法と単起法の交替である。

ところがこの交替について、片方からもう片方への移行を見極めるのが難しい、ということがある。冬のシャン=ゼリゼ通りへの散歩の場面を検討する。ここでは括復的な相を表す半過去形と単起的な相を表す単純過去形とが一見無造作に用いられているのだが、前者は場面における持続的な状態と解することができ、後者は始まりがあって終わりがある出来事を表していると考えることができる。前のパラグラフは括復的で、こちらはそれに続く単起的な場面なのである。

ここに例えば「ある時」というような時に関する限定が入っていれば、パラグラフの時制上の処理を踏まえて、この箇所が単起的な情景としてその前の括復法とはっきりとした関係をもつことになる。
(ここではそうした副詞による指示ではなく動詞のアスペクトで処理をし、何ともゆるやかな接続を実現しているということになるのだろう)

だがプルーストはそうはせず、それによって、単一の出来事が括復的な系列のなかで漂うような印象を与えるのだ。括復法で異なる時間に事後的な統一性を与えようとしていることがこの種の困難が生んでいると、思われる。

括復法と単起法の接点に明示的な指示がない場合、括復的・単起的どちらの相とも決めかねる「中性的」な緩衝材がふつう入っている。これには3通りのパターンがある。第一に語り手が物語世界の外で余談を語る場合で、第二が言明動詞を伴わない会話である。そして第三が、ふたつの相のあいだにいくつかの相が確定できない半過去やその他の時制を使う場合である(シャン=ゼリゼ通りの場合は接点に指示ないけど単純過去によって単起的だと分かるということか)。

明確な時間関係の指示を出さずに、時制の操作によって括復的─単起的の相を曖昧なままたゆたい・移行し・交替する。「音部記号の変化の伴わない転調」とはこうしたフランス語の過去形を用いた操作を指す。これによって、明示的・意識的・意図的それゆえ劇的な物語の時間性を、時制の操作によって自ら時間性が立ち上がるような技法を、プルーストは試みたのだ。

[《時間》との戯れ]

物語における時間の問題は、これまで「順序」・「持続」・「頻度」とそれぞれ別々に扱ってきたが、実際にはこれらは相互に密接に関係している。伝統的な物語言説においては、後説法は要約法と括復法を伴うことが多いし、括復法は順序関係や持続を解体しがちである。物語言説の時間を考察するには物語言説の時間と物語内容の時間を以上の例にみられるように全体的に考察する必要がある。

後説法はみたように括復法と結びつきやすいが、『失われた時』において、後説法は登場人物の記憶によって起動する。記憶は通時的に起きた出来事を一挙に呼び起こし、その配列をあらたに為すので、記憶は物語世界の時間性から物語言説を解き放っていると言える。これに対して出来事の生起した順序通りに物語が進むようになると、物語内容が優位に立ち、同時に単起法が優勢となる。『失われた時』においては、そうなって以降、情景法の増幅と省略法が今度は時間の歪みを与えることになる。この歪みは語り手がもたらす。

『失われた時』を構成や手法、文体の観点からみたとき、プルーストはこれまで3つの章でみてきたような時間を挿入・歪曲・圧縮することで、《時間》と戯れているのである。

第四章「叙法」

[物語言説の叙法?]

物語内容を報告する物語言説において、その言い切りかたには種々の差異が認められる。また、報告する際に種々の観点をとることもある。これらが物語叙法の問題であり、報告する際にどれだけ多くの情報を提供するか、それに関連してそれをどれほど直接的な仕方で行うかを前者の「距離」の問題で、どの観点に情報提供を担わせるかの問題を「パースペクティヴ」で考える。距離とは、「物語言説と物語られる対象とのあいだの」距離を指す。

[距離]

プラトンは、2種類の物語叙法を区別して論じた。物語言説を語り手が物語っていることを隠さない「ディエゲーシス(純粋物語)」と、物語言説を語っているのは語り手でなく登場人物であると思わせようとする「ミメーシス」である。後者の直接的な対話は、前者の間接話法等によって語り手に媒介されると、距離を増す。

その後この対はアリストテレスによって緩和されたが、一九世紀にヘンリー・ジェイムズらによってこの対は語ることtellingと、示すことshowingという形で概念化され、後者が顕揚されるまでになった。しかし、ウェイン・ブースも述べたように、ミメーシスないし示すことという概念自体が言語的事象である物語にとって不可能である。言語は意味するのであって対象を模倣するわけではないからだ。語ることが領分の物語はしたがって、「ミメーシスの錯覚」をさまざまな程度のディエゲーシスによって与えることになる。

実は、プラトンはミメーシスの対象を対話という言語的事象に限っており、「ミメーシスの錯覚」をどのように与えるかについての問い自体を避けていた節がある。言葉によるミメーシスは言葉についてのミメーシスでしかあり得ない。それゆえ「出来事についての物語言説」と「言葉についての物語言説」を区別して考える必要がある。

[出来事についての物語言説]

プラトンの出来事についての物語言説への数少ない言及をみると、そこには2つの役目がある。ひとつは、物語言説はその対象が存在していることだけを告げていてそれ以外ではないこと、もうひとつは、語り手が物語言説を語るという積極的な契機から下り、その対象が存在しているということに物語言説を委ねている、ということである。こうした細部がミメーシスの理論に関して、その錯覚を生み出すコノテーションとなっている。

ミメーシスの錯覚の度合いは、読み手が何をもっともらしいと認めているかによって変動しうる。歴史的に、ラシーヌに出来事のミメーシスをみる読者と自然主義にみる読者とがいるはずである。
テクストにおけるミメーシス性は、みたように物語世界の情報量と、語り手の不在の度合いの高さによって測られる。物語の対象については最大限語ることで情景を現出し、語っている当の事実については最小限にしか語らず語り手の透明性を維持する語り方が、ミメーシス的である。ミメーシスとディエゲーシスの関係は以下のように定式化できる。「物語情報+情報提供者=一定」。ディエゲーシスにはいまみたミメーシスと反対の規定ができるわけだ。

上の定式の左辺の第一項をみると、この規定は物語の速度に帰着することがわかる。物語の情報量は物語世界の進度に反比例するからだ。また第二項をみると、この規定は態の問題に帰着することがわかる。情報提供者についての指示が増大すればするほど、物語は語り手によって介入されていることになるからだ。

ミメーシス的な小説を支持する者にとってのすぐれた物語の形式とは、ノーマン・フリードマンの説を本書の理論で言い直すと、「物語世界外の語り手による、特定の作中人物に焦点化された」ものである。作中人物自身による語りは、その回顧性によって距離を生じてしまうが、上の形式はそれを避けることができ、読み手は焦点化された人物の行為や意識を「直接に」読むことができる。プルーストにおいてこの種の時間的隔たりは一向に回避されようとしないが、かといってそのことによって叙法における距離は生じない。それどころかミメーシス性は発揮されている。媒介主体についての情報は精細でありながら、記憶にかんする直接性も存在しているのである。

[言葉についての物語言説]

言葉についての物語言説、つまり物語世界における発話にかんする物語言説は、模倣であるように思われる。厳密にいえば、語り手は話されたことを語るでもなく書き写しているのだ。

これに対して発話が幾分か語り手によって引き受けられている物語言説がある。前者を「再現された」言説、後者のうち、発話が他の出来事のなかのひとつとして扱われているもの、発話における台詞とふるまい、心情の区別が一緒くたになった行為として語られるものを一般に「物語化された」言説、発話の要素とその関係をある程度残しているものを「転記された」言説と呼ぶ。この場合、発話は内的なものであっても構わない。登場人物の思考や感情も、上と同様に考えることができる。

距離との関連でこの3つの語り方を考えると、物語られた言説がもっとも距離が大きく、発話の出来事への還元度がもっとも高い。発話は(語り手によってまとめ上げられた)行為へ、その行為が人物の内面を表すものであるならばその思考を語り手は「分析」という手段によって、(還元的に)語ることができる。それは「物語化された内的言説」と言える。

転記された言説については、間接話法と自由間接話法とを分ける必要がある。間接話法は、文の統辞法に語り手の存在が読み取れる。発話をこの話法中に圧縮し、自らの語りへ統合することによって、すでに語り手は発話された言葉を「解釈」していることになる。自由間接話法は、声は語り手のものを利用しながら、焦点は発話者にある話法のことである(Am I happy?という声も焦点も発話者に対して、Was she happy?の類。語り手=作中人物の場合、自由直接話法と自由間接話法の区別については、作品毎に人物の内言の文体を考えなければならなそう)。

間接話法との決定的な違いは言明動詞の不在である。これによって文脈によって、発話された言説と内的言説とが、次いで人物の言説と語り手の言説とが混ざる(ジュネットが挙げているのは語り手=作中人物の場合だから、直接なのか間接なのかが迷われる訳だ。語り手が物語世界外の人物だったら「混同」というより「溶け込む」みたいになる。前者も混ざるとは言えなくなる)。

再現された言説は、出来事についての言説について言われていたように、語り手が語るという契機から降り、言葉を登場人物に委ねているようにみえる。「再現された言説」は、人物の発話を作品における重要な要素として立てる演劇と類比する。アリストテレスにおいてミメーシスが顕揚されて以降、こうした演劇的な語りは「情景」という用語にもみられるように、小説のある種の規範となっているかのようである。

近代小説の根底的な革新を目指した動きのなかには、何者かによって語られているといった水準を消滅させて、作中人物に声を直接与え、言説のミメーシス性を極限化するものがあったようだ。通常これは「内的独白」と呼ばれるが、要点は言説が内的なものに関わっているということではない。そのためこれは「直接的言説」と呼んだほうがよいと思われる。

直接的言説と再現された言説のテクストの上での違いは、言明動詞の有無のみである。直接的言説(自由直接話法でよいだろうか?)は焦点人物が語り手に取って代わって話している。

以上のような話法ないし語り方は、実際のテクストでは必ずしも截然と見分けられる訳ではない。《スワンの恋》において私たちは、物語られた言説→間接話法→自由間接話法→間接話法→物語られた言説という継起をみることができる。

『失われた時』における登場人物の声(自由直接話法にしろ自由間接話法にしろ間接話法にしろ)は、思考や意識の二重性を示している。つまり、実際の願望とは裏腹の事を内言であるいは声高に言い立てるところに特徴がある。

みたように、プルーストの内的言説において直接的言説(自由直接話法?)はほとんど見られない。マドレーヌのエピソードにしても、語られた経験は論証という目的をもって語り手に担われていることが明らかである。『失われた時』で直接的言説がみられるのは、ただ一度きりである。

プルーストの内的言説の処理は伝統的な小説のそれと同じものだが、それは彼が内的独白を始めとする直接的言説の試みの背後にある「未生の意識が言語に載ることへの信頼」を持っていなかったからでもある。そのような意識の記述がある場面でも、それは先のマドレーヌと同様、夢の意識と覚めた意識の断絶を描くための一要素として出てくるのに過ぎないのである。

表に出る発話はどうかといえば、プルーストは語り手と作中人物の言説は区別がはっきりしており、再現された言説が主調をなしている。第二に、作中人物のそれぞれがその発話における言語上の特徴をもっているか、それが文体ないし人格にまで高められていることがある。後者の場合、ある特徴をもったひと纏まりの言語は次の機会にさらに模倣され、ついにはもともとのその文体のように、という形で自己複製をするに至ることが特徴的である。

[パースペクティヴ]

「パースペクティヴ」とは、ある焦点化を施すことによって物語における情報を制御する、距離と並ぶ2つめの方法である。パースペクティヴについての研究では、どの人物の視点が採られているのかという問題と誰が語っているのかという問題が混同されてきたが、これを区別し、本章では前者を焦点化として扱う。焦点化とは一般に「視点」と呼ばれるもので、そこには視覚以外の情報も含まれるためこの語を使用する。以下の3つの分類をおいて、パースペクティヴの問題を考える。

  1. 《語り手>作中人物》

  2. 《語り手=作中人物》

  3. 《語り手<作中人物》

1はどの作中人物が知っていることよりも、多くのことを語り手が語る場合(いわゆる全知の語り手)、2はある作中人物が知っていることしか、語り手が語らない場合(「視野が限定された」という言い方をされる)、3は作中人物が知っていることよりも少なくしか、語り手が語らない場合(例:その人物の行動のみを書くなど)である。

[焦点化]

第一のタイプを「非焦点化」の物語言説と呼ぶ。物語言説が誰の「視点」も取っていないからである。第二のタイプを焦点人物のパースペクティヴから語られる「内的焦点化」の物語言説と呼ぶ。これを作品毎に採用されている物語言説の型と取ると、さらに3つに分けることができる。ある一人の人物に焦点人物を限る「内的固定焦点化」、焦点人物が作品内で切り替わる「内的不定焦点化」、さらにある単一の出来事に対して、焦点人物が複数登場する「内的多元焦点化」である。第三のタイプは、「外的焦点化」の物語言説である。行動など表に現われるものが語られるため「外的」と付される。外的焦点化の物語言説は謎を醸すこと、暗示することを目的に使われうる。
ある作品において常に一貫して特定の焦点化が守られるとは限らず、焦点化の理論は物語言説の一部分に対して考えてもよい。焦点化の区別はまた、物語言説の性質ではなく文脈によって定まる場合がある。

作中人物を造形する際に、作中人物の内面だけを描き出すことは稀であり、むしろその人物の世界との関わりが併せて入り込んでくるのが普通である。(内的焦点化には焦点化人物の認識や知覚と感覚の表出がもろともに含まれるのであって、)実用的には、ある物語言説の人称を一人称に置き換えても文法的に適格であれば、その物語言説は内的焦点化であると言うことができる。

[変調]

みたように、作品は自由に焦点を変じることができる。他方で作品に一貫した焦点化の文脈があって、そこから別の焦点化が現れる場合、それを「変調」として分析することもできる。支配的な焦点化が与えていた情報よりも、少なくしか情報を与えない焦点化が入り込んでくることを、錯時法の時と同様に「黙説法」と呼び、反対にそれまでの焦点化よりも多くの情報を与える場合を「冗説法」と呼ぶ。

黙説法の例には、スタンダールの『アルマンス』を挙げることができる。スタンダールは主人公の独白の再現をしたり物語化された言説によって心理を記述しているのに、彼の性的不能についての悩みは一切触れていない。推理小説のトリックにおいても、全く黙説法が用いられなかったなら事件のことが全てその都度読者に知られてしまうだろう。

冗説法は、外的焦点化が基調の物語言説に作中人物の意識へ踏み込んだ言説が入り込む場合、また内的焦点化が基調(あるいはすでにそれが為されているの)であればそれまでの焦点人物以外への内的焦点化や非焦点化の言説へ踏み込む場合を考えることができる。

種々の焦点化によって与えられた「情報」と、その情報に読み手が与える「解釈」──それが誘導されていようと別段そうでなかろうと──は区別して考えなければならない。作中人物は理解しなかったものとして出来事が提示されていても、読者には充分理解できたり、そこに暗示を読み取ることができる場合がある。これは明示的な情報が暗示的な情報の指標となっているということであって、外的焦点化の物語言説がこのように機能することは珍しくない。

[多調性]

主人公と語り手が異なる人物の場合、語り手が、主人公にかんする物語を守ろうと自らの態度を表すのを抑制するという傾向がみられるが、語り手と主要な作中人物が同一である場合、もとよりこのような抑制は必要がないために、語りの時点での意見を物語ることには物語が過去に隔たっていればなおのこと自由であるはずである。語り手=主要な作中人物の物語言説において、その作中人物への焦点化が守られるとしたら、それはそのような選択(=黙説法)と見做すことが可能でさえある。
(これ、注にあるように、語りが同時的な場合に加え、語り手に充分に知が与えられていない場合もあるよな)

プルーストは『失われた時』においてこの種の主人公にたいする内的焦点化を守り、主人公の種々の「至らなさ」からそれらに対する啓示的な了解に至るまでの進展を丸ごと描こうとした。その間の記述には、語り手の語りの時点からの評価も含まれているが、上記の制作意図が理解されないままに終わる可能性も、こうした内的焦点化には付きまとっている。また、これに類して、後に至っても内的焦点化が解かれずに、最後まで事の真相がよくわからないといった箇所も存在する。アルベルチーヌがどうしてキスを拒絶したのかという場面である。

内的焦点化を守っているとき、焦点化人物以外の心理を書きたい場合は、推測や仮定の形をとれば可能となる。この種の仮定が累積されて提示されると、内的焦点化されている事実がむしろ照射されて、言及対象が物語言説において了解不能であることを暗に示すことになる。これに関連して、主人公が他者のプライバシーや情事に接近しようと試みている場面で、その情報が非常に限定された形でしか提供されていないことは示唆的である。それは内的焦点化のありようの象徴であり、ある限られた視点から他人のなかに入り込もうとするときの困難を証し立てていると言える。

このような内的焦点化の遵守は、出来事の欠落、すなわち黙説法にまで至ることがある。語り落とされた情報は後になって語り手によって提供される。語り手と主要な作中人物が同一である物語が含意するのは、本節のはじめに見たように、語り手に対する焦点化なのだ。『失われた時』においては、主人公にたいする焦点化と、語り手に対する焦点化は共存する。語り手の焦点化が明らかに認められるのは、例えば「予告」である。より一般的には、あらゆる先説法についてもこれが言える。 

また語り手に対する焦点化は、明示的でなく「そのとき私は知らなかった」といった言説でも示唆される。主人公に対するこの種の介入を、作家の介入としてしまうのは正しくない。ある時点で主人公にとって未知であった事柄を、後になって語っている語り手が知っているということなのであり、主人公のもっている情報と作者のもち得る情報との間には、語り手のもっている情報が入るのだ。自伝的な作品におけるこのような情報の出し入れは、唐突に思える場合であっても本節冒頭で述べたように正当化されるし真実らしくもあるのである。主人公の事後の姿である語り手に帰することが不可能な場合にのみ作者の水準で考えるべきであり、ベルゴットの今際の際の思考は決定的な例である。冗説法と言える。語り手の焦点化に帰することができるか、あるいは非焦点化として考えざるを得ないかは、物語世界の展開によっても決まってくる。

プルーストの語りは、主人公への焦点化から語り手の焦点化への移行はもちろん、非焦点化へも移ってゆくわけである。それは焦点化の基調がもはや優位として機能せず、調子の中間的な状態が現出しているかのようである。これをプルーストの物語言説の「多調性」と呼んでおく。このような叙法の揺動は、語り手の水準や活動と深く結び付いているのだった。「態」の考察へと進もう。

第五章「態」

[語りの審級]

物語言説は、それを語っている人物と、その人物がどのような状況で語っているのかの考慮を抜きにしては読解できない。物語のこうした契機を「物語行為・語り」と呼んでいた。物語行為・語りの含意は作品によってその重要性を異にする。物語行為・語りについて種々の区別をして考察していく。

「態」とは、物語言説と動作主、語り手、物語言説の受け手である「聴き手」との関係を指す。これまで態は「視点」の問題と、物語行為・語りは「書記」、したがって語り手は作者と、物語言説の受け手は作品の読み手と、混同されてきた。しかし虚構の物語において、語りを引き受けている語り手と書記行為・作者は異なりうる。語り手が物語内容を知っていても、作者はそれを想像しているに過ぎないのだ。虚構の物語言説のあらわす物語の状況は、書記行為には還元しえない。

こうした物語行為・語りの語り手が作中で変化することはありうる。逆に、べつの人物の物語を同一の語り手が引き受けているとして、物語行為・語り手の引き受け手のこうした不変化も考察の対象となるだろう。物語行為・語りとその時間的な限定を「語りの時間」において、物語行為・語りが物語の状況ともつ関連を「語りの水準」において、語り手や聴き手と物語内容の関係を「人称」において考えてゆく。

[語りの時間](語りの時点?)

ある物語内容がどこで語られているかについて明示する必要はないのに対し、物語行為・語りがそれとの時間的な関連づけをして提示されることはほとんど避けられない。(ここで、完結した過去の時制を導入にもち、物語内容を進行している相において提示する「物語の現在」は別問題として区別されている。→[擬似物語世界の…]回想論?)

『失われた時』の場合、主人公の幼少期の悲劇と語りに近しい時点の隔たりや、それに語り手が与える生気は、物語言説の意味の核心を成している。

その種類は、物語行為・語りが物語内容に対して「後に」位置し、もっとも一般的にみられる「後置的なタイプ」、その反対に物語内容が物語行為・語りに対して後に位置する「前置的なタイプ」(これは時制が現在形であっても構わない)、現在形で語られ、物語行為・語りと物語内容が同時点に位置する「同時的なタイプ」、ある物語行為・語り-物語内容の時点にべつの物語行為・語り-物語内容の時点が挿入される「挿入的タイプ」の4つがある。

挿入的タイプは、複数の物語行為・語り-物語内容における時点が含まれていて、そのうちの一つの単位が物語内容に「逆作用」を及ぼすことがあるために、もっとも複雑である。書簡体小説が好個の例である。日記体の小説においても、近接した過去と「同時的なタイプ」が織り交ぜられることで、圧縮された食い違いの効果(ある移動速度から急に速度を落としたときに感じられる大気の圧縮とスローモーションの効果?)を生むことがある。

同時的タイプでは、物語内容と物語行為・語りの時間的位置が一致することで、どちらかに力点が置かれることがある。言表行為の痕跡の一切を消滅させようとすると物語内容を映しているだけのような物語言説となり、反対に内的独白のように力点が物語行為・語りそのものに置かれると、物語内容が口実であるかのように扱われることもある。

前置的なタイプは、二次的な水準においてしか姿を見せない。つまり、前置的な物語行為・語りはその物語内容に対しては予報的であるけれども、メインとなる物語の水準に対してそうであるとは限らない。

最後の後置的なタイプは、物語行為・語りと物語内容がどれほどの時間によって隔てられているかを具体的に指し示すものではない。他方で後置的なタイプがあとになって同時性を露わにする場合がある。これは物語内容の持続が物語行為・語りと物語内容のあいだの時間的距離を埋めていくことをもとにして、あるとき突然物語世界の、物語内容と語り手のあいだの等質性が明らかになるということである。等質物語世界-物語世界外(「一人称」)の物語言説の場合、こうした同位性は初めから明らかである(ので、単に物語内容が物語行為・語りの時点に追いつくこととなる)。

このように物語内容の持続が物語行為・語りの時点に追いつくことはある。また、物語行為・語りには持続を要するというのは、物語世界の中ではしばしば扱われる題材である。ところが、物語世界外の(虚構の)物語行為・語りに、持続が存在すると見做されることはない。物語行為・語りは瞬間的(=無時間的)行為だとされているのである。

『失われた時』の語りもまた然りである。テクストの最終版をみると、語り手が「今日」というとき語り手の現在(物語言説より推定される)よりも以前の時期を指している箇所が認められるが、これは作品の現実の生成過程として捉えなければならない。物語行為・語りの時点は最終版によるべきなのであるから、このことは『失われた時』の物語行為・語りを瞬間的行為と捉えるにあたって何の問題も生じない。プルーストは、物語行為・語りの時点と物語内容の種々の時点の漸次的な接近を錯時法や括復法、情景法の長大化によって現出させた。

物語行為・語りの時点と物語内容における主人公の時間がどのように接地するかについては、主人公が自らの天職(文筆)に気づいて筆を執り始めるという時点で物語言説が閉じられることから、物語行為・語りの時点へ向けた出発点に立った時点まで主人公が辿り着いている、ということになる。『失われた時』がその小説だとも言えるわけだが、それは語られた物語言説の主題である「発見」ではなく「仕事」に属することなので、語られることはない。以上のことから、物語行為・語りの時点と物語内容の終末の時点の隔たりは、主人公が物語を書くのに要する時間ということになる。

[語りの水準]

『ある貴族の回想録』においてデ・グリューが語る物語言説と、それが語られている「金獅子亭」とのあいだには「水準」の差異が認められる。デ・グリューの物語言説はルノンクール侯爵の金獅子亭についての物語言説に含まれている。デ・グリューはルノンクールの物語言説の作中人物であって、デ・グリューの物語言説はルノンクールの物語言説のなかの出来事のひとつなのである。

水準の差異は以下のように定義される。「ある物語言説によって語られた出来事は、その物語言説を物語る物語行為・語りの水準に対して、ひとつうえの水準にある」。ルノンクール侯爵による虚構の『回想録』の執筆を、「物語世界外」の水準と呼ぶ。『回想録』のなかに含まれている諸々の出来事は「物語世界(物語世界内)」の水準に位置している。そしてデ・グリューの物語言説のなかで物語られた出来事は「メタ物語世界」の水準と呼ぶ。物語の水準は出来事や状況の相対的な位置を示す。物語世界(物語世界内)のことを「第一次的」、メタ物語世界のことを「第二次的」と呼ぶこともある。

物語行為・語りの水準については、第一次物語言説のそれを物語世界外、第二次物語言説のそれを物語世界、等のように言うことができる。こうした水準間の関係性は、各水準が「虚構」によるか「現実」によるかに左右されるわけではない。事実、物語世界外の物語行為・語りが虚構の語り手によって担われることはあり得るし、また物語世界・メタ物語世界に現実の歴史的な存在が登場することもあり得る。問題となっているのは物語行為・語りであって制作行為ではなく、物語なのである。

(とはいえ)物語世界外の物語行為・語りがすべて作品として語られるわけではなく、その語り手が一般的な読者に向けて語っているとも限らない。日記や書簡体小説がまさにそうである。また、それは必ずしも書かれたものでもない。内的独白は、それがどのようにして読みえるテクストになったのかという形式にかんする問いを退ける。それは作者によって神秘的に転写されたものである。

物語世界内の物語行為・語りも、口頭によって語られるもの、書かれたもの、作品の形をしたテクスト、内的な物語言説、であり得る。夢や記憶による回想が、その例である。

[メタ物語世界の物語言説]

第一次物語言説と第二次物語言説のありうる関係を、3つのタイプに分けて考える。第一のタイプは、両者が等質物語世界であって、物語世界の出来事にメタ物語世界の出来事を因果関係で結びつけ「説明」する機能をもっている。いまの物語世界の状況はしかじかのメタ物語世界の出来事によってもたらされた、という形である。この際、第二次物語言説がもっている機能は物語世界の場に優先する(機能としては大きくは補完的後説法に分類できる)。物語世界の人物にとっては不足になるが読み手にとっては冗長となるがゆえに、第二次物語言説が縮約されることがあるのだ。

第二のタイプは、両者が異質物語世界的で、物語世界と第二次物語言説がテーマ的に関連をもっている場合である。その関連の仕方は「対照」か「類似」に帰着する(対照の方は掘り下げられていないが物語世界の「暗示」とかだろうか)。こうしたテーマ的な関連は、物語世界やその人物たちに影響を及ぼしうる。「説得」が類似の関係の主要な機能である。

第三のタイプは、両者が異質物語世界的であることに加え、物語世界と第二次物語言説とのあいだに明示的な関係がない場合である。この場合物語世界で機能を果たしているのは物語行為・語りそのものであり、それには「妨害」などが考えられる。

以上から、第一のタイプから第三のタイプにかけて、物語行為・語りの重要性が増していることがわかる。第一のタイプでは物語世界と第二次物語言説は連続しており、第二次物語言説がもたらしたものは物語世界(と読み手)の認識の変化のみである(言葉ではない出来事と言説の対比がある)。第二のタイプでは物語行為・語りの媒介がなければ両者は結び付けられなかったのだから物語行為・語りは不可欠だったことになる。第三のタイプでは焦点が物語行為・語りそのものに置かれているので物語行為・語りが重要である。この場合、第二次物語言説を生み出す物語行為・語りはまさしく物語世界における行為の一つであることが明白になる。

[転説法]

物語世界の水準の移行をみてきてわかるように、移行を担っているのは物語行為・語りである。物語行為・語り以外が担った水準の移行は、なべて違犯として感じられる。物語世界外の者や事柄が(あるいは物語世界の者が)物語世界へ(メタ物語世界へ)侵入すること(a)、また物語世界の者が(メタ物語世界の者が)物語世界外へ(物語世界へ)飛び出してくること、さらには物語世界外の者が別の物語世界外の者へ(もしくは現実世界の者へ)働きかけること(d)、これらをまとめて「転説法」と呼ぶ。

この種の古典的な手法の一つは、(aもしくはdと思われる)物語内容の時間と物語言説の時間を利用するというものである。物語内容の持続を物語言説の紙幅(≒時間)に費やす口実としたり、物語言説の時間が物語内容の時間に影響を与えるといったケースである。転説法はいずれも、物語における物語行為・語りの限界を極めるような効果をもっている。物語の水準とセットになっている物語行為・語りを違犯によって超えようとすることで、物語世界外-物語世界-メタ物語世界etc...という構造をも突き崩す野心を秘めているのだ。

転説法に関連づけることのできる手法として、原理的に、あるいは元々は、ひとつうえの水準に属しているかそういうものとして提示された物語言説を、その手前の水準で物語る、というものがある。デ・グリューの語った物語内容を、ルノンクール候爵が彼から伝え聞いたことを認めた上で、自ら語り始める、といった場合を考えてみればよい。物語行為・語りの水準がひとつ縮約されるのであって、こうした手法を「(物語世界に)還元されたメタ物語世界」、もしくは「擬似物語世界」と呼ぶ。

こうした還元はつねに明瞭に判別できるとは限らない。水準の差異についての注釈のほかに、人称の変化くらいしか標識を見出せないからである(つまり等質物語世界-物語世界外の物語言説の場合は判明でなくなる)。

[『ジャン・サントゥイユ』から『失われた時』へ──擬似物語世界の勝利]

『失われた時』の語りの選択を見る前に、その初稿にあたる『ジャン・サントゥイユ』のそれを見ておこう。『ジャン』では物語行為・語りは二重化されている。物語世界外の語り手が友人と作家Cの知り合いになり、Cの死のあと原稿を入手して発表したのが『ジャン』である。注目すべきなのは、物語世界にいる語り手が語る『ジャン』の物語がCのものであって語り手のものではないこと、その物語言説が(語られたものでなく)書かれたものだということである。第二の点については、書かれた文学的言説であることによって『ジャン』への距離意識が一層露わであるのが窺える。作品の生まれた経緯として作家が道中で出会った人物に物語を語らせ、それを自らの小説とする、という方法もあったはずだが、プルーストはそれを採らなかった。

『失われた時』では、メタ物語世界の物語言説は原則排除され、物語世界外の語り手によって直接引き受けられるようになる。メタ物語世界が入り込むのは、物語世界の主人公ではない別の人物による物語行為・語りが何らかの意味で注目に値する場合に限られる。

元来はメタ物語世界に属するはずの事柄を語ろうとするときに語り手が採用するのは、擬似物語世界の物語言説である。回想が擬似物語世界として語られるか、物語世界の人物の物語言説がそうされるかの2つの場合がある。前者の場合、回想はあるタイミングで喚起されるのだが、物語言説はいずれ自らが回想であったことを忘れ、(もともとは物語世界外の語り手が物語世界について語っていたところ、回想によってメタ物語世界への入り口に差しかかっていたはずが)語り手によって直接に引き受けられた物語言説であるかのように展開してゆく。(読み手はいま読んでいる物語言説が想起された過去の出来事であること、つまり語り手の物語世界外という水準を忘れ、回想の出来事に直接接するかのようになる。)『失われた時』は全体が回想という資格を持っているが、それはほぼ全体がこうした擬似物語世界の物語言説として引き受けられる。
(回想に関して、そこそこ普通のことを言っているという感じもしていて(回想と物語の現在)、プルーストは回想に入ってゆき戻る手付きが一層滑らかで巧妙ということか?)

後者は、語り手が直接は知り得ず、他の人物を介してのみ語り手が知ることができたエピソードがこれにあたる。それを擬似物語世界として語るのは、物語行為・語りの権限を他の誰にも明け渡したくないと語り手が思っているかのようである。もっとも重要な例である《スワンの恋》では、このようにして語っていながら、語り手は自らの存在の痕跡を物語言説に残しておくことも忘れない。語りの自己中心主義というものがここにみられる。スワンは『失われた時』においては「不完全な先駆者」であり、物語行為・語りの声を求める資格はないのだ。(この後「言挙げ」の魔術的な力のようなものが言われる)

[人称]

語り手の「人称」は、明示的にせよ暗示的にせよ物語において不変の要素で、語り手は原理的に「一人称」としてしか存在しえない。((それゆえ)語り手は物語言説へ介入する絶対的な権限をもつのである。)

作者の物語行為・語りの選択には、作中の存在に語らせるか、作中に登場しない語り手を選ぶかの2つしかない。後者を「異質物語世界」、前者を「等質物語世界」と呼ぶ。

等質物語世界においては、語り手が物語世界の「主人公」である場合と、二次的な「観察者」といった役割を果たしているに過ぎない場合がある。前者を「自己物語世界」と呼ぶ。

こうした物語世界に対する語り手の関係は、一つの作品につき普通固定されたものである。語り手がいなくなったり同一人物が別の人称で呼ばれたり(同じ事である)すると「違犯」のように感じられ、こうした場合テクストの生成過程でのエラーと見做せることも多い。ただボルヘスなど一部の現代小説では、確固とした人称性じたいに疑問を投げかけ、それを超え出ようとするような試みもなされている。

『失われた時』は物語世界の水準や括復法などにおいて限界的な作品であるが、自己物語世界の物語言説である。『ジャン』の自己物語世界化、語りの水準の一元化はどうして行われたのか、限界的な自己物語世界の物語言説の困難とはどのようなものか、見極める必要がある。

「物語世界外か物語世界内か」という語りの水準、語り手が「異質/等質物語世界」のどちらに位置するかに注目すると、語り手の境位を区分することができる。(1)異質物語世界外のタイプ(「全知の語り手」)。(2)等質物語世界外のタイプ(マルセルはこれ)。(3)異質物語世界内のタイプ(シャハラザード、C)。(4)等質物語世界内のタイプ(ある部分のオデュッセウス)。

『ジャン』と『失われた時』を比べると『ジャン』の「物語世界外の「私」-物語世界内のC-メタ物語世界の主人公「ジャン」」が『失われた時』では一つに統合されていることがわかる。ここで『失われた時』よりも『ジャン』の方が自伝の要素が強いことを突き合わせると、『失われた時』では自己というものが、単なる主観性ではなくある脱中心化を施されて語られているということが見てとれる。次に異なる物語言説の水準の擬似物語世界化については、絶えず物語言説の水準を変えてその都度語り直すこと、いわばその註釈の律儀な手続きという障害を取り外し、自己物語世界の直接的な物語言説として語りたいという要求が働いたとみることができる。この場合、語り手に厖大な知識の範囲を要求することになりえる。

プルーストは異質物語世界の物語言説の与える隔たりには満足できず、また自己物語世界の物語言説の特定の人物の焦点化による制限にも満足できなかった。結果、擬似物語世界の物語言説などの荒技をもやってのけたのだ。

[主人公/語り手]

自己物語世界の物語言説では常にそうであるように、語り手と主人公の2つの行為者は、時間や知識の差異によって隔てられており、それゆえに語り手の方は主人公を優越意識をもって扱いうる。他方『失われた時』においては、両者は「啓示」によっても隔てられている。ここにいたって『失われた時』はアウグスティヌス『告白』のような宗教文学のような作品となるのであり、主人公が近づいても到達することのできない《真理》を、語り手は掴んでいるである。誤謬と叡智の隔ては「啓示」以降消滅し、以降、行為においては主人公は作品を書くということにおいて語り手と隔てられているものの、思考においては、言い換えれば『失われた時』の物語言説においては、一致することになる。

[語り手の機能]

物語行為・語りは物語内容を語る「語りの機能」の他にもいくつかの機能を担うことができる。また物語行為・語りは物語言説に介入して物語世界の編集やそれに関する言及をすることができる。これは「管理の機能」と呼ぶ。また物語言説においては、それを受け止める「聴き手」が想定され、語り手によって働きかけられもする。書簡体形式などにおいては、手紙の受け手の存在は物語言説を根底的に規定する要素である。これを「コミュニケーションの機能」と呼ぶ。

さらに語り手は自分の物語る物語内容に対してどのような態度をもっているのか語ることもある。エピソードにかんする感情や回想の正確さについてのコメントがこれである。「証言(証明)の機能」と呼ぶ。最後に、物語内容や物語言説についての注釈がある。これは「思想的機能」で、プルーストがよく用いるものでもある。

プルーストはこの思想的機能を語り手に独占させている。知にかんする言説、理論的言説はマルセルに独占されているのだ。『失われた時』の登場人物はみな対話の相手でも、独自の声をもつ者でもない。いわば語り手の「だし」にされるのであって、これは『失われた時』の知的な意味における唯我論的側面である。自己物語世界の権限とはこういうものである。

[聴き手]

聴き手とは、語り手と同様、物語が含み込む状況の一要素である。語り手が作者と必ずしも一致しないように、聴き手もまた必ずしも読み手と一致しない。

物語世界内の語り手には物語世界内の聴き手が対応する。物語言説におけるその標識は、人称のみである。この場合、聴き手はそのような人物しかあり得ない。読み手がそのように想定されることはない。

反対に物語世界外の語り手は、物語世界外の聴き手を相手とする。この場合は現実の読み手と同一視されうる。特定の読み手(の層)に働きかけることもあるが、どちらにしても不確定な読み手を聴き手とすることが特徴である。物語世界内の語り手が物語世界内の聴き手に向けて語ることによって物語世界外の読み手が隔てられていることと比べるならば、物語世界外の語り手と聴き手のそれはより直接的であり、その隔ての少なさから聴き手を読み手と置き換えることも一層正当化されうる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?