新しい画材のこと。
なんの事かって最近、iPadで絵を描いているんですが、自分としては新しい「画材」を手に入れた気分で描き込んでいくのがとても楽しいこの頃。
色々描いてて思ったことがありました。今までは鉛筆、ボールペン、マジックペン、コピックペン、スプレー、アクリル絵具を主に使ってましたが、iPadではそういったテイストになるようタッチが選べます。
やはり今まで使っていたものと類似するタッチを選んで描いていますが、「違い」に気づいて、驚きと喜びがあります。
鉛筆は削らなくてよくて、インクも減りません、スプレーの押し加減も悩みません、絵の具も混ぜません。この工程があるから考えることもあるし、ミスもあるし、まぐれみたいな筆致になるのも楽しめたりしましたし、
紙なのかキャンバスなのか板なのか壁なのか、支持体に近づいたり離れたりしません。画面を自由にピンチイン、アウトで変えれます。
これだけiPhoneも普及して生活に当たり前になっているのに、いざ自分がそれで描こうとしたら体が慣れるまで「ほう、ほう」、「なるほど」、と毎回毎回その感触を確かめながら描いています。
そこでまた気づいたのはこれは「データ」なんだということでした。具体的な物体ではないのに自分達はそれを鉛筆のよう、ペンのよう、絵の具のようと認識できるということです。よもやこの議題すら、何を今更なのは分かるのですが、こうして絵を描くという行為においても「生」の距離は変わっているんだなと感じています。
かのピカソは画集が本物の作品と色が全然違うと指摘を受けた時、「印刷」された私の絵は私の想像を超えた色使いで形になってくる。と、「印刷」を一つの技法として認識していました。
思えばテレビやゲームも視覚情報として色や形を認識して成り立ってると思うと「情報」という画材で描くということは、現代では当たり前だったんだなと再々認識しました。
そんなiPadで描いてて思ったのが、俗に言う「自然」のものが描きづらいということでした。空、木、水、土、火、そういったものが描きづらかったんです。なんでかなーと思っていると、「自然」のやつらは単色が強くとてもビビッドでハッキリしてるけど存在はぼんやりしてます。
かくして、「人工物」のやつらは、単色なのに、その色に見えるために多くの素材を使ってるせいか情報量が多いです、なのにその物はその色である必要性がないのにその色だから、ペラッペラです。ですがiPadではとても描きやすいです。
これは相性として、「自然」の素材に近いもので描くことと、「人工物」に近いもので描くことは構成物が近い分、描きやすさも違うんだなと感じました。(言及していけばこの「自然」の定義も変わってきますが今回は省略w)
村上隆さんの物理的にも概念的にも「フラット」であるという提唱にも通ずるのかなとも思いました。
つまり現代において、どちらがリアルかというと、人工物の中での生活や創作が大多数において「自然」なことなんだなと思ったわけです。
なるほどなー、言葉的にパラドックスしてきたけど、iPadだったりなんだり、「絵として認識させるための情報」という画材で絵を描くのが当たり前な時代なんだなってことです。
だけど自分は紙に鉛筆で書くのが好きだし、筆圧が強すぎて紙が破けて「げっ!!」って思うのも好きです。今も部屋に描きかけキャンバスが立てかけられて機を待ってたりもします。床は思ったよりスプレーが飛沫してカラフルです。描いてる時は体も汚れますし、部屋も匂いがつきます。物質的に絵がいます。
と、まあそんな時代のことを考え、加味しながら、今の自分にリアルな「画材」で絵を描くんだろうなと、そして今後生まれてくる子供たちはどんな「画材」で絵を描くんだろう〜、なんて思いながら、
今日もiPadで絵を描きます。
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